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松下直美

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松下直美

松下 直美(まつした なおよし、1848年11月26日嘉永元年11月1日[1]) - 1927年昭和2年)5月18日[1])は、福岡市長大審院判事司法官僚、教育者。通称は嘉一郎、駿一郎[2]。福岡市長在任中、帝国大学の誘致に尽力して京都帝国大学福岡医科大学が設立され、九州帝国大学(現・九州大学)の礎を築いた[3]

経歴

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福岡藩士・松下理兵太の長男として福岡城下に生まれる。1858年(安政5年)、11歳の時、御茶屋御用受持添役であった父に従い長崎に到る。オランダ通詞の名村八右衛門(大審院検事長となった名村泰蔵の養父)に就いて蘭学を習ったが病気のため帰国する[4]

1863年(文久3年)、再び長崎に遊学し、英語を学ぶため、福岡藩の通訳もしていた瓜生寅の私塾・倍社に入門する。同学には、瓜生震や林謙三(後の安保清康)らがいた。直美はまた江戸町にある幕府の済美館に通い、グイド・フルベッキに就いて英語を学び、後にフランス語も学ぶ。また、平井義十郎や志筑龍三郎(堀達之助の四男、別字・竜三郎)からも習っている[4]

1867年(慶應3年)、西洋文明の習得を奨励する福岡藩主・黒田長溥の命により、藩は当時赤字財政であったがアメリカ留学が認められた[4][3]。長崎・大浦居留地の米国人A.D.W.フレンチには渡航準備の世話になった[4]

3月に福岡を離れ、渡航許可や船待ちのため江戸で4ヵ月待機した後、7月(旧暦)になって、アメリカの汽船コロラド号で、監督役の平賀磯三郎(義質)、船越慶次、井上六三郎(良一)、本間英一郎、青木善平とともに6名でアメリカへ向けて出発する。藩費での留学であったが、青木善平だけは私費での参加であった[4]。この6名は福岡で最初の留学生といわれる[3]

27日がかりでサンフランシスコに到着し、パナマ運河経由でボストンへ渡った。他の5名は、そのままボストンで留学するが、当時19歳であった直美は、パリ留学を命じられていたため、一人、大西洋を越えて欧州へ渡るが、船内で知り合ったスイス横浜領事に、「パリが物価が高いため、我がスイスへ留学したらいい。」と進められた。そのため、予定を変更してスイスへ行くことに決め、スイスのローザンヌに留学した。しかし、翌年末には藩の財政難から帰国を命じられ、スイスからアメリカ経由で、明治2年5月に帰国した[4]。(この時、船越、青木は既に帰国していた[4]。)

帰国後の1870年明治3年)、藩に洋学の急要を提言して藩校修猷館内に洋学館を開設し、英語・フランス語を講義した[5]1871年明治4年)、兵部省に出仕し、ほどなく司法省に移った。司法省では明法権大属、明法大属、司法大録を歴任し、1876年(明治9年)には翻訳課御用掛となり、洋書の翻訳作業に従事した。その後、司法二等属、司法一等属、太政官一等属を歴任し、1881年(明治14年)に判事に転じた。長崎控訴院判事、広島始審裁判所所長、山口始審裁判所所長、山口地方裁判所所長、広島地方裁判所所長を歴任し、1899年(明治32年)に大審院判事に就任した。

同年、福岡市会から市長に選出され、1905年(明治38年)まで在任した。在任中、帝国大学の誘致に尽力した結果、京都帝国大学の分科大学として福岡医科大学が設置され、九州帝国大学の基礎を築いた。

市長退任後、統監府から判事として招かれ、大邱控訴院部長、大邱地方裁判所長などを務めた。引き続いて1910年(明治43年)より朝鮮総督府裁判所判事を務め、その翌年に退官した[6]

栄典

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脚注

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  1. ^ a b 『福岡県百科事典 下巻』838-839頁。
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus 講談社 『松下直美】』
  3. ^ a b c 福岡市・博多の豆知識 vol.3 『海外留学生はじめはじめ』 2009年3月20日
  4. ^ a b c d e f g 一般社団法人長崎親善協会 『フルベッキ研究レポート』
  5. ^ 大熊浅次郎「松下直美概蹟:幕末福岡藩洋行の先駆 4」 昭和3年 8頁
  6. ^ 『官報』第8534号、明治44年11月30日
  7. ^ 『官報』第907号「賞勲叙任」1886年7月10日。

参考文献

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  • 大熊浅次郎『幕末福岡藩洋行の先駆 松下直美概蹟』1928年。 
  • 『福岡県百科事典 下巻』西日本新聞社、1982年。


公職
先代
奥山亨
福岡市長
第4代:1899 - 1905
次代
佐藤平太郎