コンテンツにスキップ

ミーラー・バーイー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ミーラー・バーイー
誕生 1498年????
ラージャスターン州
死没 ????????
グジャラート州ドワールカー
職業 詩人
言語 ラージャスターン語
テンプレートを表示

ミーラー・バーイー(मीराबाई、1498年頃 - 1546年頃)は、インド詩人聖人ミラバイとも。彼女のパダーヴァリー(讃歌集)は現在でもインド各地で広く愛唱されている[1]

生涯

[編集]

1498年頃にインド北部ラージャスターン州パーリ地区クダキで誕生する[2]ラージプートの小さな王国のメールター王家出身の王女。彼女の生まれたラージプート族は尚武の気風が強く武人としての誇りが高い種族で、氏族的な結合が強く氏族を単位とした大小の王国が建てられいた[3]。母ヴィール・クマリは彼女が生まれてほどなく亡くなり、クリシュナ信仰に篤い祖父に育てられた[4]。少女時代に馬術、音楽、弓道、宗教、行政を修め、ラージプートの当時の強国でチットールガルに都を置くメーワール王国の皇太子ボージラージに嫁いだ。間もなく皇太子は戦死[5]1527年義父であるメーワール国王のラーナー・サーンガーはラージプートの諸王を率いてカーヌワームガル帝国バーブルと戦い大敗する[6]。この戦いでミーラーの父は戦死し、ラーナー・サーンガーは重傷を負い翌年死亡する。失意のミーラーは実家で幼いころから馴染んでいたクリシュナ信仰へと深く至り、クリシュナ神を熱愛し崇める詩歌を次々に作った。それは亡き夫をクリシュナに重ね合わせたからという。皇太子との間に子が無かった上に後ろ盾となる父や義父を失ったミーラーは婚家の中で孤立し様々な迫害を受けるようになる[7]。チットールガルを抜け出し行者になったミーラーは実家のメラタ国に戻りその後クリシュナ神の聖地ヴリンダヴァンに移り住み、最終的にクリシュナの所縁ある地ドワールカーにたどり着き、1546年頃に同地で没す[8]。彼女の最後については、信仰するクリシュナの神像に吸収されたなど、いくつかの伝説が伝えられている[9]

バクティ(献身的信仰もしくは親愛)

[編集]

ヒンドゥー教は司祭階級のバラモンが取り仕切る多種の祭祀や、難解・深淵な教義をもつ各学派が存在するが、これらは一般庶民の手の届かないところである。しかし一般人も神に現世や来世の加護を求める気持ちに変わりはなく、10世紀頃から南インドを中心として「バクティ」が広がった[10]。バクティは「神への私心のない絶対的帰依を表す一つの生き方だと考えられ」て、敬虔な信仰心が救済をもたらすとされ、生まれやカーストに関係ないとされた。[11]。ヒンドゥー教では下層とされる女性であるミーラー・バーイーの作品はクリシュナ信仰文学の重要な一角を担い、今日においても詩や賛歌は民衆の間で愛吟され続けている。また、ヒンドゥー教のバクティ運動のシンボルで聖人[12]

日本語訳

[編集]
  • 『ミラバイ訳詩集―クリシュナ讃美歌集』 美莉亜訳(星雲社 2005年)

脚注

[編集]
  1. ^ ヒンドゥー教-インドの聖と俗 森本達夫 中公新書1707 2003年 p310
  2. ^ Mirabai (Mira Bai), Bhakti Saint and Poet Bhakti Saint, Poet, Mystic, Rani, Writer of Devotional Songs
  3. ^ 南アジアを知る事典 平凡社 2002年 p762
  4. ^ 森本達夫 p309
  5. ^ Bhoj Raj
  6. ^ <世界の歴史14 ムガル帝国から英領インドへ> 中央公論社 1998年 p104-106
  7. ^ ミラバイ訳詩集 美莉亜 2005年 p31-35
  8. ^ About Mirabai/Life History
  9. ^ 美莉亜 P41-43
  10. ^ 世界歴史大系 南アジア史2-中世・近世- 山川出版社 2007年 p139-141
  11. ^ ヒンドゥー教 改訂新版 <シリーズ世界の宗教> マドゥ・バザーズ・ワング 青土社 2004年 p113-114
  12. ^ Mirabai

外部リンク

[編集]