利用者‐会話:Stingfield
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書き込みありがとうございます
[編集]日本海軍の人物関係について執筆などありがとうございます。私の手元のものでは略歴しか書けないので、新規の執筆は控えています。今後の活動を期待しています。--曾禰越後守 2010年10月4日 (月) 13:49 (UTC)
「カテゴリ:水交社の人物」について
[編集]社員は海軍将校(相当官を含む)全体ですので、全員をカテゴライズするのではなくて、水交社の役職者・水交社について活動があった人物・水交社の機関誌に寄稿(原稿、訳稿)した人物に限定しようかと考えています。個別の人物項目に水交社との関わりの記述を加えながらカテゴリに入れて行くことにしようと考えています。ご意見がありましたらCategory‐ノート:水交社の人物へお願いします。--rshiba 2010年12月25日 (土) 04:45 (UTC)
逸見宗助のカテゴリーについて
[編集]逸見宗助の記事のカテゴリーを佐賀藩の人物に二度変更しておられますが、記述の内容では佐倉藩しか出ていません。佐賀藩と関係のある人物が正しいのであれば、その内容を加筆していただいてからカテゴリーを変更していだくようお願いします。--曾禰越後守 2011年1月31日 (月) 02:20 (UTC)
- 大変失礼しました。勘違いとウォッチリストから外してしまったためのミスです。訂正有難うございました。--Stingfield 2011年1月31日 (月) 14:12 (UTC)
海軍兵学校卒業生一覧 (日本)
[編集]海軍兵学校卒業生一覧 (日本)での削除については、その理由や、どのようにされたいのか、ノートなどでの議論を経てからされるのが筋ではないかと考えますが、いかがでしょうか。そのため、一旦差し戻させていただきましたので、ご了承ください。--曾禰越後守 2011年5月22日 (日) 13:20 (UTC)
- いつもお世話になっておりす。そうですね。ノートで同意を取り付けた方がよかったかもしれません。要約欄に書いたとおり、一覧の可読性が低いかなというのが大きいのです。記事立項済みの兵学校出身者という一覧に記載されるべき事由は明確なので、それ以外の情報は不要かなと。まぁこの件に関しては議論するほどでもないかと思われますので情報が多い方がよいということであればそれで結構です。差し戻しの状態でも構いません。--Stingfield 2011年5月22日 (日) 13:56 (UTC)
- ご回答ありがとうございます。この項目を「海軍兵学校 (日本)」から分割した際に、既に記載されていた例にならって、以後の追加を行ってきましたので、削除をするのであればノートでの了解は必要と考えます。ただし個人的には無くても良いと考えますが、議論の結果を記事の冒頭に記すことなどをしないと、元に戻ってしまうことが予想されます。また残す場合、特進について現在の表記は長いように感じています。略して「1進」あるいは「1特」などとするのが良いのか?--曾禰越後守 2011年5月22日 (日) 14:39 (UTC)
- では記述を残すこととして、表記の変更で対応してはいかがでしょうか?問題になるのは戦死、特進、法務死、殉職ですから、例えば戦死者は坂元八郎太、戦死・1階級特進は五藤存知、戦死・2階級特進は佐藤康夫、法務死は森国造、殉職・1階級特進は古賀峯一。戦死には自決、戦病死を含むとして冒頭に例示しておけば如何でしょう?それ以外は少数でしょうから、例えば草刈英治(自決)でどうでしょう。できれば同期、同階級の並べ方も五十音なりハンモックナンバーなりで統一するのもよいかと。なお続きは該当のノートでということで。他の方のご意見も伺ってみましょう。まずは現状で良いのかから始めますか。--Stingfield 2011年5月23日 (月) 14:57 (UTC)
栗田健男での編集について
[編集]こんにちは。栗田健男の記事にて追記をされたようですが、お願いがあります。まず、妻の家系について明記されるのであれば、そのソースを脚注等で提示するようにしてください(要約欄のみの提示はなるべくなら控えてください)。次に、早世したという記述は児島氏の著書にある記述を元にしたものです。貴方の編集では内容が削除されているので、今後復旧しますが、このような行為はお止めください。岩見浩造 ◆Pazz3kzZyM 2011年6月23日 (木) 16:57 (UTC)
- 出典は明示すべきでした。秦郁彦編日本陸海軍総合事典第1部「主要陸海軍人の履歴」の栗田健男(38)の項に「妻は海軍少将佐藤脩(35)の妹」とあるのが出典となります。"妻が早世した"とありましたが、それが佐藤の妹なのかが不明で、早世したという記述に出典が付与されていないために記述を変更しました。児島氏とは児島襄氏のことでしょうか。記述の復旧はお任せいたします。その復旧に私の記述が余計になるのであれば削除していただいて構いません。なお脚注形式で出典が示されていない記述も変更してはいけないということでしょうか?--Stingfield 2011年6月24日 (金) 00:27 (UTC)
- 誤解があるといけませんので追記します。栗田の妻に佐藤の妹がいたこと出典があり、また妻が早世したことも出典さえあれば確認できます。ただしそれで早世した妻が佐藤の妹であるとは断定できません。そのためには栗田の結婚が一度だけであるという出典が別に必要になります。私が自分の記述に出典を追加しないのは、早世の記述を復活させるためには余計な記述になることを考慮したためです。佐藤脩の記事中には出典を付与します。なお栗田健男の記事ですが、基本的な事実である経歴に誤りがあります。といいますか記事内ですら矛盾しています。経歴には「兵学校卒業後は駆逐艦や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ていない数少ない将官の一人である(ただし、乙種学生として1年海大で教育を受けている)。」とありますが、海大甲種を出ていない将官はたくさんおります。38期の中将クラスですら戦死者を除いても松浦永次郎、小林徹理、武田盛治、藤田類太郎、久保九次とおります。少将クラスはお調べ下さい。少ないのは司令長官になった将官中に甲種学生を経ていないものではないのでしょうか?(児島襄『指揮官』「栗田健男」)。それから海大乙種で1年教育を受けているってなんでしょうか?海大乙種の課程は半年でその後術科学校の高等科学生に進むのでは?(日本陸海軍総合事典)。記事中の年表すら1916年水雷学校普通科、砲術学校普通科を経て12月より海軍大学校乙種学生。1917年12月水雷学校高等科卒とありますが。私は栗田は不当な批判を受けている部分があり、本来批判されるべき人物なり組織は別にあるという意見を持っていますが、栗田に批判的な人物として中島親孝をあげておきます。著書『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』光人社NF文庫はきついことが書かれていますが、中島の著作中での批判はそれでも遠慮して書いていたそうです(『聞書き 日本海軍史』PHP出版)。参考になるかと思います。--Stingfield 2011年6月24日 (金) 10:35 (UTC)
- 特に意思表示がございませんので、経歴について修正しました。[1]。栗田健男の記事についての私の記述にご意見があれば[2]でお願いします。変更についての説明と、評価蘭における栗田の経歴について確認が必要と思われる箇所を挙げておきました。--Stingfield 2011年7月12日 (火) 10:43 (UTC)
- 誤解があるといけませんので追記します。栗田の妻に佐藤の妹がいたこと出典があり、また妻が早世したことも出典さえあれば確認できます。ただしそれで早世した妻が佐藤の妹であるとは断定できません。そのためには栗田の結婚が一度だけであるという出典が別に必要になります。私が自分の記述に出典を追加しないのは、早世の記述を復活させるためには余計な記述になることを考慮したためです。佐藤脩の記事中には出典を付与します。なお栗田健男の記事ですが、基本的な事実である経歴に誤りがあります。といいますか記事内ですら矛盾しています。経歴には「兵学校卒業後は駆逐艦や軽巡洋艦艦長、海軍水雷学校教頭、水雷戦隊司令官を歴任。いわゆるエリートコースとされる海軍大学校甲種学生を経ていない数少ない将官の一人である(ただし、乙種学生として1年海大で教育を受けている)。」とありますが、海大甲種を出ていない将官はたくさんおります。38期の中将クラスですら戦死者を除いても松浦永次郎、小林徹理、武田盛治、藤田類太郎、久保九次とおります。少将クラスはお調べ下さい。少ないのは司令長官になった将官中に甲種学生を経ていないものではないのでしょうか?(児島襄『指揮官』「栗田健男」)。それから海大乙種で1年教育を受けているってなんでしょうか?海大乙種の課程は半年でその後術科学校の高等科学生に進むのでは?(日本陸海軍総合事典)。記事中の年表すら1916年水雷学校普通科、砲術学校普通科を経て12月より海軍大学校乙種学生。1917年12月水雷学校高等科卒とありますが。私は栗田は不当な批判を受けている部分があり、本来批判されるべき人物なり組織は別にあるという意見を持っていますが、栗田に批判的な人物として中島親孝をあげておきます。著書『聯合艦隊作戦室から見た太平洋戦争』光人社NF文庫はきついことが書かれていますが、中島の著作中での批判はそれでも遠慮して書いていたそうです(『聞書き 日本海軍史』PHP出版)。参考になるかと思います。--Stingfield 2011年6月24日 (金) 10:35 (UTC)
三春藩記述の件、失礼しました
[編集]ノート:戊辰戦争でお世話になりました。三春藩の件で参考文献を明記しておきました。こちらから基礎文献云々と戊辰戦争ノートで書いていましたが、三春藩での手抜かり失礼しまいた。 他にも参考文献を挙げておきましたので、宜しくお願いします。--珍巣項 2011年7月10日 (日) 06:47 (UTC)
- 珍巣項様、いつぞやはお世話になりました。ご丁寧に対応いただきましてありがとうございます。タグをはずしておきましたのでご確認いただければ幸いであります。--Stingfield 2011年7月10日 (日) 07:01 (UTC)
閔妃での編集について
[編集]こちら[3]の編集なのですが、閔妃暗殺では首謀者、実行犯ともに明らかとなっておりません。これは明らかな事実であり、明らかな事実に出典は要りません。--Truesight 2011年10月15日 (土) 01:46 (UTC)
- 私自身は特に閔妃について知っているわけではありませんが、[4]によれば、編集者は歴史学の定説に反すると考え出典を求めているようです。ということは誰が見ても事実というわけではないのでは?御説の通り明らかな事実であるとすれば、当然そのように論述した歴史学者の論説があるはずで、それを示せばいいだけのことではないでしょうか?--Stingfield 2011年10月15日 (土) 02:24 (UTC)
- いや、それ以前に記事本文に書いてあるように首謀者には大院君説や三浦説がある訳です。誰が閔妃を殺したかについても日本人であるという主張がある一方で、実際に殺害現場を目撃した閔妃の息子である純宗 (朝鮮王)が殺害したのは朝鮮人の禹範善であるとし刺客を放ったりしている訳です。これらは全ては出典に裏打ちされた記述なのです。以上から真相は明らかじゃないのは明らかでしょう。お聞きしたいのですが、あなたは本文も読まず、上記のような状況も知らずにリバートしたのですか?--Truesight 2011年10月15日 (土) 02:48 (UTC)
- そのように問われて知りませんでしたと答える者もいないと思いますが、お答えしますと本文は読みましたし、閔妃の死についていろんな説があることぐらいは読まなくても知っています。従って、該当部分に自ら出典を求めることはしなかったでしょう。しかし出典を求めている方は歴史学の定説に反すると仰って出典を求めているのですから、これは重大な指摘であり、記述された内容が明らかな事実とするのは無理と考えます。ですから要出典のタグはついたままだったのでしょう。面倒くさかったのかも知れませんが。これは推測になりますが、出典を求めた方は説は複数あるにしても軽重があり、定説が重視されるべきとお考えなのではないでしょうか?私は歴史学を専門とする者ではなく、この指摘が正当なものかは存じませんので、判断は示された出典によって下すしかありません。まぁ私が言いたいのは、出典を求められたのであれば出典を示すことで回答とすべきだということです。そうしませんとまた要出典が張られる可能性がありますよね。--Stingfield 2011年10月15日 (土) 04:38 (UTC)
- 率直に言わせて貰いますので口調の点で厳しいところがありましたらご容赦ください。上のお答えを読んでなるほどと思わないでもないのですが、仮に万が一定説であるとしたら本文中にあれほど異説が混交することもないんじゃないですか。要は本文中にあるような混交した異説が現在のところ知られているところであって定説なんかないんです。まぁ本来はこちら[5]を貼った方にいうべきことなのでこれ以上申しませんが、今後のご参考までに。--Truesight 2011年10月15日 (土) 04:55 (UTC)
米内光政の編集の件、平伏陳謝
[編集]はじめまして。当方のノートの方へご質問いただきました米内の件につきまして、こちらの方で回答させていただきます。どうかご了承くださいませ。
さてご指摘の点、まさにおっしゃるとおりでございます。今回の件はひとえに私の読み違いが招いたうっかり編集に他ならず、まことに面目次第もございません。当該部分が「現役から首相となったすべての軍人(=首相になった現役軍人)は、現役のままその地位に就いている(=現役軍人で首相になった)」とあり、主語節と述語節で内容を反芻するかたちとなっていることから、意味に混乱を来してその内容を誤解してしまったものです。このような失態を演じてしまいまして、まことにお恥ずかしい限りです。単純ミスから生じたものとはいえ、前後の文脈に気をつけていれば起き得なかったことと存じ、深く反省しております。Stingfield様には大変ご迷惑をおかけいたしましたこと、謹んでお詫びを申しあげます。
なお同記事は、いったん前版にリバートいたしました後に、意味が通じやすいように若干の修正を加えました。ぜひご検討くださいませ。
今後ともよろしくお願い申し上げます。--白拍子花子 2011年10月28日 (金) 00:01 (UTC)
- ご丁寧に恐れ入ります。我ながら悪文でした。お詫びいたします。白拍子花子様にはコモンズでお世話になっていたことに気づきました。アップしていただいた画像を使用させていただきましたので、お礼も申し上げます。編集を確認させていただき、気になる点を2つ。まず『・・・いずれも予備役か退役の陸海軍大将だった。そこで米内も総理就任と同時に予備役編入・・・』の所なんですが、二文を『そこで』でつないでいる場合、順接関係となり前文は後文の理由としてとらえることができます。この場合首相就任に際して米内の予備役編入が条件であったとも解釈できるのですが、そういう意味合いと考えて宜しいでしょうか?
- 陸軍側は米内の首相就任には予備役になることが必要と考えていましたが、宮中、海軍もそのつもりであったのかは私には不明です。野村實の『山本五十六再考』にそうした記述はなく、むしろ現役でかまわなかったようにも読めます。この米内の離現役問題については野村の学位論文があり、入手してさらに確認しようと思いましたが、国会図書館の複写サービスが当該論文につき現在利用できない状態です。昭和初期の統帥権干犯問題以後、現役軍人への大命降下は米内と東條のみ。東條の場合は開戦含みの状況で単純な比較はできませんが、現役のまま首相兼陸相です。東條は首相就任に際し現役であることを条件としていたとどこかで読んだ記憶はあるのですが、すぐには確認できません。従って私としては
- 『・・・まだ現役の海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一・斎藤実・岡田啓介・林銑十郎・阿部信行は、いずれも離現役した陸海軍大将であった。大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは類例の無い人事だったのである。吉田善吾海相らは・・・』としたいかなと。離現役としたのは予備、後備、退役のどの段階で首相就任であったのかを確認していないので纏めちゃいました。
- もう1点は細かいんですが『組閣の大命を受けて宮中に参内した時、当初米内は組閣を辞退するつもりだった』は、『組閣の大命を受けに』かなと。どんなものでしょうか?--Stingfield 2011年10月28日 (金) 10:56 (UTC)
米内光政の編集の件、平伏陳謝
[編集]はじめまして。当方のノートの方へご質問いただきました米内の件につきまして、こちらの方で回答させていただきます。どうかご了承くださいませ。
さてご指摘の点、まさにおっしゃるとおりでございます。今回の件はひとえに私の読み違いが招いたうっかり編集に他ならず、まことに面目次第もございません。当該部分が「現役から首相となったすべての軍人(=首相になった現役軍人)は、現役のままその地位に就いている(=現役軍人で首相になった)」とあり、主語節と述語節で内容を反芻するかたちとなっていることから、意味に混乱を来してその内容を誤解してしまったものです。このような失態を演じてしまいまして、まことにお恥ずかしい限りです。単純ミスから生じたものとはいえ、前後の文脈に気をつけていれば起き得なかったことと存じ、深く反省しております。Stingfield様には大変ご迷惑をおかけいたしましたこと、謹んでお詫びを申しあげます。
なお同記事は、いったん前版にリバートいたしました後に、意味が通じやすいように若干の修正を加えました。ぜひご検討くださいませ。
今後ともよろしくお願い申し上げます。--白拍子花子 2011年10月28日 (金) 00:01 (UTC)
- ご丁寧に恐れ入ります。我ながら悪文でした。お詫びいたします。白拍子花子様にはコモンズでお世話になっていたことに気づきました。アップしていただいた画像を使用させていただきましたので、お礼も申し上げます。編集を確認させていただき、気になる点を2つ。まず『・・・いずれも予備役か退役の陸海軍大将だった。そこで米内も総理就任と同時に予備役編入・・・』の所なんですが、二文を『そこで』でつないでいる場合、順接関係となり前文は後文の理由としてとらえることができます。この場合首相就任に際して米内の予備役編入が条件であったとも解釈できるのですが、そういう意味合いと考えて宜しいでしょうか?
- 陸軍側は米内の首相就任には予備役になることが必要と考えていましたが、宮中、海軍もそのつもりであったのかは私には不明です。野村實の『山本五十六再考』にそうした記述はなく、むしろ現役でかまわなかったようにも読めます。この米内の離現役問題については野村の学位論文があり、入手してさらに確認しようと思いましたが、国会図書館の複写サービスが当該論文につき現在利用できない状態です。昭和初期の統帥権干犯問題以後、現役軍人への大命降下は米内と東條のみ。東條の場合は開戦含みの状況で単純な比較はできませんが、現役のまま首相兼陸相です。東條は首相就任に際し現役であることを条件としていたとどこかで読んだ記憶はあるのですが、すぐには確認できません。従って私としては
- 『・・・まだ現役の海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。1922年(大正11年)に海軍大臣を兼任したまま首相に就任した加藤友三郎を最後に現役の陸海軍将官に組閣の大命が下る例は絶え、その後に首相となった田中義一・斎藤実・岡田啓介・林銑十郎・阿部信行は、いずれも離現役した陸海軍大将であった。大命降下のあった現役将官があえて予備役になってから首相となることは類例の無い人事だったのである。吉田善吾海相らは・・・』としたいかなと。離現役としたのは予備、後備、退役のどの段階で首相就任であったのかを確認していないので纏めちゃいました。
- もう1点は細かいんですが『組閣の大命を受けて宮中に参内した時、当初米内は組閣を辞退するつもりだった』は、『組閣の大命を受けに』かなと。どんなものでしょうか?--Stingfield 2011年10月28日 (金) 10:56 (UTC)
- 私は『山本五十六再考』は読んだことないのですが、阿川の『米内光政』、緒方の『一軍人の生涯』、実松譲の書いた一連の米内伝などを読む限り、米内の予備役編入は何かしらの条件だったというよりも、むしろ米内本人の発意だったと考えられるものと思っています。6か月前に米内の後を引き継いで海相になったばかりの吉田善吾は、米内に現役に留まるよう必死に説得していますでしょう?これはとりもなおさず、もし米内が大命降下の際に引き続き海相の任にあったならば、彼は当然現役のまま総理に就任していたと誰もが考えていたことを示唆しています。つまり米内に現役を退かねばならない必然的な理由は特になかった。それでも予備役編入ということになったのは、やはり米内本人が吉田海相に言っているように、総理が現役海軍将官では陸軍との間に統帥権を廻って軋轢が生じることが必定な情勢だったことを、米内本人が誰よりも良く理解していたからだと考えるのが妥当です。しかしそれを表向きの理由にすることはできない。そこで彼以前に大命が下った5名の陸海将官がいずれも予備役または退役だったことを先例にしたのでしょう。いずれにせよ、問題の「そこで」は仰せとおり誤解を生じかねませんので抜いていただいて結構です。
- なお予備役と退役についてですが、士官の場合は予備役を終了した後は退役となったと記憶しております。うろ覚えですが、昭和になってから改正された兵制では士官の予備役は確か5年ですから、田中・斎藤・岡田は退役、林・阿部は予備役だったことになります。いずれにしても彼らが後備役だったということはありませんので、この点には関しては問題はなかろうと存じます。
- 「大命を受けに」は、仰せの通りで結構です。以上三点、よろしくお願い申し上げます。ご丁寧にご確認いただきまことにありがとうございました。--白拍子花子 2011年10月29日 (土) 12:34 (UTC)
ラバウル航空隊の記事改善への提案についてのご相談
[編集]初めまして。codfishといいます。 実はラバウル航空隊の記事改善について、ウィキプロジェクト 太平洋戦争のプロジェクトノートとノート:ラバウル航空隊の方へ提案させていただいたのですが、プロジェクト参加者の方々は最近は活動されていない方も多く、また当該記事も様々な方の編集を経ているため、中心的に執筆された方を特定する事も難しく、どのように作業を進めてよいものか途方に暮れております。とりあえず、ノート:ラバウル航空隊の提案をご覧いただけませんでしょうか。私の会話ページの方へご意見をいただいても構いません。Stingfield様が航空戦史は専門分野外であることは重々承知しておりますが、比較的最近ラバウル航空隊の記事を編集された方で、記事の改善に賛同いただけそうな方という事でここに書かせていただきました。もしよろしければご意見いただけますでしょうか。--codfish 2012年2月2日 (木) 05:12 (UTC)
- 会話ページの方へお返事いただきありがとうございます。編集方針に関する意見はStingfield様のお考えと全く同じであり、まずきちんとした組織の概要説明をすべきだと考えておりました。さっそく教えていただいたSnlf1様の記事を参考にすることにします。--codfish 2012年2月3日 (金) 01:07 (UTC)
お願いがあります
[編集]お願いがあります。堀内豊秋の記事に興味があり英訳しましたが、写真を英語でも使用可能な状態にできませんでしょうか。よろしくお願いします。--Ichiro Kikuchi(会話) 2012年8月3日 (金) 15:16 (UTC)
- 立項ありがとうございました。英語版にも記事があるべき方ですのでうれしく思います。「英語でも使用可能な状態」の意味がいまひとつわかりかねましたが、堀内氏の肖像写真は英語版でも使用可能ですので挿入しておきました。もし別の意味合いであれば、その旨を仰っていただけますと助かります。--Stingfield(会話) 2012年8月4日 (土) 02:33 (UTC)
実松譲の記事について
[編集]初版に外部サイトからのコピペがあったため、削除依頼に提出させていただきました(Wikipedia:削除依頼/実松譲)。Stingfieldさんが出典付きで加筆された部分も巻き込まれてしまう可能性もあるのでお伝えさせていただきます。--倫敦橋 (Londonbashi)(会話) 2013年3月17日 (日) 15:07 (UTC)
- 残念ながら削除は致し方ないようですので、一から書き直しを考えます。お知らせありがとうございました。--Stingfield(会話) 2013年3月18日 (月) 13:33 (UTC)
情報の訂正について
[編集]モンスーン戦隊の記事を英語から翻訳したSchaluppeです。このたびは、確認不足による私の事実誤認を訂正して頂き誠にありがとうございました。今後もよろしくお願いします。--Schaluppe(会話) 2013年4月26日 (金) 12:30 (UTC)
- ご丁寧に痛み入ります。暫らくログインしておりませんでしたので、お返事が遅れまして申し訳ございませんでした。こちらこそ宜しくお願いいたします。良い記事を作ってくださいましてありがとうございました。--Stingfield(会話) 2013年4月30日 (火) 12:33 (UTC)
山川二葉の記載内容について
[編集]多くの記事作成をありがとうございます。さて会津関係にお詳しいかと思いますで山川二葉の項目についてお尋ねいたします。当該項目では山川黙が二葉の養子とされていますが、操の養子との記述も他で見受けられ、当該項目で引用されている「武蔵学園の沿革」でもそのように記されています。どちらが正しものでしょうか? 山川二葉の項目の記述が誤りであれば、修正いただけましたら幸いです。よろしくお願いいたします。--曾禰越後守(会話) 2014年8月24日 (日) 08:09 (UTC)
- ご無沙汰しております。確認したところ山川操の養子でありました。必要な箇所を訂正、追記しておきますのでご確認ください。ご指摘ありがとうございました。--Stingfield(会話) 2014年8月24日 (日) 10:59 (UTC)
- 早速ご対応をいただきありがとうございました。--曾禰越後守(会話) 2014年8月24日 (日) 12:25 (UTC)
鈴木義尾の画像について
[編集]あの画像を使用して下さったのはいいのですが、少し問題がありましたのでコンタクトが欲しかったです。
また、今後、海兵32期、海兵33期、海兵37期、海兵55期の肖像写真はほぼ手元にあるのでアップする予定ですが、
事後報告でいいのでもし使用される場合はコンタクトください。--Yamatonadesiko1942(会話) 2015年1月21日 (水) 02:25 (UTC)
- 多くの画像をアップいただきありがとうございます。32、33、37、55期の方々には未だ画像がない記事がありますので、楽しみにしております。お申し越しの件は了解いたしました。--Stingfield(会話) 2015年1月21日 (水) 14:25 (UTC)
- 我侭を聞いていただき、ありがとうございます。まだページを作成出来る技量はまだないので、もしよろしければ大杉守一(海兵41期)、近藤新一(海兵49期)、桑原春雄(海兵52期)、上野権太(海機26期)、柿田実徳(海機45期)の写真はアップしているのでよろしくお願いします。--Yamatonadesiko1942(会話) 2015年1月23日 (金) 02:03 (UTC)