大多和新輔
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大多和 新輔 | |
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生誕 |
1869年12月6日 周防山口藩 |
死没 | 1933年11月25日(63歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1891年 - 1923年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
大多和 新輔(おおたわ しんすけ、1869年12月6日(明治2年11月4日)[1] - 1933年(昭和8年)11月25日[2][注釈 1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。位階勲等功級は正四位勲二等功三級[3]。
経歴・人物
[編集]長州藩士・大多和篤義の長男として長門国(現・山口県)に生まれ、1913年(大正2年)家督を相続する[1][3]。 1890年(明治23年)7月29日の官報によると、陸軍士官学校第1期を歩兵科1番/103名で卒業[4][5]。翌年、陸軍歩兵少尉に任官する[6]。
歩兵第1連隊附、陸軍戸山学校教官、陸軍省軍務局課員を経て、1911年(明治44年)8月に陸軍歩兵大佐・歩兵第22連隊長に任官[1][3][5]。
ついで、1916年(大正5年)8月に陸軍少将・歩兵第26旅団長を経て、1919年(大正8年)11月に浦塩派遣軍兵站監長に補任され、志岐守治中将に代わり、撤兵まで勤務した[2][4][5]。
その後は、1920年(大正9年)8月に陸軍中将を経て、1920年(大正9年)9月に第11師団留守司令官に転じ、1922年(大正11年)8月に待命、1923年(大正12年)3月に予備役に編入した[4][5]。
栄典
[編集]- 位階
- 1894年(明治27年)2月28日 - 従七位[7]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 正六位[8]
- 1911年(明治44年)9月30日 - 従五位[9]
- 1916年(大正5年)9月11日 - 正五位[10]
- 1920年(大正9年)9月10日 - 従四位[11]
- 勲章
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』によると12月25日。
出典
[編集]- ^ a b c デジタル版 日本人名大辞典+Plus(講談社)『大多和新輔』 - コトバンク
- ^ a b 福川 2001, 153頁.
- ^ a b c d 人事興信所 1915, オ102頁.
- ^ a b c 福川 2001, 154頁.
- ^ a b c d 外山 1981, 93頁.
- ^ 外山 1981, 91頁.
- ^ 『官報』第3199号「叙任及辞令」1894年3月1日。
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第8486号「叙任及辞令」1911年10月2日。
- ^ 『官報』第1236号「叙任及辞令」1916年9月12日。
- ^ 『官報』第2434号「叙任及辞令」1920年9月11日。
- ^ 『官報』第2046号「叙任及辞令」1919年5月31日。
参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。ISBN 4829502738。
- 外山操『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4829500026。
- 人事興信所『人事興信録 第4版』人事興信所、1915年 。