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桂文三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

桂 文三(かつら ぶんざ)は、上方落語名跡。本名跡は約90年絶えていたが、桂つく枝が2009年5月16日に五代目を襲名した[1]

結三柏は、桂文枝一門の定紋である[2]
江戸
上方
  • 桂文三 - 以上の各代以前にも、初代桂文治門下に文三の名が見える。
  • 桂文三 - 天保14年(1843年)の見立番付の前座にも、別の文三の名が見られる。
  • 初代桂文三 - のちの桂文左衛門
  • 2代目桂文三 - 当該項目で記述。
  • 3代目桂文三 - 当該項目で記述。
  • 4代目桂文三 - 本項にて記述。
  • 代外桂文三 - 3代目文三門下の初代桂ざこばは、4代目文三没後、5代目文三を名乗っていたが、正式な襲名などは行わなかったようで、代数に入れられていない。
  • 5代目桂文三 - 当該項目で記述。

4代目 (かつら) 文三(ぶんざ)
本名 高田卯之助
生年月日 1886年
没年月日 1921年10月10日
出身地 日本の旗 日本
師匠 3代目桂文三
名跡 1. 桂小文吾(? - 1904年)
2. 桂小文三(1904年 - 1921年)
3. 4代目桂文三(1921年)
活動期間 ? - 1921年
活動内容 上方落語
家族 3代目桂文三(父)

4代目 桂 文三1886年 - 1921年10月10日)は、本名: 高田卯之助。享年35。

3代目文三の実子。18歳の時、父の門下であった3代目桂扇枝を頼って密かに神戸寄席に出るが、間もなく父の知るところとなり、正式に父のもとに入門し桂小文吾を名乗る。父の方針により京都で修行したが、前座時代は真面目で「模範前座」と言われるほど器用であり、将来を嘱望された。1904年に小文三と改名して大阪の父の元に戻り、1921年4月に4代目文三を襲名するも、その半年後に脱腸の手術が失敗して急逝。

初代桂雀三郎(後の2代目桂小文枝)や初代桂三輔(後の初代桂ざこば)らと共に桂派の若手として活躍するが、明治末期に父と共に三友派に移籍。『名古屋甚句』や『オッペケペー』などの音曲も得意とした。

脚注

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  1. ^ SANSPO.COM (2009年5月16日). “桂つく枝、文三襲名「吹っ切れました」”. 2009年5月17日閲覧。
  2. ^ 歴代の文三は3つの「文」の字を丸くつないだ「文三紋」も使用。

出典

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  • 『落語系圖』(月亭春松編)
  • 『古今東西落語家事典』(平凡社、1989年)
  • 『ご存じ古今東西噺家紳士録』(CD-ROM、APP、2005年)

関連項目

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