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甲斐神社 (嘉島町)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甲斐神社

甲斐神社の鳥居と社殿
所在地 熊本県上益城郡嘉島町上六嘉2242
位置 北緯32度44分52.4秒 東経130度46分5.7秒 / 北緯32.747889度 東経130.768250度 / 32.747889; 130.768250
主祭神 甲斐宗立
甲斐宗運
甲斐氏一族
社格 旧無格社
創建 天正年間[要出典]
別名 足手荒神さん 荒神さん
例祭 2月15日
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甲斐神社(かいじんじゃ)は、熊本県上益城郡嘉島町上六嘉にある神社で、 郷土の武将甲斐宗立甲斐宗運公を祭神とする神社であるが、宗立公を手足の神様である足手荒神として祀った神社として有名で、九州各地にある足手荒神信仰の総本社である[1]。六嘉村大字上六嘉字中郡にあったことから[2]、中郡甲斐神社という[3]通称は足手荒神。足手荒神社ともいう[4]。中郡甲斐神社という神社名は戦後、神社本庁の被包括宗教法人として昭和28年に宗教法人成立の際に当時の代表役員によってつけられた宗教法人上の神社名であり、正式な神社名は甲斐神社である[5]

手足の神様として篤く信仰されていることから、主に手足の病気平癒、運動選手等による無病息災、交通安全の参拝が多い。

祭神

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  • 主祭神:甲斐宗立(かいそうりゅう)公 - 甲斐親英ともいう。宗立は出家後の法名。
  • 配神:甲斐宗運公 - 宗立の父。生涯不敗の武将として知られる。

由緒

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戦国時代末期の天正15年(1587年)、九州を平定した豊臣秀吉の命にて肥後国を治めることとなった佐々成政太閤検地に反発し、国衆、民衆が一揆を起こす(肥後国人一揆)。

肥後国衆であった御船城城主の甲斐宗立や、菊池武国、隈部親永等は三万五千の国人を率い、佐々成政の居城隈本城を攻める。一揆勢は果敢に隈本城を攻めるも、落城まで少しのところで、成政を応援する豊臣秀吉方の大部隊が九州、四国から駆けつけ、また宗立の家臣による寝返りもあり[6]、一揆は失敗に終わってしまう。

一揆に失敗し手足に致命的な傷を負いながらも[7]何とか現在の嘉島町上六嘉の地まで逃れた甲斐宗立は、この地にて里人(甲斐神社斉主の祖先)から手厚い手当を受けたという[6]。敗軍の将であるにもかかわらず、これを匿っての献身的な看病にいたく感激した甲斐宗立は、「魂魄この世に留まり子々孫々を見守り、手足に苦しむ者を救いやるであろう」と言い残して死ぬ[6]。後に、その霊を弔うために祠を建てたのがこの神社の起こりであるとされる[6] [8]

もっとも、甲斐宗立の最期については諸説ある。文献史料では、毛利勝信の兵に捕えられ殺されたとするものが多く[9]、佐々成政の家臣・松原五郎兵衛に攻められ、六嘉村の地蔵堂で自刃したとする説もある[10] [11] 。 また、六嘉村には、戦に敗れて追われた甲斐宗立が、六嘉村にあった泉福寺[12](専福寺[13])に逃げ込んでここで切腹し、そのため寺は潜伏寺、あるいは切腹寺と呼ばれたとの伝承がある[14][15][16]。なお、この点に関し、甲斐神社の建立主[17]である荒尾群平[18]は、宗立は泉福寺で切腹したと見せかけ、今の甲斐神社の地で介抱を受けた上で、切腹したとしている[19]

一方で、明治政府の命により熊本県が作成した地図の1つ、「肥後国託麻郡小山村」(現在の熊本市東区小山町)の地図には、「陵墓」として、村の東、御船塚官山に甲斐宗立墓と言われるものの記載があり、ここと六嘉村と真の宗立墓がどちらにあるかは不明だとされていた[20]

沿革

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絵馬の代わりに手型や足型を奉納する。社殿に並ぶ立体的な手型足型
積上げられた板状の簡略化された手型足型。

建立主・荒尾群平によれば、甲斐神社(足手荒神)は、上益城郡六嘉村において300余年[21]の往古より神霊この所にありとする[19]

もっとも、明和9年(1772年)に著された『肥後国志』は、上六箇村に甲斐宗立が逃げて来て死んだとの伝承を書くが、「墓所不分明」としていた[22]。また、『肥後国志』の明治17年(1884年)の補は、明治17年当時、六箇村に甲斐宗立の霊を祀るである足手荒神が存在したことを書くが、この祠について『肥後国志』本文にも、他の書物にも見えないとし、「何年ノ創立ニ係ルヤ不分明」としていた[23][24]

史料により確認できる創建は、荒尾群平が六嘉村の自分の宅地内に、甲斐宗立自刃の遺跡だとして祠を建たもので[2]昭和10年(1935年)刊行の書籍[25]に、「九十年ばかり前に、信仰者たちの発議によつて、小祠を建てることになつたといふ」とあることから、天保(1830〜1843)ないし弘化(1844〜1847)の頃となる。だが最近においては甲斐神社境内で甲斐家家紋の「丸に違い鷹の羽」が入った鬼瓦が発見され、瓦の裏には「文化二 丑 二月吉日 土山瓦作」と銘文が刻まれてる。この事から文化二年(1805年)二月以降に建立された可能性が大きい[26]。一説によれば、諸国遍歴の六部に、ここは甲斐宗立の終焉の地であるから祠を建て供養するようにと指示され祠を建てたのだという[27]

その後、前記のとおり『肥後国志』の補により、明治17年、甲斐宗立の霊を祀る足手荒神の祠が確認されている。 明治41年(1908年3月27日には、明治・大正期の哲学者東洋大学の創立者として知られる井上円了が、講演のため、現在の甲斐神社の隣地にあった小学校[28]を訪れ、日記に「校地の前隣に、足手荒神とて手足の願掛けをなす小祠あり。」と記述している[29][30]

大正3年の 『上益城郡旧鯰郷々土誌』においては、「甲斐神社」の名が確認できる [31]

祭事・信仰

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信仰する者その数を知らず、御利益を受け全快した諸人の寄進による手型、足型、ギプス、コルセット、松葉杖と正に社殿を埋め、遠くは外国、九州一円さては遠県よりの参詣者が後を絶たず、今も尚、足手荒神さんと慕われながら、参拝する諸人の手足を守り続ける。

例祭は2月15日。その日は手足の無病息災、病気平癒を祈り手足の形をした絵馬を奉納する参拝者で賑わう[32]。特別バスも走る[33]ほどである。毎月1日、15日に月次祭[26]

参拝した後、病が治られた方が奉納した手型・足型の御利益にあやかろうと、その手型・足型で手足を摩る参拝者が多い。

宗立公の父である甲斐宗運は阿蘇神社大宮司の家臣で、戦にかけては生涯不敗だといわれ、阿蘇氏の筆頭家老として軍事外交面において阿蘇氏を支えた。宗運の武名は、勇猛で知られる薩摩島津家からも「宗運のいる限り、肥後への侵攻はできぬ」と恐れられた[要出典]ほどであり、その知略を生かした武功から、勝負事(必勝祈願)、厄除けの神様として今なお篤く信仰されている。

エピソード

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  • 明治41年、当所の足手荒神を目にした井上円了[34]は、日記に「遠近より祈請するもの、手足の形を模した板を奉納す。その板積みて山をなすは笑うべし。」と書き残している[29]
  • かつて、ここを参拝した足の立たない人が、後に立てるようになった際、お礼にと神前で自分の親指を切り落として奉納した。指は長らくアルコール漬けにされて供えられていたが、今はないという。[35]

交通アクセス

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バス

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  • 熊本バス「足手荒神入り口」より徒歩で約10分
  • 熊本バス「東小学校入り口」より徒歩で約5分
  • イオンモール熊本 熊本バスCホーム31番・32番のりば(県庁・健軍電停経由)から「東小学校入り口」より徒歩で約5分

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駐車場あり。大型バスも可。

周辺

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脚注

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  1. ^ 公式ページより
  2. ^ a b 『上益城郡誌』137頁
  3. ^ 『熊本県神社誌』204頁、鈴木『熊本の神社と寺院』80頁
  4. ^ 『熊本県下市町村要覧』129頁
  5. ^ 熊本地方法務局
  6. ^ a b c d 「甲斐神社(足手荒神)由来」(甲斐神社境内の案内板)、『熊本を歩く』129頁。
  7. ^ 両手両足を斬り放たれたのだという。卯野木『肥後史話』86頁、『熊本の伝説』44-45頁、高野『勇将・甲斐宗運』51頁
  8. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』65頁に掲載の荒尾群平の調書には切腹したことが書かれるが、現在の甲斐神社発行の「足手荒神(甲斐神社)御由緒」は「息を引き取った」、「甲斐神社(足手荒神)由来」(甲斐神社境内の案内板)は「遂に当に眠る」とし、いずれも切腹には触れない。もっとも現在の由緒書を書いたのは六嘉の歴史学者であり神道家の高野直之である
  9. ^ 「新撰事蹟通考巻之十二」『肥後文献叢書 第3巻』188頁「新撰事蹟通考巻之十九」『肥後文献叢書 第3巻』同305頁『肥後国志 巻之12』87丁裏『肥後国史略』31頁『野史 第64巻』20丁表
  10. ^ 『九州治乱記』810-811頁
  11. ^ 「古城考」『肥後文献叢書 第1巻』250頁も、益城郡六箇村地蔵堂に於て自殺とする。
  12. ^ 『国郡一統志 復刻版』722頁には「泉福寺」と見える。
  13. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』64頁
  14. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』64頁。甲斐神社の社伝については「宗立永眠の遺跡なりと称す」とする一方、専福寺跡については、「甲斐宗立自決ノ地ト称セラレ口碑伝説ニ隠レ無キ遺跡」とし「宗立自刃の地として信拠すべきか」とする。これが書かれた大正3年、ここには古い祠、五輪の塔石碑があり、数年前までは古い鳥居もあったという。『嘉島町誌』302頁は泉福寺跡(五輪の塔など)の写真入りで伝承を紹介する。
  15. ^ 荒尾群平は、地蔵堂が泉福寺(専福寺)だとする(『上益城郡旧鯰郷々土誌』65頁に掲載の荒尾群平の調書)。なお、毛利勝信の兵に殺されたとする「新撰事蹟通考巻之十九」『肥後文献叢書 第3巻』305頁も、その場所は地蔵堂としている。
  16. ^ 毛利勝信兵による誅殺、甲斐神社の社伝、泉福寺での切腹の3説を紹介するものとして、高野『郷土史談 益城の華』135頁。毛利勝信兵による誅殺、甲斐神社の社伝の2説を紹介するものとして荒尾延寿「肥後の足手荒神縁起」62頁。
  17. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』64頁。「甲斐神社(足手荒神)由来」(甲斐神社境内の案内板)は、「斉主の祖父祠を建て」と、現斉主の祖父による建立を明示する。
  18. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』42頁、同64頁、『上益城郡誌』137頁、荒尾延寿「肥後の足手荒神縁起」62頁。
  19. ^ a b 『上益城郡旧鯰郷々土誌』65頁に掲載の荒尾群平の調書。
  20. ^ 『新熊本市史 別編 第1巻 絵図・地図 下 近代・現代』278頁
  21. ^ 大正3年当時
  22. ^ 『肥後国志 巻之12』9丁表
  23. ^ 『肥後国志 巻之12』9丁裏
  24. ^ 『熊本県の不思議事典』126-127頁は、『肥後国志』の本文及び補の記載から、甲斐神社の足手荒神信仰の始まりを明治初年と推定する。
  25. ^ 高野『勇将・甲斐宗運』52頁
  26. ^ a b 甲斐神社公式サイト
  27. ^ 荒尾延寿「肥後の足手荒神縁起」62頁
  28. ^ 現在も、嘉島町立嘉島東小学校(嘉島町上六嘉2063番地)が残る。
  29. ^ a b 『井上円了選集 第12巻』452-453頁
  30. ^ もっとも、昭和53年(1978年)刊行の荒尾延寿「肥後の足手荒神縁起」62頁に、「今の神殿が建てられ、既に九十余年を閲みし」とあることからは、社殿建設は明治20年頃とも考えられる。同書によれば、社殿は荒尾群平が青年時代、飯田山から材木を切り出し、宮大工に頼んで建てたものだという。ただし、画像のとおり、現在でも社殿は比較的小規模なものである。
  31. ^ 『上益城郡旧鯰郷々土誌』42頁、同63-65頁
  32. ^ 『熊本県案内記』33頁には、「足手の病に霊験ありとて(略)大祭には遠近より参詣するもの甚だ多し。」とある。近時の文献でも、『熊本・観光文化検定 公式テキストブック』189頁には、「毎年2月15日に行なわれる大祭には、手足の型の板に名を記し奉納する人が境内を埋め尽くし」とある。
  33. ^ 『嘉島町誌』319頁
  34. ^ 『妖怪学講義』を著すなどして迷信の打破に努め、「妖怪博士」と呼ばれた。内部リンク先参照。
  35. ^ 『病気を癒す小さな神々』305頁。1993年刊の同書に「最近なくなった」とある。

参考文献

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外部リンク

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