正田きぬ
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しょうだ きぬ 正田 きぬ | |
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生誕 |
正田 きぬ 1880年2月12日 日本 |
死没 |
1970年5月9日(90歳没) 日本 |
死因 | 老衰 |
配偶者 | 正田貞一郎(夫) |
子供 |
正田明一郎(長男) 正田はる(長女) 正田建次郎(次男) 水島勅子(次女) 正田英三郎(三男) 脇村祐子(三女) 正田順四郎(四男) 正田千鶴子(四女) 正田篤五郎(五男) 正田和子(五女) |
親 |
五代文右衛門(父) 正田あつ(母) |
親戚 |
上皇后美智子(孫) 今上天皇(曾孫) 秋篠宮文仁親王(曾孫) 黒田清子(曾孫) |
正田 きぬ(しょうだ きぬ、1880年(明治13年)2月12日[1] - 1970年(昭和45年)5月9日)は、日本の歌人。元日清製粉社長である正田貞一郎の妻。父は五代文右衛門。
生涯
[編集]1880年(明治13年)、正田文右衛門 (5代)(五代文右衛門)の長女として生まれる。弟に敏一郎(正田文右衛門 (6代)、六代文右衛門)がいる。
1897年(明治30年)12月8日、後の日清製粉社長となる正田貞一郎と結婚[2]。夫となった貞一郎の父(正田作次郎)はきぬの祖父(四代文右衛門)の弟で、つまり夫は父の従兄弟にあたる。貞一郎との間に5男5女を儲ける。なかでも三男の正田英三郎は、長女美智子が民間から皇室へと初めて嫁いだことで知られる。
1952年(昭和27年)に歌集『松陰集 正田きぬ歌集』を出版。1970年(昭和45年)5月9日、老衰のため死去[3]。墓所は東京都府中市にある多磨霊園(15-1-1-23)。
著書
[編集]- 『松陰集 正田きぬ歌集』(1952年)