王驤
王驤 | |
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プロフィール | |
出生: | 1887年(清光緒13年)[1] |
死去: |
1953年8月16日 中華人民共和国山西省太原市 |
出身地: | 清山西省平定州寿陽県 |
職業: | 政治家・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 王驤 |
簡体字: | 王骧 |
拼音: | Wáng Xiāng |
ラテン字: | Wang Hsiang |
和名表記: | おう じょう |
発音転記: | ワン シャン |
王 驤(おう じょう)は中華民国の政治家・実業家。閻錫山率いる山西派の政治家。後に南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会で山西省省長をつとめた。字は初め俊才で、後に濬源に改めた。号は一愚。
事績
[編集]清末に秀才となる。省立山西大学堂を卒業し、貴州鉱業学堂(中校)や山西省の陽興中学で教員となる。辛亥革命後に故郷に戻り、中国同盟会に加入した。1913年(民国2年)、山西省立第一中学校長に任ぜられている[2][3][4]。
1916年(民国5年)、晋鉱務公司総稽核兼営業部部長となる。1928年(民国17年)、河北省の井陘県鉱務局局長となった。このほか、陽泉第2鉱山鉱長もつとめている。1930年(民国19年)9月、退職し、山西省新絳県で雍裕紗廠を創設した。1932年(民国21年)、山西省銀行事務総理となる[2][3]。
1935年(民国24年)2月8日、王驤は山西省政府委員兼建設庁庁長に任命された[5]。翌1936年(民国25年)2月、農村救済局の成立とともに同局長に転じ[2][3][4]、3月7日に建設庁庁長の兼職を解かれる。1937年(民国26年)2月27日、省政府委員を辞職した[5]。
日中戦争(抗日戦争)が勃発すると、王驤は下野して陝西省に移り、さらに香港へ逃亡した[6]。1942年(民国31年)、山西省に戻り、1943年(民国32年)4月、南京国民政府(汪兆銘政権)華北政務委員会において山西省教育庁庁長に任命された。また、山西省医学専科学校校長もつとめている。翌年6月[7]、山西省省長兼保安司令に昇進した[2][3][4]。
日本敗北後、王驤はいったんは閻錫山に再登用され、山西省高級参事に任ぜられた。しかし省内における王驤への制裁世論は強く、1946年(民国35年)1月に漢奸として逮捕され、後に無期徒刑(懲役)の判決を言い渡された。1949年(民国38年)4月、中国人民解放軍が太原市を攻略すると、中国共産党により王驤は再逮捕された。1953年8月、山西省高級人民法院は王驤に死刑判決を言い渡し、同月16日に刑は執行された。享年67[4]。
注
[編集]- ^ 徐主編(2007)、58頁と劉国銘主編(2005)、114頁による。『寿陽県志』(1993)、653頁は1885年としている。
- ^ a b c d 徐主編(2007)、58頁。
- ^ a b c d 劉国銘主編(2005)、114頁。
- ^ a b c d 『寿陽県志』(1989)、653頁。
- ^ a b 中華民国政府官職資料庫「姓名:"王驤"」※同姓同名の別人(軍人)も検索結果に含まれるので注意
- ^ 『寿陽県志』(1993)、653頁による。徐主編(2007)、58頁によると、下野後、桐旭医院院長になったとしている。
- ^ 劉寿林ほか編(1995)、1132頁による。徐主編(2007)、58頁は同年2月としている。
参考文献
[編集]- 寿陽県志編纂委員会編『寿陽県志』山西人民出版社、1989年。
- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
南京国民政府(汪兆銘政権)
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