富士信成
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛永4年(1627年) |
死没 | 元禄2年9月21日(1689年11月2日 )(63歳没)[1] |
改名 | 法名:雲西[1] |
別名 | 通称:市兵衛[1] |
戒名 | 歓光院殿喜誉蓮西信士[2] |
墓所 | 長谷寺(神奈川県横浜市栄区長尾台町)[1] |
幕府 | 江戸幕府 |
氏族 | 富士氏 |
父母 | 父:富士信重 母:織田氏の娘[1] |
兄弟 | 富士信友、富士信久、富士信吉、富士信成 |
妻 | 植村正次の娘[1] |
子 | 富士信宗(養子、富士信久三男)[1] |
富士 信成(ふじ のぶなり)は、江戸時代の武士。関東在地の富士氏の一族。
出自
[編集]富士信成は、富士城主であった富士信忠の第二子で後に関東を知行地とした富士信重の子である。従って、富士氏の庶流である。
略歴
[編集]『寛永諸家系図伝』によると、通称は市兵衛で富士信重の子であり、江戸で出生したとある[3]。『寛政重修諸家譜』巻第三百七十九(以下『寛政譜』)によると、正保3年(1646年)に家督を継ぎ、その後天守番となったとある。
『寛政譜』に「采地鎌倉郡長尾臺村の長谷寺に葬る」とあり墓所が記されるが、現在も長谷寺に墓碑が残る[4][5]。
この信成とは別に、富士家一族で信成を名乗った人物が複数人居る。富士氏の本拠である富士大宮の例では、富士信家[注釈 1]の第二子が信成(右馬介)を名乗り[6]、案主富士氏を再興している[7]。関東の富士氏では、信成より四代後の富士信清の子が信成(富士市十郎)を名乗っている[1]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 富士大宮司で、第三十二代富士氏当主
出典
[編集]参考文献
[編集]- 浅間神社社務所『浅間神社の歴史』古今書院〈富士の研究〉、1929年。
- 大橋俊雄『とよだ -その風土と歴史-』1976年。