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石上家成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石上家成
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 養老6年(722年
死没 延暦23年6月20日804年8月3日
官位 従三位宮内卿
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 石上氏
父母 父:石上東人
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石上 家成(いそのかみ の いえなり)は、奈良時代から平安時代初期にかけての公卿左大臣石上麻呂の孫で、正六位上・石上東人の子[1]官位従三位宮内卿

経歴

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天平宝字8年(764年)の藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)終結後に従五位下叙爵神護景雲2年(768年)に上総守次いで勅旨少輔に任じられた。

宝亀元年(770年光仁天皇の即位に伴い従五位上に叙せられ、翌宝亀2年(771年皇太子他戸親王春宮員外亮を兼ねた。宝亀3年(772年)5月に他戸親王が皇太子を廃されたのち、同年9月に政情調査のために覆損使として南海道[2]、宝亀7年(778年検税使として東山道へ派遣されるなど[3]、地方行政の調査・監察にあたっている。同年正五位下、宝亀9年(780年宮内大輔

桓武天皇が即位した天応元年(781年)には従四位下民部大輔に叙任される。またこの年、大納言石上宅嗣(家成の従兄弟)が没したため[4]、家成は石上氏の事実上の氏上となる。その後、桓武朝前期に大宰少弐衛門督右衛士督内蔵頭を務めた後、延暦8年(789年)宮内卿に任ぜられると10年以上に亘ってこれを務めた。この間、延暦10年(791年)従四位上、延暦18年(799年)迄に正四位下と累進し、叙位時期は不明ながら従三位に叙され公卿に列した。

延暦23年(804年)6月20日薨去。享年83。最終官位は散位従三位。

人物

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取り上げるべき才芸はなかったが、公務を忠実に勤めた[1]

官歴

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六国史』による。

脚注

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  1. ^ a b 『日本後紀』延暦23年6月20日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀3年9月26日条
  3. ^ 『続日本紀』宝亀7年正月19日条
  4. ^ 『続日本紀』天応元年6月24日
  5. ^ 『東南院文書一ノ七』巻1-5
  6. ^ 『正倉院文書』巻8-3209

参考文献

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