姉小路公宣
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時代 | 平安時代後期 - 鎌倉時代前期 |
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生誕 | 養和元年(1181年) |
死没 | 嘉禄元年5月27日(1225年7月4日) |
改名 | 公信(初名)→公宣 |
別名 | 姉小路大納言 |
官位 | 正二位、権大納言 |
主君 | 後鳥羽天皇→土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇 |
氏族 | 姉小路家(閑院流) |
父母 | 父:三条実房、母:藤原経宗の娘 |
兄弟 | 三条公房、公宣、正親町三条公氏、三条公俊、公兼、覚実、公円、覚教、公恵、公深、公豪、公誉、徳大寺公継室、女御代 |
妻 | 藤原兼光の娘 |
子 | 実世、実文、実尚 |
姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけての公卿。左大臣・三条実房の次男。官位は正二位・権大納言。姉小路に住み姉小路大納言と号す。姉小路家(閑院流)の祖。
経歴
[編集]元暦2年(1185年)従五位下に叙爵。文治6年(1190年)従五位上に叙され、建久2年(1191年)侍従に任ぜられた。建久5年(1194年)正五位下に進み、翌建久6年(1195年)美濃権介を兼任する。建久7年(1196年)には右近衛少将に任じた。
建久8年(1197年)従四位下に叙される。建久9年(1198年)皇后宮権亮、建久10年(1199年)美濃介を兼ねる。正治2年(1200年)従四位上・左中弁、さらに建仁2年(1202年)正四位下・蔵人頭に叙任され、翌建仁3年(1203年)信濃権守を兼ねた。
元久元年(1204年)従三位に叙され公卿に列す。右近衛中将・美作権守を経て、承元2年(1208年)正三位・参議に叙任。承元5年(1211年)には従二位・権中納言に叙任され、建保3年(1215年)正二位に叙された。建保6年(1218年)中納言に進み、承久2年(1220年)中宮大夫に任ぜられた。承久3年(1221年)権大納言に昇り、貞応2年(1223年)三条有子の立后に伴って中宮大夫を兼ねるが、嘉禄元年(1225年)5月25日より病となり、同27日に父に先立ち45歳で薨去した。
官歴
[編集]※以下、『公卿補任』の記載に従う。
- 元暦2年(1185年)正月6日:従五位下に叙爵(皇后宮臨時御給)。
- 文治6年(1190年)正月27日:従五位上に叙す(朝覲行幸殷富門院御給)。
- 建久2年(1191年)2月1日:侍従に任ず。
- 建久5年(1194年)10月23日:正五位下に叙す(上西門院承安三年御給)。
- 建久6年(1195年)2月2日[1]:美濃権介を兼ぬ。
- 建久7年(1196年)正月28日:右近衛少将に任ず。
- 建久8年(1197年)正月:従四位下に叙す(殷富門院御給)。少將如元。2月6日[2]:禁色を聴す。
- 建久9年(1198年)正月:新帝昇殿。3月5日:皇后宮権亮を兼ぬ。
- 建久10年(1199年)3月29日[3]:美濃介を兼ぬ。
- 正治2年(1200年)正月5日:従四位上に叙す(皇后宮御給)。4月15日:東宮昇殿を聴す。10月26日:左中弁に転ず。
- 建仁2年(1202年)正月5日:正四位下に叙す。10月20日:蔵人頭に補す。
- 建仁3年(1203年)正月13日:信濃権守を兼ぬ。
- 元久元年(1204年)4月12日:従三位に叙す。
- 元久2年(1205年)3月2日:右近衛中将に遷る。
- 建永2年(1207年)正月13日:美作権守を兼ぬ。
- 承元2年(1208年)正月5日:正三位に叙す(中宮大夫藤原朝臣東大寺供養行事賞)。7月9日:参議に任ず。中將に任ず。
- 承元5年(1211年)正月18日:権中納言に任ず。7月28日:従二位に叙す。
- 建保3年(1215年)4月5日[4]:正二位に叙す。
- 建保6年(1218年)10月9日:中納言に転ず。
- 承久2年(1220年)正月27日[5]:中宮大夫に任ず。
- 承久3年(1221年)10月10日:権大納言に任ず。10月18日:中宮大夫を兼ぬ。
- 承久4年(1222年)3月25日:大夫を止む。
- 貞応2年(1223年)2月25日:中宮大夫を兼ぬ(立后)。
- 嘉禄元年(1225年)5月27日:薨ず。享年45。