谷乙猪
表示
谷 乙猪(たに おつい、1857年11月30日(安政4年10月14日[1]) - 1889年(明治22年)7月18日)は、江戸時代後期の土佐藩士。
来歴
[編集]1857年(安政4年)、土佐藩上士・谷重昌(神佐衛門)の三男として、土佐国(現 高知県)に生まれる。実長兄は谷重喜、実次兄は谷重中。弟は谷流水。
1868年(慶応4年1月)、最年少の12歳(満10歳)にして、志願して兄谷重喜らと共に土佐藩迅衝隊に加わり、戊辰戦争に従軍する。板垣退助ら迅衝隊の幹部たちと一緒に撮った幕末の写真が有名(乙猪は退助の膝に抱かれ、拳銃を持ったポーズで写っている)。
1870年2月27日(明治3年1月27日)、土佐藩主・山内豊範の時代、東京で学問修行を仰せ付けられ、さらに洋行を仰せ付けられ、ノテレス船の御船便次第、出立するよう命ぜられる。同年4月6日(旧暦3月6日)、来たる27日より浦戸通より乗船仰せ付けられる。
同年7月13日(旧暦6月15日)、谷家(谷秦山流 )の分家で、谷景井(萬七)家の第2代目にあたる谷干城の養子となる。のち従五位に叙せられる。
旧薩摩藩士村田経芳男爵(村田銃の開発者)の長女(愛子)と婚姻する。
墓は高知の久万山の谷家代々墓地(所在地 高知県高知市中久万)にある。
栄典
[編集]家族
[編集]- 養父:谷干城
- 養母:国澤七郎右衛門通辰の二女(玖満子)
脚注
[編集]- ^ 『国民過去帳 明治之巻』(尚古房、1935年)p.284
- ^ 『官報』第382号「賞勲叙任」1884年10月4日。
参考文献
[編集]- 『子爵谷干城傳』平尾道雄著、象山社、1935年(1981年復刻版)
- 『谷干城 憂国の明治人』小林和幸著、中公新書、2011年
- 『華族総覧』千田稔編、講談社現代新書、2009年
- 『土佐の墓』山本泰三著、土佐史談会
- 『幽因録』谷重喜著