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彌永昌吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
彌永 昌吉
(いやなが しょうきち)
彌永昌吉(1969年撮影)
生誕 (1906-04-02) 1906年4月2日
日本の旗 日本東京府
死没 (2006-06-01) 2006年6月1日(100歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍 日本の旗 日本
研究分野 数学
研究機関 東京大学
学習院大学
出身校 東京帝国大学
博士課程
指導教員
高木貞治
博士課程
指導学生
東屋五郎
伊藤清
岩澤健吉
小平邦彦
久賀道郎
佐藤幹夫
鈴木通夫
竹内外史
玉河恒夫
山辺英彦
主な業績 整数論
主な受賞歴 勲二等旭日重光章
レジオンドヌール勲章
プロジェクト:人物伝
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彌永 昌吉(いやなが しょうきち、1906年4月2日[1] - 2006年6月1日[1][2])は、日本の数学者東京大学名誉教授。「弥永」と表記される場合もある。

経歴

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1906年、東京府生まれ[1]。東京府立第四中学校(現 東京都立戸山高等学校)卒業[3]。同校では、犬井鉄郎(のち東大応用数学科教授)らと親しくしていた。四年修了での旧制第一高等学校受験にうっかりミスで失敗し、四中卒業後に一高に入学した。その間、秋山龍や森外三郎らの訳書である代数や幾何などの一般数学書や、アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」に親しむ。同高校を卒業後、東京帝国大学理学部数学科に入学[1]高木貞治に師事して主に類体論について学ぶ[3]。1929年、同大学を卒業[1]。1931年から3年間にわたり、ドイツとフランスに留学した[1][4]。1934年に帰国し[1]、翌年東京大学理学部助教授[1]1936年、東京大学より理学博士の学位を取得、学位論文の題は「一般單項化定理に就て」[5]

1942年から1967年まで東京大学理学部教授[1]、1967年から1977年まで学習院大学教授[1]1970年フィールズ賞選考委員。1978年日本学士院会員に選出された[1]

2006年6月1日、老衰のため満100歳にて死去。最晩年に至るまで、著書や論文を著した[6]

受賞・栄典

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研究内容・業績

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数学者として

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数学教育への尽力

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  • 代数学幾何学の分野にも関心を持ち、中学の先輩であり数学者である吉田洋一と共に、数学史の編纂に携わった。また、11ヶ国語前後の言語をマスターしていた。
  • 小平邦彦らとともに東京書籍発行の算数・数学教科書の作成に関わったことも挙げられる(彌永が担当したのは1970年代後半まで)。

その他

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長野県軽井沢に別荘があった。彌永家ゆかりの別荘は、「旧彌永家別荘」として国の登録有形文化財に登録されている。

家族・親族

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  • 妹:小平セイ子
彌永の指導学生で数学者の小平邦彦の妻。小平は義理の弟になる。
数学者。ジャン=ピエール・セールの「数論講義」等を翻訳した。

著書

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単著

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編著

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共著

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訳書

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関連項目

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  • ICMI(数学教育国際委員会)[1]

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k 飯高茂彌永昌吉氏欧文書簡について 1」『学習院大学史料館紀要』第16巻、学習院大学史料館、2010年3月、1-7頁。 
  2. ^ 日本人名大辞典+Plus,デジタル大辞泉,世界大百科事典内言及 百科事典マイペディア,デジタル版. “弥永昌吉とは”. コトバンク. 2021年12月9日閲覧。
  3. ^ a b 編集部「<インタビュー>彌永昌吉先生にお話しを伺う」『数学』第44巻第4号、日本数学会、1992年、352-356頁、doi:10.11429/sugaku1947.44.352 
  4. ^ 彌永昌吉著『若き日の思い出 数学者への道』 岩波書店、2005年6月3日
  5. ^ 博士論文書誌データベース
  6. ^ 彌永昌吉先生が満百歳で発表された論文について (PDF)