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鹿子木健日子

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鹿子木 健日子(かのこぎ たけひこ、かのこぎ ケーニヒ[1]、男性、1914年6月17日 - 1992年2月19日[2])は、日本のバスケットボール選手、指導者。193cmの長身選手として1936年ベルリンオリンピックに日本代表として出場した[3]

経歴

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1914年東京生まれ。東京府立五中武蔵高校を経て、東京帝国大学経済学部に進学[4]。在学中は籠球部レンジャースに所属して主将を務めた[5]。1936年のベルリンオリンピックには、バスケットボール日本代表として出場した[6][7]

大学卒業後は日産自動車に勤務したが[1]、戦後退社して陶器の輸出入を手掛ける茜商会を起業した[1][8]。会社経営の一方で日本バスケットボール協会の理事として後進の育成にあたり[2]、1957年5月には日本スポーツ界代表団の一員として中華人民共和国を訪問した[9]

1992年死去、享年77歳。

家族

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父は哲学者・海軍軍人の鹿子木員信、母はポーランド系ドイツ人で武蔵高校ドイツ語講師の鹿子木コルネリア(鹿子木ネリー、鹿子木練子。後に員信と離婚)[1][10][11] 。母方の祖父はサンクトペテルブルク大学の古典学者、タデウス・ジェリンスキー英語版[12]

妻の邦子は岩倉具明子爵(岩倉具経の長男)の娘[13]。娘の村口晴美は学習院大学ドイツ語講師[11][12]。村口晴美の夫は建築家の村口昌之[11]

脚注

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出典

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新聞

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  • 「代表選手プロフィル 鹿子木健日子=籠球」『読売新聞』1936年2月18日、朝刊4ページ。
  • 「東大篭球部役員」『東京朝日新聞』1936年2月21日、朝刊4ページ。
  • 「鹿子木健日子 バスケット界の“野党”に」『読売新聞』1959年12月13日、朝刊17ページ。

論文

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  • 杉本俊朗、細谷新治、菊川秀男、程島俊介「<対談> 経済学文献を語る(2・完)」『経済資料研究』第19巻、経済資料協議会、1986年6月30日、1-65頁、ISSN 0385-35862013年1月6日閲覧 
  • 村口晴美「随想「遠い昔のこと」」『HEARTの会 : 会報』第66号、人間環境活性化研究会、2011年、37-41頁、2022年3月16日閲覧 

ウェブサイト

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データベース

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外部リンク

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