伊東知也
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伊東 知也(いとう ともや、1873年(明治6年)4月10日[1] - 1921年(大正10年)11月26日[2][3])は、明治時代の政治家。衆議院議員(3期)。号は明、士徳、懐亭、鳳南、別名に正基[3]。
経歴
[編集]酒田本町(現酒田市)の医師伊東清基の長男として生まれる[3]。上京し、東京専門学校で政治学を修め、1896年(明治29年)卒業し台湾総督府旧慣調査会嘱託となる[3]。はじめ佐田白茅、須田古龍について漢学を学んだが、のち札幌の露清学校に転じ中国語、ロシア語を習得し、1898年(明治31年)から東部シベリア、満州、福建、広東などを巡遊し対外問題の処理に尽瘁した[3]。中国、朝鮮には十数回に渡り赴き、1911年(明治44年)の辛亥革命の折には孫文らと交わり「支那浪人」と称された[3]。ほか、雑誌「日本及日本人」の記者を務めた[2][3]。
犬養毅、杉浦重剛、頭山満らの知遇を受け[3]、1912年(明治45年)5月の第11回衆議院議員総選挙では山形県郡部から出馬し当選[2]。つづく第12回、第13回総選挙でも当選し衆議院議員を通算3期務めた[2]。在任中は対支連合会、国民外交会各評議員、幹事などを務めた[3]。墓所は酒田海晏寺[3]。
著作
[編集]- 『片鱗』竜川社、1919年。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院、参議院 編『議会制度七十年史 第11』大蔵省印刷局、1962年 。
- 庄内人名辞典刊行会 編『新編庄内人名辞典』庄内人名辞典刊行会、1986年。