章明親王
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章明親王 | |
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時代 | 平安時代前期 - 中期 |
生誕 | 延長2年(924年) |
薨去 | 正暦元年9月22日(990年10月13日) |
官位 | 二品、弾正尹 |
父母 | 父:醍醐天皇、母:藤原桑子 |
兄弟 | 勧子内親王、宣子内親王、恭子内親王、克明親王、保明親王、慶子内親王、代明親王、勤子内親王、婉子内親王、都子内親王、重明親王、常明親王、修子内親王、敏子内親王、式明親王、雅子内親王、有明親王、普子内親王、時明親王、長明親王、源高明、兼明親王、源兼子、靖子内親王、源厳子、源自明、韶子内親王、源允明、康子内親王、英子内親王、斉子内親王、朱雀天皇、章明親王、村上天皇、源為明、盛明親王 |
妻 | 藤原敦敏女 |
子 | 源尊光、源近光、尊仁、隆子女王、慶子女王、済子女王 |
章明親王(のりあきらしんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族。醍醐天皇の第十三皇子[1]。官位は二品・弾正尹。
経歴
[編集]朱雀朝初頭の延長8年(930年)靖子・英子内親王とともに親王宣下を受ける。更衣を母とする章明は兄弟順からみて本来親王宣下される立場ではなかったが、この時の醍醐上皇は病重篤で同日に崩御しており、恩典としての宣下であったとみられる[2]。天慶2年(939年)京極亭で元服した。
村上朝で上総太守・大宰帥・兵部卿を歴任。『蜻蛉日記』には兵部卿の宮、「つかさの宮」として登場し、兵部大輔・藤原兼家及び作者の藤原道綱母と盛んに歌を交わしたことが記されている[3]。
一条朝の寛和3年(987年)には弾正尹の官職にあり、正暦元年(990年)9月22日薨去。享年67。最終官位は二品弾正尹。
官歴
[編集]- 延長8年(930年) 9月29日:親王宣下[4]
- 天慶2年(939年) 8月14日:元服[5]
- 天暦4年(950年) 10月8日:見上総太守[6][7][8]
- 天徳3年(959年) 2月22日:見大宰帥[9][4]
- 応和2年(962年) 5月:見兵部卿[10]
- 寛和3年(987年) 2月19日:見弾正尹[11]
- 正暦元年(990年) 9月22日:薨去(二品弾正尹)[4]
系譜
[編集]出典
[編集]- ^ 後藤昭雄「属文の王卿―醍醐系皇親」『中古文学』第10巻、中古文学会、1972年、1-10頁、doi:10.32152/chukobungaku.10.0_1。
- ^ 中村みどり「一世皇子女の親王宣下と源氏賜姓」『京都女子大学大学院文学研究科研究紀要. 史学編』第14巻、京都女子大学、2015年3月15日、49-88頁。
- ^ 森田兼吉「『かげろふの日記』章明親王関係諸段考 : 道綱母と兼家との一体化表現」『日本文学研究』第23巻、梅光女学院大学日本文学会、1987年11月、47-58頁。
- ^ a b c 『日本紀略』
- ^ 『貞信公記』
- ^ 『西宮記』
- ^ 『政事要略』巻24
- ^ 『吏部王記』
- ^ 『九暦』
- ^ 『蜻蛉日記』
- ^ 『政事要略』巻69
- ^ 『章明親王』 - コトバンク