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高田信一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高田 信一
1953年ごろ
基本情報
生誕 1920年1月24日[1]
出身地 日本の旗 日本東京府荏原郡大森町(現東京都大田区
死没 (1960-01-16) 1960年1月16日(39歳没)[1][2]
学歴 東京音楽学校
ジャンル クラシック
職業 作曲家指揮者

高田 信一(たかた しんいち 1920年1月24日[1]または1921年11月5日[2] - 1960年1月16日[1][2])は、日本作曲家指揮者である。元広島大学教授。日本交響楽団(現在のNHK交響楽団の前身)、東京フィルハーモニー交響楽団の指揮者を務めた。

生涯

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幼少期から青年期

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実業家の息子(4人兄弟の長男)として、1920年(大正9年)に東京府荏原郡大森町(現在の東京都大田区)で生まれた。1926年(大正15年)に成城小学校(現在の成城学園初等学校)に入学、8歳から上野耐之に音楽の初歩を学び、1932年(昭和7年)に成城高等学校(現在の成城学園中学校高等学校)尋常科に入学後は、12歳から藤田喜与子にピアノを、16歳から作曲を長谷川良夫に師事した。

東京音楽学校時代

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1937年(昭和12年)に東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)本科に入学、橋本国彦下総皖一ヘルムート・フェルマーに作曲を、水谷達夫にピアノを師事した。本科を卒業後、1941年(昭和16年)に研究科に進学し、1943年(昭和18年)3月に研究科を終了した。在学中の1941年11月、第10回日本音楽コンクール作曲部門(管弦楽曲の部)で序曲「桜」が第2位に入賞した。また、同年から「成城合唱団」の指揮者を20年間務めた。

東京音楽学校卒業後

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1943年(昭和18年)12月に日本交響楽団(日響)の専任指揮者に就任する。同月行なわれた日響の定期演奏会で、『主題・変奏曲と遁走曲』がジョゼフ・ローゼンストックの指揮で演奏された。

1948年(昭和23年)、平和の鐘建立会管弦楽懸賞に、交響詩『平和への頌歌』が次席入選する。1950年(昭和25年)のNHK25周年記念管弦楽懸賞に『交響的二楽章』が佳作入選する。

1951年(昭和26年)9月まで日響の指揮者を務めた後、東京フィルハーモニー交響楽団専任指揮者を務めたが、1960年(昭和35年)1月、病のため39歳で急逝した。

作品

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1956年(昭和31年)4月時点での作品一覧に基づく[3]

管弦楽曲

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  • 小舞曲(1939年)
  • 祝典序曲(1940年)
  • 序曲「桜」(1941年)
  • 主題・変奏曲と遁走曲(1942年)
  • 交響詩「ヒュッテに寄する牧歌」(1943年)
  • 組曲「秋の唄」(1943年)
  • 奇想曲(1944年)
  • 交響詩「海戦に寄す」(1944年)
  • 田園組曲(1946年)
  • 交響詩「平和への頌歌」(1948年)
  • 交響的二楽章(1950年)

室内楽曲

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独奏曲

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  • ピアノ・ソナタ 変ホ長調(1938年)
  • 逝く秋(1943年、ピアノ独奏)

合唱曲

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独唱曲

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映画音楽

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  • 海のバラ(1944年、東宝
  • 風雪二十年(1951年、東映、毎日映画コンクール音楽賞受賞)
  • 八月十五日(1952年、東映)
  • 山下奉文(1953年、東映)
  • 早稲田大学(1953年、東映)

国民歌

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自治体歌

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その他

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  • 川崎市立田島小学校校歌

脚注

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出典

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  1. ^ a b c d コトバンク.
  2. ^ a b c 東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻 2003, p. 1563.
  3. ^ 富樫康『日本の作曲家』に依拠するため。同書の刊行以降の作品は含まれていない。

参考文献

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  • 富樫康『日本の作曲家』(音楽之友社、1956年4月)
  • 高田 信一”. コトバンク. 新撰 芸能人物事典 明治 - 平成. 2020年1月3日閲覧。
  • 東京芸術大学百年史編集委員会 編 編『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇 第2巻』音楽之友社、2003年。ISBN 978-4-2760-0615-7 
先代
日本交響楽団専任指揮者
1944年 - 1951年
次代
クルト・ヴェス