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金井貢

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

金井 貢(かない みつぐ、1858年3月12日(安政5年1月27日[1])- 1924年大正13年)11月30日[2])は、明治から大正期の酒造家、実業家政治家衆議院議員群馬県新田郡尾島町長。旧姓・𠮷田、初名・只五郎[1][3]、号・雄州(洲)[1][3][4]

経歴

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武蔵国幡羅郡原井村(埼玉県幡羅郡原井村[3]太田村[5]大字原井村[6]大里郡太田村、妻沼町[4]を経て現熊谷市)で、𠮷田光平の長男として生れ[1][3]上野国新田郡尾島村(群馬県新田郡尾島村、尾島町尾島[3][6]を経て現太田市尾島町)の酒造家・金井又市の養子となる[3][4][注釈 1]。1874年(明治7年)熊谷県暢発学校(のち群馬県師範学校)で学び[1][6]、その後、旧久保田藩士・山下淳良に師事し和漢学を修めた[1][6]。書は日下部鳴鶴に学んだ[3]

1881年(明治14年)私立啓沃学校を設立し[1][6]、教頭に渡辺真楫を招聘し[6]、郷土の子弟の教育に尽くした[3][6]

1879年(明治12年)尾島町生糸改所頭取に就任し、群馬県生産会社尾島分社長となる[6]。1886年(明治19年)3月、新田郡蚕糸業組合組長となり新田郡養蚕改良伝習所を設けた[6]。その他、群馬県蚕糸業組合会議員、蚕糸業中央部会議員、関東東北一府十九県酒造家組合幹事、群馬県酒造業組合本部長、全国酒造家組合連合会委員、上州新聞社長、群馬県農工銀行設立委員、酒家生命保険取締役などを務めた[1][2][3][6]

1881年(明治14年)自由党が結成されるとこれに加わり[1][6]、各地を遊説して党勢の拡大に努めた[1][6]。1882年(明治15年)尾島村衛生委員に就任[6]。その他、群馬県勧業委員、新田郡学務委員、新田郡町村連合会議員、尾島村安養寺村連合戸長、尾島村連合会議員、新田郡学事会議員、新田郡所得税調査委員、学事奨励委員、新田郡徴兵参事員などに在任[1][2][3][4]。1884年(明治17年)群馬県会議員[1][6][4]、1889年(明治22年)4月、尾島町会議員に当選[6]。1897年(明治30年)4月、県会議員に再選され、同参事会員、地方衛生会委員、地方森林会員などを務めた[2][6]。1916年(大正5年)尾島町長に就任し1期在任した[2][3][4]

1892年(明治25年)2月、第2回衆議院議員総選挙(群馬県第2区)で初当選し[3][6][4][7]第6回総選挙まで2回再選され[7][8]、衆議院議員に通算3期在任した[2][5][4]

国政選挙歴

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脚注

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注釈

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  1. ^ 『上毛近世百傑伝 上』94頁では又平。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 『上毛近世百傑伝 上』93-105頁。
  2. ^ a b c d e f 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』177頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『群馬県人名大事典』142-143頁。
  4. ^ a b c d e f g h 『群馬新百科事典』153頁。
  5. ^ a b 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』130頁。
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t 『衆議院議員列伝』187-189頁。
  7. ^ a b c d e 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』18頁。
  8. ^ a b c 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』79頁。
  9. ^ 『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』10頁。

参考文献

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  • 山中啓一『上毛近世百傑伝 上』山中啓一、1891年。
  • 山崎謙編『衆議院議員列伝』衆議院議員列伝発行所、1901年。
  • 『衆議院議員総選挙一覧 上巻』衆議院事務局、1915年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 自第7回至第13回』衆議院事務局、1918年。
  • 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
  • 『群馬県人名大事典』上毛新聞社、1982年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『群馬新百科事典』上毛新聞社、2008年。