コンテンツにスキップ

メルヒオール・ファン・サントフォールト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
Melchior van Santvoort

メルヒオール・ファン・サントフォールト
生誕 1570年
オランダ
死没 1641年
バタヴィア
民族 オランダ人
活動拠点 長崎
宗教 キリスト教プロテスタント
配偶者 イサベラ
子供 イサベラ、スザンナ
親戚 ピーテル・ファン・サンテンウィレム・フルステーヘン
テンプレートを表示

メルヒオール・ファン・サントフォールト(Melchior van Santvoort、1570年頃 - 1641年)は、江戸時代初期のオランダ人貿易商。1600年リーフデ号日本に到着し、パタニ王国とを行き来した後、を拠点に貿易を営んだ。1615年大坂の陣を避けて長崎に移り、1639年鎖国令バタヴィアに追放された。

生涯

[編集]

1570年頃生まれ[1]。1598年6月リーフデ号書記として[1]ロッテルダムを出港し、1600年(慶長5年)4月19日豊後国佐志生に到着した[2]ウィリアム・アダムスに付き添って大坂に護送され、日本に定住した[1]

1605年(慶長10年)12月2日元船長ヤコブ・クワッケルナックオランダ商館のあるパタニに渡ったが、商館は休業状態だったため職は得られず、1606年(慶長11年)には日本へ戻った[3]。間もなくパタニに戻り、1608年(慶長13年)2月シャム駐在商務員ランベルト・ヘインとシャムに渡り、日本に戻った[4]

慶長14年(1609年)7月25日徳川家康朱印状

1609年(慶長14年)7月1日ピーテル・フェルフーフオランダ語版の指揮するオランダ東インド会社船ロート・レーウ・メット・ペイレン号とグリフィユーン号が平戸に来航すると、通訳を引き受け、アブラハム・ファン・デン・ブルークとニコラス・ポイクの駿府参府に同行し、徳川家康に謁見して通商協定を締結した[5]。帰路室津で別れ、で商売を営んだ[6]。1611年(慶長16年)大坂ヤックス・スペックスとセヘルスゾーンの駿府参府を助けた[7]

1613年4月末ヤン・ヨーステンと某国へ通商した時、許可なく城壁内に入ったため、日本人船員8名が殺された[8]。1614年(慶長19年)7月25日シャムから帰国すると[6]、間もなく大坂の陣が勃発、1615年(慶長20年)夏の陣の噂が立つと、長崎に転居し[9]、商館に属さない自由市民として活動した[10]

その後、キリスト教弾圧が強まる中で第一線を退き、蘭日関係の最盛期を知る長老として慕われた[11]。1637年トンキンへ出航したヤハト船がサントフォールト号と名付けられ、1638年トンキン付近の砂州で座礁すると、座礁地はサンフォールトの砂州と名付けられた[12]

1639年の鎖国令で西洋人妻女が国外追放となると、1639年(寛永16年)10月31日一家でブレダ号で出航し、台湾に1ヶ月滞在し、1640年1月1日バタヴィアに到着したが、翌1641年死亡した[11]

家族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 森 2013, p. 83.
  2. ^ 森 2013, p. 81.
  3. ^ 森 2013, pp. 84–85.
  4. ^ 森 2013, p. 85.
  5. ^ 森 2013, pp. 85–86.
  6. ^ a b c 森 2013, p. 88.
  7. ^ 森 2013, p. 86.
  8. ^ 森 2013, p. 87.
  9. ^ 森 2013, p. 89.
  10. ^ 森 2013, p. 90.
  11. ^ a b 森 2013, p. 92.
  12. ^ 森 2013, p. 96.
  13. ^ 森 2013, p. 84.
  14. ^ a b 森 2013.

参考文献

[編集]
  • 森良和「メルヒオール・ファン・サントフォールト : 日本で生きることを選んだリーフデ号船員の生涯」『論叢:玉川大学教育学部紀要』第2013巻、玉川大学、2014年3月、81-98頁、CRID 1050848249767663872hdl:11078/133ISSN 1348-3331NAID 120006868286