石川康長
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天文23年(1554年)[1] |
死没 | 寛永19年12月11日(1643年1月30日) |
改名 | 勝千代(幼名)、康長[2] |
別名 | 三長、数長、通称:玄蕃頭 |
墓所 | 善教寺(大分県佐伯市城下東町) |
官位 | 従五位下式部大輔 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→改易 |
藩 | 信濃松本藩主 |
氏族 | 石川氏 |
父母 | 父:石川数正、母:内藤義清の娘 |
兄弟 | 康長、康勝、康次 |
妻 | 正室:佐野政綱の姉[2] |
子 | 女(大久保藤十郎[注釈 1]室) |
石川 康長(いしかわ やすなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。信濃松本藩の第2代藩主。諱は三長(みつなが)、数長(かずなが)とも言う。
生涯
[編集]天正12年(1584年)、家康の次男秀康が大坂に送られた際に本多成重(仙千代)や弟・康勝(勝千代)と共に扈従し[3]、翌天正13年(1585年)、父が家康の下を出奔して豊臣秀吉に仕えたのに従って、豊臣家に仕える。
文禄元年(1592年)、文禄の役では父の代理として[4]肥前名護屋城に詰めて、在陣衆の1つとして500名を率いて駐屯した[注釈 2]。父の死去により、家督を継いで第2代藩主となり[5]、父の遺領10万石のうち8万石を相続し、残りの2万石は2人の弟に分知された。
康長は父の代より続く居城の松本城の普請をさらに進めるが、その規模は8万石の分限を超えていたため、百姓人夫は苦労した。山林の木や竹を伐採し、民家を取り壊しても償いもなく、強引な施策の連続であった[注釈 3]。太鼓門に据える巨石を運ぶ人足が苦情を訴えたことを知ると、自らその首を刎ね、槍で差し上げて「者どもさあ引け」と叫んで運搬させたと伝わっている[6]。
慶長2年(1597年)、豊臣姓を下賜された。同年10月29日、従五位下式部大輔に叙任される[4]。
慶長5年(1600年)、家康の会津征伐に従い、そのまま東軍に与する。徳川秀忠の中山道軍に従い、西軍の真田昌幸を攻撃することになり、康長は日根野吉重[注釈 4]と共に上田城の支城・冠者ヶ嶽城[注釈 5]を攻めて大敗した[注釈 6]。このため関ヶ原本戦には参加できなかったが、東軍であったことで、所領は安堵された。
慶長18年(1613年)10月19日[2]、大久保長安と縁戚関係にあったことから、大久保長安事件に連座[7]。領地隠匿の咎を受けて弟の康勝、康次と共に改易され、康長の身柄は佐伯藩主毛利高政の預とされて、豊後佐伯に流罪に処された。改易の理由は、分限を超えた城普請が原因であったとする説や[注釈 7]、幕府の外様大名外しであったとする説などもある[7]。
『山口休庵咄』に弟康勝と共に召募に応じて兵5,000と大坂城に入城したとあるのは誤りであると『戦国人名辞典』にある[4]。
寛永19年(1642年)12月11日に配所で死去した[4]。享年89[1]。真宗大谷派善教寺を墓所とする。配流された際に持参した念持仏を毎日拝んでいたという。この念持仏は死の直前に、毛利家用人の伊沢六右衛門に与えられ、その後は古川家に伝来したが、昭和46年(1971年)に古川家より松本市に寄贈された[8]。
康長は康勝と同じく古田織部に茶の湯を学び、娘婿の大久保藤十郎は織部の高弟であった。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 田中薫『松本藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2007年5月。
- 堀田正敦「国立国会図書館デジタルコレクション 石川氏」『寛政重脩諸家譜. 第1輯』國民圖書、1922年、732頁 。
- 高柳光寿; 松平年一「石川三長」『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、32頁。