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朱国禎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朱 国禎(しゅ こくてい、1557年 - 1632年)は、明代官僚は文寧、は平涵。本貫湖州府烏程県

生涯

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1589年万暦17年)、進士に及第した。翰林院編修・翰林院侍読・右諭徳を歴任して、国子監祭酒となったが、病を理由に官を辞し、郷里に帰って引きこもった。1621年天啓元年)、礼部右侍郎に抜擢されたが、上京しなかった。1623年(天啓3年)1月、礼部尚書・兼東閣大学士に任じられ、顧秉謙朱延禧魏広微とともに新たに入閣するよう命じられた。内閣にはすでに葉向高韓爌何宗彦朱国祚史継偕がおり、新たに4人が増員されたことで、直房には座る場所もない状態であった。6月、国禎は北京に到着して入朝した。序列は顧秉謙・朱延禧の後に位置付けられた。7月、文淵閣大学士に転じた。10月、少保・兼太子太保の位を加えられた。魏忠賢が政権を狙う中、国禎は首輔の葉向高を補佐し擁護した。1624年(天啓4年)夏、楊漣が魏忠賢の二十四大罪を弾劾する上疏をおこなうと、廷臣の多くは弾劾に同調して上疏するよう葉向高に勧めた。その中には葉向高をそしる者もおり、葉向高は激怒したが、国禎はこれを容れるよう求めた。そこで葉向高はひそかに魏忠賢を非難する上奏をおこなったが、宦官たちが葉向高の邸を包囲するにいたって退任を決意した。葉向高は国禎に「わたしが去った後、蒲州(韓爌)では魏忠賢らの敵にならないだろう。公も早く退任して帰ったほうがいい」と言い残した。7月に葉向高が致仕すると、韓爌が首輔となり、11月に韓爌が致仕すると、国禎が首輔となった。魏広微は魏忠賢と結び、国禎を蔑んでいた。12月、国禎は魏忠賢の仲間の李蕃に弾劾された。そこで国禎は三度上疏して病を理由に引退を請願した。少傅の位を加えられて致仕し、銀幣を賜り、行人に送られて帰郷した。1632年崇禎5年)、死去した。享年は76。太傅の位を追贈された。は文粛といった。著書に『史概』120巻・『輯皇明紀伝』30巻[1]・『湧幢小品』24巻[2]があった。

脚注

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  1. ^ 明史』芸文志二
  2. ^ 『明史』芸文志三

参考文献

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  • 明史』巻240 列伝第128