古川啓三
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基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 岡山県倉敷市 |
生年月日 | 1934年4月25日 |
没年月日 | 1984年10月6日(50歳没) |
身長 体重 |
167 cm 75 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1959年 |
初出場 | 1959年 |
最終出場 | 1961年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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この表について
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古川 啓三(ふるかわ けいぞう、1934年4月25日 - 1984年10月6日)は岡山県倉敷市出身のプロ野球選手(捕手)・コーチ。
経歴
[編集]倉敷老松高等学校ではエース細羽良弼(松下電器)を擁し、1952年春季岡山大会決勝に進出するが、南海高に敗退。同年夏の甲子園県予選では1年下の安原達佳ともバッテリーを組むが、甲子園出場はならなかった。
高校卒業後は法政大学へ進学。当時の東京六大学リーグは明大、早大の全盛期で優勝には届かなかったが、1956年秋季リーグではベストナイン(捕手)に選出される。大学同期に投手の根岸照昌(日本コロムビア)、外野手の斎田忠利がいた。
大学卒業後は日本コロムビアに入社。大学同期の根岸とバッテリーを組み、1957年の都市対抗に出場。準々決勝に進むが松下電器に敗退。この時の救援投手に鈴木隆(川崎トキコから補強)がいた[1]。翌1958年の都市対抗にも連続出場[1]。
1959年に大阪タイガースへ入団。即戦力として期待され、同年は終盤の5試合に先発マスクを被るが、山本哲也ら捕手陣の壁は厚く、僅か3年後の1961年限りで現役を引退。
その後も阪神に残留し、一軍投手コーチ(1962年, 1964年 - 1966年)・二軍バッテリーコーチ(1963年)を歴任。一軍投手コーチ時代はブルペンを担当し、青田昇ヘッドコーチからは「実際の球を受けて投手の実態を報告せよ」と指示されていた。村山実、小山正明、ジーン・バッキーの三本柱で確実に勝星を稼ぎながら谷間の日を他の投手で埋め、投手力での優勝を果たした。捕球以外にもノックなど練習相手になっていたが、体力の限界を迎えて辞任。1984年10月6日死去。50歳没。
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1959 | 阪神 | 14 | 15 | 14 | 0 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | .286 | .333 | .357 | .690 |
1960 | 4 | 5 | 5 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
1961 | 10 | 17 | 14 | 3 | 4 | 2 | 0 | 0 | 6 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 0 | .286 | .375 | .429 | .804 | |
通算:3年 | 28 | 37 | 33 | 3 | 8 | 3 | 0 | 0 | 11 | 1 | 1 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 0 | 5 | 0 | .242 | .306 | .333 | .639 |
背番号
[編集]- 22 (1959年 - 1961年)
- 64 (1962年 - 1966年)