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屋良里之子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
屋良里之子
生誕 薛以恭
(1679-03-26) 1679年3月26日
死没 1734年8月10日(1734-08-10)(55歳没)
国籍 琉球王国第二尚氏王朝
別名
  • 名乗: 利忠
  • 童名: 真山戸
  • 法号: 因祐
  • : 道機
  • その他: 屋良里之子、屋嘉部因祐
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屋良 里之子(ヤラ サトゥヌシ、時憲暦康熙18年2月15日グレゴリオ暦1679年3月26日) – 時憲暦雍正12年7月12日グレゴリオ暦1734年8月10日[1][2])は、琉球王国第二尚氏王朝時代の囲碁棋士唐名薛 以恭名乗利忠童名 (琉球諸島・奄美群島)真山戸[1]道機[2]。出家後の法号因祐[3]。采地が屋良村であり、位階が里之子であったことから、「屋良里之子」の名で知られた[4]。最終的な采地は屋嘉部村であったことから、屋嘉部里之子親雲上利忠とも呼ばれた。また出家によりとなった後は屋嘉部因祐あるいは屋嘉部因祐利忠と呼ばれた[5][6]

生涯

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屋良里之子は康熙18年2月15日勝連親雲上利良(薛芳哲)と本妻の呂氏眞呉勢(号は心臺)の長男として誕生[7][1]薛氏屋嘉部家の3世であった[1]。兄弟は、弟が2人と妹が5人いた。康熙38年、算用座の役職である筆者に就く。康熙44年、尚貞王と囲碁を対局。康熙45年7月、従八品若里之子となり、屋良村の地頭となったことから、「屋良里之子」と呼ばれるようになった[8]

日本の囲碁棋士との対戦

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康熙48年8月、屋良里之子は琉球使節に任命され、江戸幕府徳川家宣征夷大将軍に襲職する慶賀のため日本江戸に派遣された。屋良里之子は美里王子朝禎(唐名は尚紀)を長とする慶賀使の随員として、11月11日に江戸に到着した。12月1日、屋良里之子は当時七段の本因坊道知と対局した。本因坊道知は外国棋士との対局では向三子とする慣例であり、屋良里之子は三子を置いて対局した。結果は第一局、第二局とも屋良里之子の中押し負けであった。両局はそれぞれ「道知授屋良里之子三子局」[9][10][11][12][13][14][15]、「十厄勢」[16][17][18][19]として知られている。

(「道知授屋良里之子三子局」白中押し勝ち194手まで、手順略)

本因坊道知との対局はこれで終了。また屋良里之子は当時13歳の相原可碩三段とも対局し、結果は可碩の2目勝ちであった[16]。本因坊道知は屋良里之子への三段免状発行の推薦と、伝法の書を1冊贈った[13][14]

帰国後

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屋良里之子は帰国後、康熙50年に米御蔵の役職である筆者に就いた。康熙51年10月黄冠を叙される。康熙52年、御書院で御路地の役職に就き、続いて御茶道相に転任。その6日後、剃髪出家し、法号を因祐とする。ただし琉球王国には依然として仕えたままであった[3]。その後も御書院の御路地の役職を兼任し、南風原間切の新川地頭職、玉城間切の屋嘉部地頭職を歴任[20]

囲碁棋士としては、乾隆2年に弟子として熱田親雲上忠春(任弘済)[13]が入門。弟子の熱田忠春は後に田頭親雲上として井上春碩因碩七段と対局して勝利し、「日本国大国手」の免状を与えられた。

屋良里之子は雍正12年7月12日に、享年56歳で死去[2]

参考文献

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  1. ^ a b c d 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠” (2017年12月). 2012年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “童名眞山戸唐名薛以恭行一康煕十八年已未二月十五日生”
  2. ^ a b c 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠”. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “雍正十二年甲寅七月十二日不禄享年五十六號道機”
  3. ^ a b 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠”. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “康煕五十年六月二十五日為米御藏筆者。尚敬王世代,康煕五十一年壬辰十月二十七日叙黄冠,康煕五十二年癸巳三月二十二日為御書院御路地當,康煕五十二年癸巳四月二日為御茶道相附賜御扶持方五斛也同八日剃髪賜因祐名字號因祐(但別之相付者雖為三斛予加賜二斛為五斛也勤仕二十二年)”
  4. ^ 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠” (2017年12月). 2012年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “琉球國屋良里之子”
  5. ^ 任姓家譜(屋我家)”. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “屋嘉部因祐事、先年於江府大國手井上因碩江碁致傳受對國手二之免状(并)傳法之書一冊被授置候”
  6. ^ 任姓家譜(屋我家)”. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “乾隆二年丁巳六月從予若年就薛氏屋嘉部因祐利忠習碁之法因茲利忠於江府從大國手井上因碩對國手本因坊被二碁子之免則得免状及傳法之書。”
  7. ^ 薛姓家譜(屋嘉部家)·二世利良”. 2012年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “唐名薛芳哲……室呂氏仲程親雲上通典女眞呉勢号心臺……長男利忠”
  8. ^ 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠” (2017年12月). 2012年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “康煕三十八年己卯十二月朔日為算用座筆者, 康煕四十四年乙酉四月於 御前囲碁于時唐碁器一面繻子紳一筋拜領焉,康煕四十五年丙戌七月十八日叙若里之子,康煕四十五年丙戌十二月朔日為瓦奉行所筆者。”
  9. ^ 日本宝永征服下手的名局”. 弘通圍棋 (2009年9月8日). 2018年1月28日閲覧。
  10. ^ 道知授屋良里之子三子局” (2009年12月9日). 2012年7月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。
  11. ^ 十厄勢”. 2012年12月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。
  12. ^ 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠” (2017年12月). 2012年9月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “康煕四十八年,公方様御代替之御祝使尚氏美里王子朝禎赴于江府之時為内證役然以學碁之事故御賦銀米拜賜之翌年七月二日那覇開船同九日到于麑府同八月二十六日啓行同十一月十一日到于江府同十二月朔日於芝御屋敷從 中将吉貴公囲碁所井上因碩本因坊道智上手衆井上因節所招請三人奉命臣着三碁子與本因坊囲碁此時御令第〈弟カ〉島津周防殿御老中島津大倉殿嶋津帶力殿有上御饗應同九日因碩因節可碩禪受碁之秘傳書則 吉貴公出御有上覧同十四日因節友碩因長三門兄来而授因碩之印状于門第〈弟カ〉門外聞豈有加之哉此時帯力殿以御對面有御吸物肴核之饗也碁免状曰庚寅之冬琉球屋良里之子從王子而来在于江府 薩摩侯羽林吉貴之第〈弟カ〉 薩摩侯受 官命與屋良囲碁屋良着三碁子對國手本因坊予在傍観之且以定其手品蓋因 中山王之請也予許之以對國手着二碁子焉観其下子資禀不庸工夫有素積以歳月而眞積力久則其進也豈可量哉惜乎接遇日浅離別期近而教誨之不数矣雖然碁之為方原於陰陽變化之理治國治人之方盡存於此其要在方寸之間而已歸帆後勉焉不怠專心致志則雖隔千里猶咫尺斯道在己豈求外哉”
  13. ^ a b c 任姓家譜(屋我家)·七世實安”. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “乾隆二年丁巳六月從予若年就薛氏屋嘉部因祐利忠習碁之法因茲利忠於江府從大國手井上因碩對國手本因坊被二碁子之免則得免状及傳法之書非是私事必訴朝而予約令相傳然利忠不慮卒去故從利忠長男利昌授賜焉則奉表朝也于左訴書及免状開焉”
  14. ^ a b 任姓家譜(屋我家)·七世實安”. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “屋嘉部因祐事、先年於江府大國手井上因碩江碁致傳受對國手二之免状(并)傳法之書一冊被授置候、因祐存在之砌申候此儀屹与以御下知相達為申事候、然者私之事ニ而無之候、必以私ニ可相傳由兼約有之、右之段嫡子屋嘉部筑登之ニ茂被申置候ニ付而此内屋嘉部筑登之より相渡候ニ付受用仕候、誠以師恩之厚情不浅存候、此段首尾申上度奉存候条宜様御披露奉頼候、以上”
  15. ^ 任姓家譜(屋我家)·七世實安”. 2012年9月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “庚寅之冬琉球國屋良里之子從王子來在于江府薩摩侯羽林吉貴之第〈弟カ〉薩摩侯受官命與屋良圍碁屋良着三碁子對國手本因坊(予)在傍觀之且以定其手品蓋因 中山王之請也(予)許之以對國手着二碁子焉觀其下子資稟不痛上夫有素積以歳月而眞積力久則其進也豈可量哉惜乎接遇日浅離別期近而教誨之不數矣雖然碁為方原於陰陽變化之理書存於此其要在于方寸之間而已歸帆之後勉焉不怠專心致志則雖隔千里猶咫尺斯道在己豈求外哉”
  16. ^ a b 琉球の碁(4)” (2008年6月). 2008年10月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。
  17. ^ 通航一覽·琉球国部十·来貢寶永七年” (2001年1月19日). 2018年1月28日閲覧。 “宝永七年、琉球人逗留之内、屋良里之子と本因坊囲碁あり、屋良三ツ置『按するに、前の免状によるに三ツハ二ツの誤りなるへし』、負る”
  18. ^ 通航一覽·琉球国部十·来貢寶永七年” (2001年1月19日). 2018年1月28日閲覧。 “庚寅之冬、琉球国屋良里之子従王子而来、在于江府薩摩侯羽林吉貴之第、薩摩侯受官命与屋良囲碁、屋良着三碁子対国手本因坊、予在傍観之、且以定其手品、蓋因中山王之請也、予許之、対国手着二碁子焉、観其下子、資禀不庸、工夫有素、積以歳月、而真積力久、則其進也豈可量哉、惜乎接遇日浅、離別期近、而教誨之不数多、雖然碁之為方、原於陰陽変化之理、治国治人之方、尽存於此、其要在于方寸之間而已、帰帆之後勉焉、不怠専心致志、則雖隔千里猶咫尺、斯道在己、豈求外哉、”
  19. ^ 通航一覽·琉球国部十·来貢寶永七年” (2001年1月19日). 2018年1月28日閲覧。 “宝永七年、琉球人屋良里之子へ、本因坊より「按するに、井上因碩の誤りなるへし、」贈られる碁之免状”
  20. ^ 薛姓家譜(屋嘉部家)·三世利忠”. 2012年12月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年1月28日閲覧。 “康煕五十八年己亥八月二十八日叙當座敷,雍正元年癸卯三月十二日為御書院御路地方兼役(從此時御路地當御茶道方相附兼役始也),雍正三年乙巳正月三十日任南風原間切新川地頭職,雍正六年戊申十二月二十二日恩賜黄綸子冠絹一頂(先是剃髪之人無冠焉準諸人位冠被頭巾自此時始矣)雍正七年己酉十二月十一日轉任玉城間切屋嘉部地頭職,雍正七年十二月二十三日減少於御扶持一石而準同役為四石”