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藤田潤一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ふじた じゅんいち
藤田 潤一
本名
別名義 藤田 潤八 (ふじた じゅんぱち)
三田 一 (みた はじめ)
岡野 進 (おかの すすむ)
生年月日 1910年
没年月日 不詳年
出生地 日本の旗 日本 兵庫県有馬郡三田町
死没地 日本の旗 日本
職業 映画監督脚本家映画プロデューサー劇作家演出家
ジャンル 劇場用映画サイレント映画トーキー時代劇現代劇成人映画)、テレビ映画舞台喜劇テレビ放送劇
活動期間 1920年代 - 1970年代
配偶者 不忍鏡子 (1941年 - 1953年離婚)
著名な家族 進藤誠吾(元義兄)
阿木翁助(元義兄)
事務所 榎本健一劇団
六本木映画
東京映画社
主な作品
劇場用映画
艶説四谷怪談』(1965年)
テレビ映画
遊星王子』(1958年 - 1959年)
戯曲
ベンゲットの星』(1943年)
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藤田 潤一(ふじた じゅんいち、1910年 - 1970年代)は、日本の映画監督脚本家映画プロデューサー劇作家演出家である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。本名同じ。牧野省三マキノ・プロダクション助監督としてキャリアを始め、牧野の没後、脚本家として河合映画製作社新興キネマに移籍、1934年(昭和9年)に監督に昇進した[1][9][12][13]山中貞雄らによる「鳴滝組」にも参加し、片岡千恵蔵プロダクション日活東宝映画と転々とした[1][9][12][13]第二次世界大戦中から戦後にかけて「エノケン一座」の座付作家として活動し[1]、初期のテレビ放送劇の台本も書いた[16]。脚本家としての別名に三田 一(みた はじめ)[1][8][9][12][13]、1965年(昭和40年)からは黎明期の成人映画を量産、この時代には藤田 潤八(ふじた じゅんぱち)、岡野 進(おかの すすむ)等と名のった[1][9][11][12][13]連続テレビ映画遊星王子』の監督としても知られる[15][17]

人物・来歴

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マキノから鳴滝組の時代

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1910年(明治43年)、兵庫県有馬郡三田町(現在の同県三田市)に生まれる[1][6]

1920年代にマキノ・プロダクションに入社、助監督を務め、中島宝三(1904年 - 没年不詳)に師事する[1][13]。1929年(昭和4年)からは中島作品のために脚本を書く[1][13]。同年7月25日、同社代表の牧野省三が死去し、同年9月にマキノ正博による新体制が発表になるが、当時助監督であった藤田の名はその一覧表には登場しない[18]。師の中島が1930年(昭和5年)末に同社を退社し帝国キネマ演芸に移籍すると[19]、明けて1931年(昭和6年)1月30日に公開された『幕末風雲記 堀新兵衛の巻 新門辰五郎の巻 清水次郎長の巻』(監督マキノ正博・稲葉蛟児久保為義)の脚本を最後に同社を退社、東京巣鴨の河合映画製作社(代表・河合徳三郎)に移籍した[9][12][13]。翻案・オリジナル含めて14本の脚本を量産し、1932年(昭和7年)7月22日に公開された琴糸路の主演映画『人生の岐路』(監督吉村操)を最後に、師の中島がいる京都の新興キネマに移籍、『人生の岐路』公開の翌日である同23日に公開された『父をたづねて三千里』(監督川手二郎)ではすでに藤田の脚本を使用していた[9][12][13]。いっぽう師の中島は同年末には、中島が1年半在籍した河合映画製作社に移籍している[19]

藤田が監督としてデビューしたのは、満24歳になる年にあたる1934年(昭和9年)7月26日に公開された小金井勝の主演映画『肥後の駒下駄』(原作・脚本上島量)である[1][9][12][13]。『日本映画監督全集』の藤田の項を執筆した岸松雄は、偶然、同作のクランクアップの日に京都の新興キネマの撮影所(のちの新興キネマ京都撮影所、現在の東映京都撮影所)を訪れ、その疲れた顔をよく記憶しているという[1]。岸が同撮影所を訪れたのは、山中貞雄と親交があったからで、当時山中は、三村伸太郎稲垣浩八尋不二滝沢英輔藤井滋司、土肥正幹(鈴木桃作)、萩原遼とともに「鳴滝組」と称した脚本グループとしても活動しており[20][21][22]、藤田はこの集団に井上金太郎荒井良平石田民三らとともに、鳴滝のアウトサイダーとして参加していた[21][22]。「鳴滝組」が集団執筆したときの脚本クレジットの「梶原金八」は、8人のメンバー数から命名されたが、それが増えても「八」で固定された[20][21][22]

1935年(昭和10年)3月7日に公開された河津清三郎の主演映画『春雪白日夢』(脚本八尋不二)で、藤田は監督のほか、原作者三田 一としてクレジットされて以来、これを脚本家としての別名として使用するようになり、1936年(昭和11年)1月25日に公開された杉山昌三九の主演映画『闇討仁義 雪宵鴉』(原作木村恵吾)では、「三田一」名義で脚本・監督としてクレジットされた[1][9][12][13]。同年、片岡千恵蔵プロダクションに移籍、同年7月31日公開の『女殺油地獄』(原作近松門左衛門、脚本梶原金八)、1937年(昭和12年)4月15日公開の『浅野内匠頭』(原作・脚本三村伸太郎)の2本の片岡千恵蔵主演作を監督している[1][9][12][13]。『女殺油地獄』は藤田の千恵プロ入社第一回作品であり、「鳴滝組」が梶原金八第十六回目作品として取り組んだものであった[23]。「鳴滝組」の三村伸太郎がオリジナル脚本を執筆した『浅野内匠頭』を最後に片岡千恵蔵プロダクションは解散しており、藤田は、同社と配給提携していた日活に片岡以下全員とともに移籍する[1][9][12][13][24]

藤田は、片岡の日活入社第一作である『謳へ春風』の監督を務め[25]、同作は、同年6月3日に公開された[1][9][12][13]。藤田が、日活で片岡の主演作を手がけたのは同作が最後になり、月形龍之介の主演作を2作監督したあとは、東宝映画京都撮影所に移籍、1938年(昭和13年)12月8日に公開された『幼い英雄たち』で現代劇に転向した[1][9][12][13]。このころ、同撮影所で岸松雄と再会し、藤田と岸は、日活太秦撮影所の前通り(現在の大映通り商店街)にあった二階家で共同生活を始めたという[1]。それは女優の白石明子が以前住んでいた物件で、隣には市川男女之助夫妻の住居があった[1]。同社の東京撮影所(現在の東宝スタジオ)にも出張して9本を監督したが、1941年(昭和16年)5月8日に公開された徳川夢声の主演映画『大いなる感情』(製作竹井諒、原作阿木翁助、脚本外山凡平)を最後に撮影所を去った[1][9][12][13][26]

同年3月には、女優の不忍鏡子(本名・進藤幸、1919年 - )と結婚している[1][27]。鏡子の姉が、当時、東宝映画東京撮影所の文芸課に所属した阿木翁助(1912年 - 2002年)の妻であったこと、阿木の原作を採用した文芸課長の竹井諒が製作した『大いなる感情』を藤田が監督したこと等に縁があって、見合い結婚したものである[1][27][26]。挙式は東京・赤坂氷川神社で、竹井夫妻を媒酌人として行われた[1][27]。鏡子の実兄は、美術デザイナー進藤誠吾[28](1913年 - 2003年、日本映画・テレビ美術監督協会元理事長)であり、鏡子は結婚を機に引退したものの、藤田は映画一家の一角を担うことになった[27]

エノケン一座で劇作家に転向

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第二次世界大戦が始まると、藤田は、当時東宝傘下であった「エノケン一座」(東宝榎本健一一座)の座付き作家(劇作家・演出家)、に転向し、1942年(昭和17年)11月公演で『河童の国』(原作塩谷寿雄)を脚色・演出している[1][29][30]。戦中戦後の藤田は、「エノケン一座」にあった[1][29][30]。1946年(昭和21年)8月、「エノケン一座」は東宝から独立し、株式会社榎本健一劇団に組織変更しているが、藤田はその後も同劇団の作品を書き、演出した[1][29][30]。1949年(昭和24年)12月30日には、藤田の脚本に渡辺邦男が手を加えて監督した『エノケン・笠置のお染久松』が公開され、合計3作、榎本健一の主演映画に脚本を提供している[1][9][10][11][12][13]。1952年(昭和27年)4月3日公開の花柳小菊の主演映画『お洒落狂女』(監督佐伯清、原作本田美禅、配給東映)にも、藤田は脚本家として参加した[1][9][10][11][12][13]。劇作家、演出家としての仕事面は成功し、家庭でも2男に恵まれたが、放縦な生活の結果、1953年(昭和28年)には離婚した[1][27]。鏡子は翌1954年(昭和29年)には映画界に復帰した[27]

その後、3年間の仕事については伝えられていないが、1956年(昭和31年)には、日本テレビ放送網の喜劇番組『喜劇天国』に脚本を提供している[16][31]。同番組は益田喜頓、榎本健一、有島一郎清川虹子小桜京子山東昭子高橋とよ古川緑波柳家金語楼といった喜劇人が出演しており[31][32]、藤田は1957年(昭和32年)12月2日放映の『師走の風』(主演瀬川路三郎)まで数本、脚本を書いていることがわかっている[16][31]。古川緑波は『古川ロッパ昭和日記』において、同企画の初期において藤田が関わっており、『午后3時の恋人』を藤田が書いたことや、すでにこの当時、藤田が宣弘社と関わっていたことなどを書き残している[31]。1958年(昭和33年)11月4日に放映を開始した連続テレビ映画『遊星王子』(製作宣弘社プロダクション)の全49話を脚本家の伊上勝と組んで、ほぼすべてを監督し、成功を収めた[1][15][17]。1961年(昭和36年)2月2日に放映を開始した連続テレビ映画『おてんば天使』(原作横山光輝)も監督を手がけ[15]、作品は人気を博した。

独立系成人映画の時代

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1965年(昭和40年)からは独立系成人映画の世界に転身[1]、同年5月には藤田 潤八の名で『艶説四谷怪談』、岡野 進の名で『熱い夜』をそれぞれ監督、いずれも東京放映(代表・吉野達弥)の製作、新東宝興業の配給によって公開された[5][13]。同年7月には、『艶説四谷怪談』に主演した左京未知子を起用して『性の代償』を監督[13](「岡野進」名義とも[5])、自らのプロダクション(藤プロダクション)の製作、センチュリー映画社(代表・井上猛夫、1964年10月設立[2])の配給により公開された[5][13]。追って同年8月、東京都港区麻布笄町(現在の西麻布)に設立された六本木映画株式会社(代表・長屋喜代美)に参加する[2][4]。『日本映画発達史』の田中純一郎によれば、同社は、藤田を中心とした製作会社である[2]。1966年(昭和41年)前半にセンチュリー映画社が倒産しており、藤田は、同年7月15日に同区西新橋2丁目5番1号に設立された株式会社東京映画社代表取締役・高木波英、常務取締役藤村政治)の設立に参加、同社の取締役製作担当に就任する[5]。東京映画社が製作した映画は「島村公平」が監督した『偽れる性』(1966年8月)以外の記録が残っていない[33]。藤村政治(生年不詳 - 2010年)は、その後、ワールド映画の営業部長を経て、プリマ企画を設立した。田中純一郎は、『日本映画発達史』のなかで成人映画黎明期のおもな脚本家・監督として、若松孝二、高木丈夫(本木荘二郎の変名)、南部泰三小林悟新藤孝衛糸文弘小川欽也小森白山本晋也湯浅浪男宮口圭深田金之助小倉泰美浅野辰雄渡辺護、片岡均(水野洽の変名)、福田晴一とともに、藤田の名を挙げている[2]

1967年(昭和42年)11月21日に公開された岸信太郎との共同監督作『ダブルドッキング』(主演辰巳典子)以降の作品歴が不明である[1][3][5][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。「岸信太郎」とは、ヤマベプロダクション代表の山邊信雄の変名であり、同プロダクションの製作、関東映配の配給により公開された[9][13]。山中貞雄の弟子であり、かつて「鳴滝組」のメンバーとして藤田とは近い存在であった萩原遼もまた、1969年(昭和44年)4月に公開された乱孝寿の主演作『異常の性 年上の女』で独立系成人映画の世界に踏み出している[34]。萩原は5作を監督したが、いずれも東京興映(代表・小森白)が製作したものであり[34]、藤田との直接の関係は不明である。

『日本映画監督全集』が発行された1976年(昭和51年)12月24日の段階では、藤田の項を執筆した岸松雄は「最近聞けば先日まで病院で療養の身だった」という当時の近況を知らせている[1]。離婚した妻が育てた2人の子息は、いずれも外食チェーンのスエヒロに勤務したという[1][27]

フィルモグラフィ

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特筆以外のクレジットはすべて「監督」である[1][3][5][8][9][10][11][12][13][14][15][16]東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)等の所蔵状況についても記す[8]

藤田潤一

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「藤田潤一」名義のもの[1][8][9][10][11][12][13][14][15][16]。「三田一」名義のものは特筆した[1][8][9][12][13]

まごゝろ親爺』(1940年)
エノケン・笠置のお染久松』(1949年)

藤田潤八

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特筆以外は「藤田潤八」名義で「監督」したもの[5][8][9][11][12][13]

テアトログラフィ

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すべてエノケン一座(榎本健一劇団、1946年8月以降)の公演である[1][29][30]

  • 河童の国』 : 原作塩谷寿雄、1942年11月公演 - 脚色・演出
  • 『何処へ』 : 御園座、1942年12月公演 - 作・演出
  • ベンゲットの星』 : 原作織田作之助、1943年5月(8月とも[29])公演 - 脚色・演出
  • 『たった一人の鉱山』 : 1943年11月公演 - 作・演出
  • 『太閤記』 : 1944年2月公演 - 作・演出
  • 無法松の一生』 : 1944年公演 - 脚色・演出
  • リリオム』 : 有楽町有楽座、1946年3月公演 - 脚色・演出
  • 『エノケンのターザン』 : 1946年夏秋公演 - 演出
  • 『法界坊』 : 1946年公演 - 脚色・演出
  • 『アリババと盗賊』 : 有楽町・日本劇場、1947年1月公演 - 作・演出
  • 『ABC娘』 : 有楽町・有楽座、1947年4月公演 - 作・演出
  • 『霧の夜の女』 : 帝国劇場、1947年5月公演 - 作・演出
  • 『婿殿は華族様』 : 関東・東海道巡業公演、1948年6月公演 - 作・演出
  • 『愉快な相棒』 : 有楽町・有楽座、1949年1月公演 - 作・演出
  • 『あゝ世は夢か幻か』 : 有楽町・有楽座、1949年7月公演 - 作・演出
  • 『ブギウギ百貨店』 : 1950年1月公演 - 作・演出

ビブリオグラフィ

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国立国会図書館蔵書等にみる書誌である[7]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak キネ旬[1976], p.341-342.
  2. ^ a b c d e 田中[1976], p.85-86.
  3. ^ a b c 年鑑[1961], p.385.
  4. ^ a b 年鑑[1966], p.403.
  5. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1967], p.325-332, 391.
  6. ^ a b 藤田潤一jlogos.com, エア、2014年9月2日閲覧。
  7. ^ a b 国立国会図書館サーチ検索結果、国立国会図書館、2014年9月2日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j 藤田潤一三田一藤田潤八東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年9月2日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 藤田潤一三田一藤田潤八岡野進、日本映画情報システム、文化庁、2014年9月2日閲覧。
  10. ^ a b c d e f 藤田潤一日本映画製作者連盟、2014年9月2日閲覧。
  11. ^ a b c d e f g h 藤田潤一藤田潤八KINENOTE, 2014年9月2日閲覧。
  12. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u 藤田潤一三田一藤田潤八allcinema, 2014年9月2日閲覧。
  13. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag 藤田潤一三田一藤田潤八岡野進日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
  14. ^ a b c d Junichi Fujitaインターネット・ムービー・データベース (英語)、2014年9月2日閲覧。
  15. ^ a b c d e f g 藤田潤一テレビドラマデータベース、2014年9月2日閲覧。
  16. ^ a b c d e f g h 学術情報検索システム 著者名等検索検索結果、早稲田大学、2014年9月2日閲覧。
  17. ^ a b 遊星王子宣弘社、2014年9月2日閲覧。
  18. ^ 1929年 マキノ・プロダクション(御室撮影所)所員録立命館大学、2014年9月2日閲覧。
  19. ^ a b キネ旬[1976], p.284.
  20. ^ a b 朝日日本歴史人物事典『梶原金八』 - コトバンク、2014年9月2日閲覧。
  21. ^ a b c 猪俣田山[1978], p.112.
  22. ^ a b c 新藤[1989], p.139.
  23. ^ 加藤[2008], p.262.
  24. ^ 片岡千恵蔵プロダクション撮影所、立命館大学、2014年9月2日閲覧。
  25. ^ 片岡千恵蔵 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
  26. ^ a b 年鑑[1942], 12章p.27.
  27. ^ a b c d e f g キネ旬[1980], p.353.
  28. ^ 進藤誠吾 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
  29. ^ a b c d e 内山[1967], p.221.
  30. ^ a b c d 井崎[1993], p.277-279.
  31. ^ a b c d 古川[2007], p.112, 127-130.
  32. ^ 喜劇天国、テレビドラマデータベース、2014年9月2日閲覧。
  33. ^ 偽れる性、日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
  34. ^ a b 萩原遼 - 日本映画データベース、2014年9月2日閲覧。
  35. ^ 雲月の鈴蘭の妻衛星劇場、2014年9月2日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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画像外部リンク
艶説四谷怪談
1965年5月公開
東京放映新東宝興業
熱い夜
1965年5月公開
(東京放映・新東宝興業)
情怨の女子大生
1965年11月公開
六本木映画創作グループセンチュリー映画社