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藤原忠教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 忠教
時代 平安時代後期
生誕 承保3年(1076年
死没 永治元年10月25日1141年11月25日
改名 忠教→覚禅(法名)
別名 四条中納言、四条民部卿
官位 正二位大納言
主君 堀河天皇鳥羽天皇崇徳天皇
氏族 藤原北家御堂流難波家
父母 父:藤原師実、母:藤原永業の娘
兄弟 覚実、仁源、師通家忠覚信経実、静意、澄真、能実忠教、仁澄、尋範行玄、増智、永実、玄覚、忠長藤原基隆室など
養兄弟:賢子篤子内親王
正室:源季宗の娘
継室:藤原清綱の娘源俊明の娘
大池成継の娘藤原時継の娘
藤原為房の娘
忠基教長難波頼輔忠兼師教
親忠有教教良、明源、基教、教仁、教智、教覚、寛敒、藤原通季
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藤原 忠教(ふじわら の ただのり)は、平安時代後期の公卿歌人藤原北家摂政関白太政大臣藤原師実の五男。官位正二位大納言難波家の祖。

経歴

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応徳3年(1086年従五位下叙爵美作守尾張守を経て、寛治5年(1091年左近衛権少将に任ぜられる。寛治7年(1093年斎院長官、寛治8年(1094年従四位下嘉保3年(1096年)左近衛中将に叙任ののち、康和元年(1099年蔵人頭に任ぜられ、翌康和2年(1100年従三位参議に叙任され公卿に列す。

天永2年(1111年権中納言保安3年(1122年)権大納言を経て、大治5年(1130年正二位保延2年(1136年)大納言に至る。この間、議政官として左右中将・讃岐権守右兵衛督検非違使別当・民部卿などを兼任した。また、太皇太后宮大夫・中宮大夫として、太皇太后藤原寛子後冷泉天皇后)や中宮藤原聖子崇徳天皇后)にも仕えた。

保延7年(1141年)3月に病により鳥羽上皇と同日に出家。法名は覚禅。同年10月25日薨去。享年66。

人物

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和歌に優れ、寛治7年(1093年)郁芳門院根合や、康和4年(1102年)堀河院艶書合といった歌合に出詠。勅撰歌人として『金葉和歌集』(2首)以下の勅撰和歌集に8首が入集している[1]。また、にも秀で、当時の御遊にて笛を吹いた回数は同時代の名手藤原宗輔に次いだ[2]

一方で、素行に問題があり、粗暴な振る舞いが多く、度々乱闘騒ぎを起こしたという[要出典]

官歴

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系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 永長に改元
  2. ^ 康和元年12月はユリウス暦では1100年1月または2月
  3. ^ ユリウス暦では1117年1月26日
  4. ^ 保安3年12月17日はユリウス暦では1123年1月16日。

出典

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  1. ^ 『勅撰作者部類』[要文献特定詳細情報]
  2. ^ 竹鼻績『今鏡 (中)』講談社学術文庫、1984年、371頁
先代
藤原師実
難波家当主
初代
次代
難波頼輔