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土居まさる

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
どい まさる
土居 まさる
プロフィール
本名 平川 巌彦
出身地 日本の旗 日本 静岡県沼津市[1]
生年月日 1940年8月22日
没年月日 (1999-01-18) 1999年1月18日(58歳没)
最終学歴 立教大学経済学部
勤務局 文化放送
部署 アナウンス部
職歴 元文化放送アナウンサー
活動期間 1964年 - 1998年
ジャンル バラエティ
出演番組・活動
出演経歴セイ!ヤング
象印クイズ ヒントでピント
スーパーダイスQ』など

土居 まさる(どい まさる、1940年昭和15年〉8月22日[2]1941年昭和16年〉8月22日[1] - 1999年平成11年〉1月18日)は、日本アナウンサー文化放送 → フリー)、ディスクジョッキータレント司会者。本名は平川 巌彦(ひらかわ よしひこ)[1]静岡県沼津市出身[1]

来歴

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愛知県出身で、後に静岡県田方郡天城湯ヶ島町(現在の伊豆市)で育つ。実際に育った集落は河津町湯ヶ野温泉であり、平川家も湯ヶ野に現存している。遠い親戚筋に当たる『伊豆の踊子』の宿福田家(稲穂家)が支援をしていた育ての親であるという話があり、湯ヶ野集落でお年寄りに話を聞くと「よしひこ(土居)は子供の頃から話をするのが上手だった」などの思い出話を聞くことができる。父親は天城山に位置する旅館[3]を経営していた。

静岡県立沼津東高等学校立教大学経済学部卒業[2]1964年4月、文化放送にアナウンサーとして入社。入社後はプロ野球中継の実況アナウンサーとして活躍していた。

1965年8月、『真夜中のリクエストコーナー』のパーソナリティを務めた。同番組は日本初の若者向けラジオ深夜放送と言われる。その後は『東京ミッドナイト』『電話リクエスト ハローポップス』『ハローパーティー』『セイ!ヤング』のパーソナリティを務めた。スポーツ アナウンサー出身らしい速いトークとリスナーに「ヤァヤァヤァ! 君は起きているかい? 今夜もビャーっと行こう!!」と語り掛ける口調、特徴的な言葉を発するスタイル[4]で人気を博す[5]エレックレコードから「カレンダー」で歌手デビューもした。

1969年からは文化放送と資本的に関係のあるフジテレビの番組(『スター千一夜』『テレビナイトショー』『お昼のゴールデンショー』)に出向という形で司会を担当した。

1970年、文化放送を退社。フリーアナウンサーに転身して、文化放送のレギュラー番組を続ける傍ら、『TVジョッキー』(日本テレビ)の司会に抜擢され、軽快な話術が当時の若者層に受け、一躍、全国区となり、1971年~1982年3月まで11年間務め、『プロ野球ニュース』(フジテレビ)土曜・日曜キャスター。さらには『スーパーダイスQ』(TBSテレビ)を1980年~1984年の5年間、『象印クイズ ヒントでピント』(テレビ朝日)の司会を1979年から放送終了の1994年までの16年間の長きに亘って担当し、名を馳せる。この他に『オールスター紅白大運動会』『オールスター紅白バレーボール大会』(フジテレビ)の総合司会(後者は実況も兼任)を務め、フジテレビの芸能人対抗スポーツ バラエティ番組の顔となる。

母校のある静岡県沼津市の『燦々ぬまづ大使』(第1期)を務めていた[6]

『ヒントでピント』終了後は、テレビショッピングの司会などを務め、1998年4月より、古巣・文化放送での冠番組『土居まさるのラヂオデイズ』がスタートしたが、番組開始から半年後の9月下旬に体調を崩し、病院でがんの告知と「余命 半年」の診断を受ける。しばらくは入退院を繰り返しながら仕事を続けていたが、同年12月26日の同番組の収録が最後の仕事となった[注釈 1] 。1999年1月18日、膵頭部(すいとうぶ)がんのため渋谷区神宮前の自宅で死去。58歳没(享年 60)。

人物・エピソード

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  • 『真夜中のリクエストコーナー』のパーソナリティを務めていた当初は文化放送の社内で土居の喋り方が問題となったが[7]、土居はリスナーから圧倒的な人気と支持を得ているという自信があったために、喋り方を頑なに変えようとはしなかった。やがて上司や先輩アナウンサー達は何も口出しをしなくなったという。
  • 40代に入った頃から、土居の意識の中では若者をターゲットとする番組を卒業したいと思う様になっていた。田中秋夫は土居から「若者はもういいや!」という本音を聞いたことがある[8]
  • マイクネーム(芸名)の名付け親は文化放送プロデューサー(後の同局社長)の峰岸慎一。立教大学の後輩だった、元読売ジャイアンツの選手・土井正三(後のオリックス監督)に由来する。
  • クイズ・チェック!NOW』の第1回でチャンピオンとなり、一般出場者のチャンピオンを次々と打ち破り、番組初の5週勝ち抜きを成し遂げた[9]
  • 嫌いな動物はだった。
  • 大学の同期に徳光和夫がおり、徳光を放送研究会に誘ったのは土居であり、また進路で悩んでいた徳光にアナウンサーになることを進言したのも土居であった。

出演番組

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文化放送

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フリー

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音楽

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シングル

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※ すべて7"EPレコード

発売日 規格品番 タイトル 作詞 作曲 編曲
エレックレコード
1969年4月 EA-1001 A1 カレンダー[注釈 3] のなかみやこ 三嶋清正
A2 恋人は壁のむこうに
B1 ふられた男
B2 涙はそっと 渡辺由起子 田村勝秋
1969年4月 EB-1001 A カレンダー のなかみやこ 三嶋清正
B 涙はそっと 渡辺由起子 田村勝秋
1974年7月10日 EB-1024 A ヒヨッコ 水島哲 浅沼勇
B 事故の起きた朝 門谷憲二
日本ビクター/ポップレコード
1970年7月 POP-1 A 青年 藤田敏雄 いずみたく 大柿隆
B 若者はなぜ行くのか 山上路夫
1971年5月 POP-4 A ブラック・シャドー 橋本淳 筒美京平
B 短い恋
1971年10月 POP-9 A 星が降るまで[注釈 4] 橋本淳 筒美京平
B キザな気分で
1972年11月 POP-16 A ひとり旅 いなださより 宇佐美晴美 青木望
B マイ・プリンセス

アルバム

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発売日 レーベル 規格 規格品番 アルバム 備考
エレックレコード
1974年7月10日 エレックレコード LP ELEC-5003 幻の大リサイタル

A面

  1. カレンダー
  2. デニムのジーンズ
  3. 事故の起きた朝
  4. 6月下旬のぶつぶつブルース
  5. 5月の風は
  6. ラ バディ ミバディ ソウ
  7. 口笛うさぎ

B面

  1. 気分がいいんだ
  2. もし君がOF THE LAMB?
  3. ARE YOU WASHED IN THE BLOOD
  4. ANY TIME
  5. A FOOL SUCH AS !
  6. ヒヨッコ
2006年1月25日 バップレコード CD VPCC-84523 紙ジャケット仕様

2006年デジタルリマスター盤

映画

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著書

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  • 話はかわりますが』双葉社、1977年11月10日。

関連人物

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脚注

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注釈

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  1. ^ 土居の死去後は中田秀作(文化放送アナウンサー(当時))が代役を務めた。
  2. ^ 実況アナウンサーは別に、SFから用意していた。
  3. ^ 後年、さとう宗幸によりカバーされ、シングル(「CALENDAR」)も発売された。
  4. ^ オリジナルはヴィレッジ・シンガーズ

出典

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  1. ^ a b c d 「決定!保存版 '76 ALLスタアLIST 土居まさる」『スタア』1976年2月号、平凡出版、101頁。 
  2. ^ a b c d e f DJ名鑑 1987三才ブックス、1987年2月15日、111–112頁。
  3. ^ 2011.09.23 土居まさるの「私の歴史館」
  4. ^ 「土居は在京 民放ラジオ局のラジオ番組を聴いて、リスナーから人気がある出演者の喋り方と話し方を常に研究していた。ニッポン放送で当時、夜帯に放送中のラジオ番組『青島幸男のまだ宵の口』を毎晩 聴いて、青島の口調を真似していた。土居の喋り口調はそこから始まった」と土居と同期入社の元 文化放送ディレクター(後の同局プロデューサー)田中秋夫は回想している。『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』p.48 - 49 DISC UNION 2015年 発行。ISBN 978-4-907583-63-7
  5. ^ ラジオパラダイス』(三才ブックス)1987年4月号特集「深夜放送20周年ぐらふぃてぃ」23頁より。
  6. ^ 歴代の燦々ぬまづ大使の皆さん”. ぬまづの人. 静岡県沼津市. 2010年7月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月14日閲覧。
  7. ^ 田中秋夫は「『真夜中のリクエストコーナー』放送当時の文化放送 アナウンス部はNHK的なアナウンスメントを基本とする事を社是としていたので、土居に対する批判は文化放送の社内で相当な物だった」と回想している。『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』p.48 - 50 DISC UNION 2015年 発行。ISBN 978-4-907583-63-7
  8. ^ 土居まさる~深夜ラジオのパイオニア_大人のMusic Calendar_大人のミュージックカレンダー2020年4月4日閲覧。
  9. ^ 「山梨日日新聞 1974年4月24日付テレビ欄」より。
  10. ^ 『中国放送の50年 その時、いつもそばにいた』中国放送50年史編さん委員会 編、2002年10月、p.240。

外部リンク

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