青木新門
表示
あおき しんもん 青木 新門 | |
---|---|
誕生 |
あおき ゆきお 青木 幸男[1] 1937年4月11日 日本・富山県下新川郡入善町 |
死没 |
2022年8月6日(85歳没) 日本・富山県富山市 |
職業 | 小説家、詩人 |
国籍 | 日本 |
代表作 |
『柿の炎』 『納棺夫日記』 |
ウィキポータル 文学 |
青木 新門(あおき しんもん、1937年4月11日 - 2022年8月6日[1])は、日本の作家、詩人。富山県下新川郡入善町出身。日本文藝家協会会員。
経歴
[編集]1937年4月11日、富山県に生まれる。少年時代は旧満州で過ごす。
早稲田大学中退後、富山駅前で飲食店(スカラベ)を経営するかたわら文学を志す。吉村昭の推挙で『文学者』に短編小説『柿の炎』が載るものの、経営する店が倒産する。
1973年、冠婚葬祭会社(現オークス/当時の社長は奥野博)に入社(専務取締役を経て、2012年現在は非常勤顧問)、納棺専従社員(納棺夫)となる[注釈 1]。
1993年、葬式の現場の体験を『納棺夫日記』として地元出版社の桂書房から出版しベストセラーとなる。
1996年、本木雅弘が『納棺夫日記』を読んで感銘を受け、青木の自宅や会社を訪問し、一旦は本木を主演とすることを条件に映画化を許可するものの、映画の脚本の結末が小説と異なること[注釈 2]と富山をロケ地にしないことを理由に、映画の原作とすることを拒否する。映画『おくりびと』は、青木の意向により『納棺夫日記』を原作として製作していない(詳細は、おくりびと#概要を参照)。
亡くなるまでは、主に著述と講演活動をしていた。
2022年8月6日、肺癌のため死去[1]。
納棺夫
[編集]今日、職業としては一般に、男女とも納棺師と呼ばれる場合が多い。
- 差別
- 死にたずさわる仕事に就いたため、叔父から差別的発言を受け、また「親族の恥」とも罵られて、親族と疎遠になる。妻からも納棺夫の仕事を辞めるように懇願される。納棺夫の職を辞めようと考えるようになる。
- 葛藤
- かつての恋人の父親を湯灌したことを契機に、納棺夫の仕事を続けようと思い直すものの、世間から白い眼で見られること、小学校に入学する娘が差別されるのではと悩み、納棺夫の職を辞めようと再び考える。
- 転機
- かつて「親族の恥」と罵った叔父が、末期ガンで入院する。嫌々ながら見舞いに訪れると「ありがとう」と今際の際に言い残し亡くなる。叔父に対する憎しみが消え、己に対する恥ずかしさを感ずる。
著書
[編集]- 小説『柿の炎』
- 『納棺夫日記』 - 版により内容が異なる。
- 『納棺夫日記』桂書房、1993年。 - 『柿の炎』・『少年と林檎』(原題『手、白い手』)を収録。
- 『納棺夫日記 増補改訂版』文藝春秋、1996年。 - 後日談「『納棺夫日記』を著して」を収録。
- 『定本納棺夫日記』桂書房、2006年。 - 『納棺夫日記』を加筆改訂。自薦詩、童話『つららの坊や』を収録。『手、白い手』、『柿の炎』を再収録。
- Coffinman: The Journal of a Buddhist Mortician(Buddhist Education Center)2004年。『納棺夫日記』の英訳。
- 随筆集『木漏れ日の風景』北日本新聞社、1995年。
- 『詩集 雪道』桂書房、2001年。
- 『転生回廊 ‐聖地カイラス巡礼』北日本新聞社、2004年。
- 絵本『童話 つららの坊や』桂書房、2007年。
- 『いのちのバトンタッチ』真宗大谷派宗務所出版部、2007年。 - 東本願寺で2007年4月におこなった講演を、真宗大谷派の依頼により、加筆・出版されたもの。
- 『それからの納棺夫日記』法藏館、2014年。
著書を持つ納棺師
[編集]その他
[編集]ドキュメンタリー
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c "作家・青木新門さん死去 85歳 「納棺夫日記」". 毎日新聞. 2022年8月7日. 2022年8月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年8月7日閲覧。
- ^ "アーカイブ 追悼 作家・青木新門 生死を生きる". NHK. 2023年6月11日. 2023年6月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年6月4日閲覧。