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藤原継蔭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原継蔭
時代 平安時代前期
生誕 9世紀
死没 不詳
官位 従五位上大和守
主君 陽成天皇光孝天皇宇多天皇
氏族 藤原北家真夏流
父母 父:藤原家宗、母:藤原山蔭の娘
兄弟 弘蔭継蔭
不詳
伊勢
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藤原 継蔭(ふじわら の つぐかげ)は、平安時代前期の貴族藤原北家真夏流、参議藤原家宗の子。官位従五位上大和守

経歴

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清和朝貞観13年(871年文章生に補せられると、宮内少丞式部少/大丞を経て、陽成朝元慶5年(881年従五位下三河守木工頭に叙任される。

仁和元年(885年)8月に伊勢守に任ぜられ、仁和2年(886年)正月に従五位上に叙せられるが、しばらく任地の伊勢国に出発しなかったため、同じように平安京に留まっていた諸国司とともに同年2月に召問を受けている[1]。また同年9月には、伊勢神宮へ群行していた斎王繁子内親王が滞在していた頓宮の近くで火災が発生したことから、継蔭は監督の近衛を派遣して消火に当たらせるが、強い西風を受けて頓宮は焼失した[2]

宇多朝寛平3年(891年大和守に任ぜられたほか、薩摩守隠岐守など地方官を歴任している。

官歴

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注記のないものは『日本三代実録』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本三代実録』仁和2年2月3日条
  2. ^ 『日本三代実録』仁和2年9月30日条
  3. ^ a b c d e f g h i 『古今和歌集目録』

参考文献

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