趙世炎
趙 世炎 | |
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生年月日 | 1901年4月13日 |
出生地 | 清 四川省酉陽直隷州 |
没年月日 | 1927年7月19日 (26歳没) |
死没地 | 中華民国 上海市 |
出身校 | 北京師範大学付属中学 |
所属政党 | 中国共産党 |
配偶者 | 夏之栩 |
子女 |
趙施格 趙令超 |
親族 |
李鵬 趙君陶 李碩勛 |
第5回中国共産党中央委員会委員 | |
在任期間 | 1927年5月9日 - 1927年7月19日 |
総書記 | 陳独秀 |
趙 世炎 | |
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各種表記 | |
繁体字: | 趙 世炎 |
簡体字: | 赵 世炎 |
拼音: | Zhào Shìyán |
和名表記: | ちょう せいえん |
趙 世炎(ちょう せいえん、1901年4月13日 - 1927年7月19日)は、中華民国の革命家。字は琴蓀、号は国富。中国共産党の早期指導者の一つ。第5回中国共産党中央委員会委員。中国共産党員として活動したが、国民政府(上海市政府)に捕らえられて殺害された。
経歴
[編集]1901年4月13日、四川省酉陽直隷州龍潭鎮(現在の重慶市酉陽トゥチャ族ミャオ族自治県)で生まれる。4歳で私塾に入り、日本弘文学院を卒業した陳徳元と四川大学の卒業生李玉昆に師事します。1914年、龍潭鎮高級小学を卒業。
1915年、趙世炎は北京高等師範学校付属中学(現在の北京師範大学付属中学)に入学し、陳独秀主催の『新青年』の影響を受けて、新文化運動に参加し、李大釗などと知り合いになりました。1919年、趙世炎は李大釗の紹介で中国少年学会に加入し、五四運動に参加し、学生会幹事長に就任した。
1920年5月、五四愛国運動の影響で、趙世炎はフランスに働きに行った。1921年春、趙世炎は張申府・周恩来などと旅法共産主義小組を設立し、中国共産党に加入した。1922年、趙世炎と周恩来などは中国少年共産党を創立し、中国共産党中央執行委員会書記を担当し、その後また中国共産党旅欧総支部委員と中国共産党フランス組書記を担当した。
1923年、趙世炎と陳延年・王若飛などは青年たちを連れてモスクワ東方労働者共産主義大学に勉強に行きました。
1924年、李大釗の要求に応じて、趙世炎は帰国して仕事をした。中国共産党北京地方執行委員会委員長、中国共産党北方区執行委員会宣伝部部長兼社員運動委員会主任を歴任した。1925年、「五・三〇事件」が発生し、趙世炎の指導と組織罷工、休校、上海人民の闘争を応援し、天津日商紗場工人大罷工、開灤五砿工人大罷工、天津海員大罷工、趙各荘砿工人大罷工が発生した。1926年3月、趙世炎は広東省広州市で開催された第三回全国労働代表大会に出席した。1927年3月21日、趙世炎は上海市と周恩来に派遣されて「上海第三回労働者武装蜂起」を指導して、国民革命軍の北伐に協力します。1927年の「上海クーデター」後、趙世炎は上海市に残して中国共産党の地下活動に従事した。1927年5月、趙世炎は湖北省武漢市で開催された中国共産党第五回全国代表大会に出席し、中央委員に選出されました。以後、中国共産党江蘇省委員会常務委員、書記代行、上海総工会委員長を歴任した。1927年7月2日の夜、国民党の警察は裏切りの省委員会秘書長の供述に基づいて、虹口北四川路志安坊109号の住所で趙世炎を逮捕した。7月19日、趙世炎は上海市楓林橋淞滬警備司令部軍法処の刑場で処刑されました。
2009年9月、趙世炎は中国共産党中央宣伝部・中国共産党中央組織部など11部門に「100位為新中国成立作出突出貢献的英雄模範人物」に選出された。
作品
[編集]- (中国語) 『趙世炎文集』. 北京市: 人民出版社. (2013). ISBN 9787010127149
家族
[編集]- 父:趙登之
- 妻:夏之栩
- 長男:趙施格
- 次男:趙令超
- 妹:趙君陶 - 夫は李碩勛。子は李鵬、第7代全国人民代表大会常務委員長、第4代国務院総理。
参考文献
[編集]- 沈国凡 (2017) (中国語). 『趙世炎』. 北京市: 工人出版社. ISBN 9787500864264