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スロバキア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
スロバキア共和国
Slovenská republika
スロバキアの国旗 スロバキアの国章
国旗 国章
国の標語:なし
国歌Nad Tatrou sa blýska(スロバキア語)
稲妻がタトラの上を走り去り
スロバキアの位置
公用語 スロバキア語
首都 ブラチスラヴァ
最大の都市 ブラチスラヴァ
政府
大統領 ペテル・ペレグリニ
首相 ロベルト・フィツォ
面積
総計 49,036km2126位
水面積率 0.1%
人口
総計(2020年 5,460,000[1]人(115位
人口密度 113.5[1]人/km2
GDP(自国通貨表示)
合計(2018年 902億[2]ユーロ (€)
GDP(MER
合計(2018年1,066億[2]ドル(62位
1人あたり xxxドル
GDP(PPP
合計(2018年1,913億[2]ドル(69位
1人あたり 35,136[2]ドル
独立1993年1月1日
通貨 ユーロ (€)(EUR[3]
時間帯 UTC+1 (DST:+2)
ISO 3166-1 SK / SVK
ccTLD .sk
国際電話番号 421[4]
  1. ^ a b UNdata”. 国連. 2021年10月11日閲覧。
  2. ^ a b c d IMF Data and Statistics 2020年5月23日閲覧([1]
  3. ^ スロバキアのユーロ硬貨も参照。
  4. ^ 1997年まではチェコと共に42。

スロバキア共和国(スロバキアきょうわこく、スロバキア語: Slovenská republika、通称スロバキア)は、中央ヨーロッパ共和制国家。首都はブラチスラヴァ。北西にチェコ、北にポーランド、東にウクライナ、南にハンガリー、南西にオーストリアと隣接する。

概要

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国体が常に激しく変化して来た歴史を持つ国家の一つである。古代にはサモ王国[注釈 1](623年 - 658年)・モラヴィア王国として独立を保った期間もあったが、この地のスラブ人は1000年間少数民族としてハンガリー王国の支配下に置かれていた。ハンガリーにとっても歴史的に重要な地域であり、多くのハンガリー人の出身地、ハンガリー貴族の発祥地でもある(元来スラブ系で、ハンガリー文化に同化した者も多い)。

第一次世界大戦後、オーストリア・ハンガリー帝国からチェコと合併するかたちで独立し、1989年のビロード革命による共産党政権崩壊を経て、1993年1月1日にチェコスロバキアから分離独立し現在に至る。

国名

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正式名称(スロバキア語)はSlovenská republika[注釈 2]、通称 Slovensko[注釈 3]

日本語の表記はスロバキア共和国、通称スロバキア。英語表記は Slovakia、国民・形容詞ともSlovak漢字表記斯拉仏克

スロバキア語で「スロヴェンスコ」という国名は「スラヴ人の地」を意味する。スラヴに語源を持つのはスロベニア共和国やクロアチアのスラボニア地方とも同じであるため、これらは類似した国名になっている[1]

歴史

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先史時代

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ケルト人ハルシュタット文化を受け入れたイリュリア人と、より古いプロト・スラブ人のルサチア文化が栄えていたが、鉄器時代末期にウーニェチツェ文化西部群の後継であるラ・テーヌ文化に属するケルト人コティニ人英語版ボイイ族)の侵略によって崩壊し、プコフ文化英語版に転換した。

古代ローマ

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1世紀ごろゲルマン人ダキア人が侵略し、ローマ帝国の拡大でプコフ文化が消滅した。マルコマンニ戦争のパンノニア遠征(168年 - 169年)。

民族移動時代

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2世紀および3世紀にフン族が、5 - 6世紀ごろにゲルマン人東ゴート人ランゴバルド人ゲピド人ヘルール人)がパンノニア平原に移住してきた。568年にはアヴァール人が占領し、アヴァール可汗国を樹立。623年、スラブ人の反乱が成功してサモ王国(623年 - 658年)が樹立された。

大モラヴィア王国

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モラヴィア王国の版図(緑、870年)。緑の線がスヴァトプルク1世による最盛期(894年)

9世紀に現在のスロバキア、モラヴィアボヘミアシレジア地方に大モラヴィア王国が成立。スロバキアでは大モラヴィア王国がスロバキア人による王国であると主張する者もいるが、歴史学的には証明できる事実ではない。また、この地域のスラブ人が現在のように簡単にチェコ人スロバキア人などというように分類できない面があった。

ハンガリー王国時代

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12世紀ハンガリー王国
マジャル人が用いていたとされる『羊飼いの斧英語版』と呼ばれる武器の木製レプリカ
独特の装飾が施されている。

10世紀になるとマジャル人の侵入を受け、ハンガリー王国が成立すると、この地域は北部ハンガリーと呼ばれ、ハンガリーの一地域として扱われるようになる。ただし、ハンガリーに比べてスラヴ人の多い地域であった。さらにオスマン帝国がハンガリーに侵入すると、王領ハンガリーの一部としてオーストリア大公国の支配を受けるようになり、ブラチスラヴァ(ポジョニー)にハンガリー王国の首都が移され、ハンガリーにとっても北部ハンガリーは重要な地域とみなされるようになった。この首都移転は北部ハンガリーの人口バランスを狂わせるもので、増加したマジャル人に対して北部ハンガリーのスラヴ人の反感は高まった。この時期、チェコはハプスブルク家を皇帝とするドイツ人諸邦連合である神聖ローマ帝国の一員(首都が置かれたことすらある)であったが、スロバキアはハンガリーとともにハプスブルクの支配は受けつつもその枠外とされていた。すなわち、ハプスブルク家は神聖ローマ帝国内(現在のオーストリア、チェコ、北イタリア)と外にまたがって版図を持っていたことになる。

オーストリア帝国時代

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19世紀半ば、オーストリア帝国時代、民族主義の流れによって周辺のスラヴ人がそれぞれクロアチア人(「クロアチアのスラヴ人」から)、ボヘミア人(「ボヘミアのスラヴ人」から)と呼び名を変えていく中で、北部ハンガリーでは自らの地域・北部ハンガリー地域のスラブ語に転化したスロバキアと名づけ、自らをスロバキア人、自分たちが話す言語をスロバキア語であると主張するようになった。またこのころ、勢力の大きいマジャル人に対して、チェコ人(チェック人)とスロバキア人の連合が主張され始めるようになった。

チェコスロバキア独立

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戦間期チェコスロバキア

オーストリア・ハンガリー二重帝国体制下においてはチェコ、スロバキアはともに連邦国家構想を支持していたが、第一次世界大戦の終了とともにオーストリア・ハンガリー帝国は崩壊した。1918年、独立運動の指導者トマーシュ・マサリクは、チェコスロバキアは民族自決の対象となる単一のチェコスロバキア人国家として独立を宣言した。さらにハンガリーに侵入し、北部ハンガリーのほとんどの地域をハンガリーから収奪した。これが現在のスロバキア国家の基本的な領土となっている。しかし、この行動はハンガリーなどで領土回復運動が高まるきっかけとなった。

スロバキア共和国(1939年 - 1945年)

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スロバキア共和国。赤がハンガリーに割譲された地域

共産党体制下のチェコスロバキア(1945年 - 1989年)

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共産党体制下のチェコスロバキア

民主化から連邦解体へ(1989年 - 1992年)

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スロバキア共和国(1993年 - )

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政治

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大統領宮殿

スロバキア国民議会で1992年に採択され、翌年1月の連邦制解消とともに発効した新憲法は、スロバキアを議会制民主主義国家と規定している。

国家元首は任期5年の大統領である。当初は議会により選出されていたが、1999年に直接選挙による選出となった。

立法府であるスロバキア共和国国民議会は任期4年、定数150の一院制。首相は国民議会の獲得議席数がもっとも多い政党から大統領が指名し、与党が議席の過半数を占めることができない場合は、改めて次点の政党から指名する。

2010年国民議会選挙では、中道左派政党のスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)が議席数を伸ばして第一党の座を維持した一方、連立を組んでいた民族主義政党のスロバキア国民党(SNS)やポピュリスト政党の人民党・民主スロバキア運動(ĽS-HZDS)が惨敗し、ロベルト・フィツォ連立政権が崩壊。SMER-SD党首のフィツォは選挙後、ガシュパロヴィッチ大統領から最初に首相指名を受けたものの、過半数を占める連立政権を組むことができなかったため、第二党で中道右派政党のスロバキア民主キリスト教連合・民主党(SDKÚ-DS)選挙対策本部長を務めたラジチョヴァーが代わって首相指名を受け、中道右派の自由と連帯(SaS)、キリスト教民主運動(KDH)およびハンガリー人政党のモスト(橋、MOST-HÍD)による連立政権が発足した。

2011年11月の欧州金融安定ファシリティ機能拡充条約批准にSMER-SDが協力した際の合意に基づき、2012年3月に繰り上げ総選挙が実施された。その結果、SMER-SDが単独で議席の過半数を獲得し、政権を奪回。SMER-SD党首のロベルト・フィツォが首相となった。

2019年ズザナ・チャプトヴァーが同国初の女性大統領になる[2]

2020年国民議会選挙では、与党を担っていたスメル(方向)・社会民主主義(SMER-SD)・スロバキア国民党(SNS)・「架け橋」(Most-Hid)が大敗し、中道右派の「普通の人々・独立した人達」(OLaNO)を第1党とする右派連立政権が誕生した。この政権交代は、スメル(方向)・社会民主主義党議員とマフィアの関係を追っていたジャーナリストのヤン・クツィアクが2018年2月に婚約者とともに殺害された事件により、国民の信頼が損なわれたことが背景にある[3]

国際関係

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歴史的に反露で知られるバルト三国やポーランド等の周辺東欧諸国とは異なり国民の間の対露関係は良好で親露的とされている。これはウクライナ西部からスロバキアにまたがって在住してきたルシン人ルテニア人が、ロシアとの一体を求める汎スラヴ主義であり、歴史的にウクライナ西部のザカルパッチャ州に多く住み、親ナチス反共主義と共闘してきたウクライナ民族主義からの迫害を受け、スロバキアのナチスドイツ支配からの開放をもたらしたのはソ連赤軍であったという側面も大きい[4]

日本との関係

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地理

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スロバキアの地形図
ゴータトラ山

気候

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スロバキアの国土は東西400キロメートル、南北200キロメートルという比較的小規模なものである。しかしながら、国土面積に比べて気候は変化に富んでいる。基調となっているのは大陸性気候である。首都ブラチスラヴァの位置する西部はケッペンの気候区分でいう西岸海洋性気候(Cfb)、中央部は温暖湿潤気候(Cfa)、東部は湿潤大陸性気候(Dfb)である。ブラチスラヴァの平均気温は-0.7度(1月)、19.1度(7月)。年平均降水量は649ミリである。高度が上がるほど雨量が増し、中央北部のタトラ山地では2,000ミリに達する。

このような気候を受け、国土の3分の1が森林であるほか、ステップ性の草原も残っている。

生物多様性

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スロバキアでは150種以上の植物絶滅の危機に瀕している[5]。また、外来種は国内に自生する植物の24%を占めており、同国では平均して年間3種類から5種類の外来植物が生息する状態となっている。

地方行政区分

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図中の番号は本文の括弧内のものと対応する

スロバキアは連邦制解消後の1996年に大規模な地方行政区分の再編が行われ、現在は8つの県[6]Kraj)が設けられている。

スピシュスキー城(スピシュスケー・ポドフラジエ)

第二次世界大戦前のチェコスロバキア時代はkrajより上位のKrajina(州)区分があり、「スロバキア州」(krajina Slovenská)が設けられていた。戦後は6県、のち3県に再編されたあと、ブラチスラヴァ、西部スロバキア、中部スロバキア、東部スロバキアの4県体制が1990年まで続いた。

県の下位には78のOkres(郡)および138のMesto(市)と、4つのVojenský obvod軍区)を含む2,883のObec(村)が設けられている。

主要都市

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都市 人口(2019年)[7]
ブラチスラヴァ ブラチスラヴァ県 437,725
コシツェ コシツェ県 238,593
プレショフ プレショフ県 88,464
ジリナ ジリナ県 80,727
バンスカー・ビストリツァ バンスカー・ビストリツァ県 78,084
ニトラ ニトラ県 76,533
トルナヴァ トルナヴァ県 65,033
トレンチーン トレンチーン県 55,383
マルチン ジリナ県 54,168
ポプラト プレショフ県 51,235

経済

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首都ブラチスラヴァ

工業国のチェコに比べ、スロバキアは昔から農業国であったが、最近ではフランスPSA・プジョーシトロエン韓国起亜自動車が工場を設立している。2009年1月1日に通貨をスロバキア・コルナからユーロに切り替えた。

鉱業

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スロバキアはマグネシウムを中心とした無機鉱物資源に恵まれている。マグネシウムの産出量は2016年時点で世界第7位、シェア4.5%の50万トン。鉄鉱、金鉱も採掘されている。有機鉱物資源は342万トンの亜炭・褐炭が中心である。ただし、原油の産出量は4.6万トンに留まる。

交通

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北部ヴィソケ・タトリの駅に停車中の列車
D1高速道路

高速道路が4路線 (D1 - D4) と自動車専用道路が8路線 (R1 - R8) 指定されているが、その多くが建設中である。このうちD1高速道路はブラチスラヴァからトルナヴァニトラトレンチーンジリナ方面に至る。D2高速道路は南北方向に、チェコプラハブルノハンガリーブダペストを結んでいる。オーストリアの高速道路に直結してウィーンへ向かうA6高速道路は2007年11月19日に開通した[8]

航空では、国際空港が3か所ある。そのうちブラチスラヴァの北東9キロメートルに位置するブラチスラヴァ空港は国内最大の空港で、今日運航されているあらゆる航空機が離着陸できる。利用客数は順調に増加しており、2000年の27万9028人から、2018年には229万2712人に達した[9]。そのほか、第二の空港としてコシツェにコシツェ国際空港が、第三の空港としてポプラトにポプラト=タトリ空港がある。ポプラト=タトリ空港の標高は718メートルで、オーストリアのインスブルック空港より150メートル高く、中央ヨーロッパで有数の高さとなっている。

鉄道はスロバキア国鉄が国内・国外の各路線を運行している。

水運では、ブラチスラヴァ港とコマールノ港が国際的な河川港となっている。北海からライン・マイン・ドナウ運河を経由して黒海に至る要衝であり、特にコマールノ港はドナウ川ヴァーフ川の合流部に位置している。

国民

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住民

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東スロバキアの民族衣装を着た人々
2010年に撮影
スロバキアの民族衣装をまとった女性(1920年)

2021年の国勢調査による民族構成は、スロバキア人が83.82%、マジャル人(ハンガリー人)が7.75%、ロマ人が1.23%[10]チェック人が0.53%、ルシン人が0.44%である[11]。このほか、チェック人ではなくモラヴィア人シレジア人としてのメンタリティーを持っているもの、ルテニア人ウクライナ人ドイツ人ポーランド人クロアチア人がいるがその総数はおよそ2%である。ロマ人は、スロバキアの全人口の約9%を占めるという報道もあり[12]世界銀行による推計では、人口に占めるロマ人の割合は約9%から約11%に達するとみられている[13]

現代のスロバキアは比較的均一性の高い国民国家としての性格を有している。ただし現在のような民族構成になったのは第二次世界大戦以降である。スロバキアは歴史的経緯から、マジャール人、ドイツ人ドイツ植民)、ルテニア人(ハンガリー王国に流れ込んだウクライナ人)、ロマ(ジプシー)も多く、入り組んで住んでいた。さらにはユダヤ人コミュニティも多かった。スロバキアのすべての町村にスロバキア語以外にハンガリー語の名称があり、また多くの都市がドイツ語名を持っているのはこのためである。

マジャル人が多いのは、かつてスロバキアが北部ハンガリーとしてハンガリー王国の領域に完全に組み込まれていたためである。スロバキア人は元来山岳民族であり、特にハンガリー平原に連続する南部平地部の住民はほとんどすべてハンガリー系住民であった。またドイツ人については、その移住の時期・理由(植民、鉱山労働、宗教的迫害など)はさまざまである。1919年のサン=ジェルマン条約オーストリア・ハンガリー帝国が、1920年のトリアノン条約ハンガリー王国の解体が行われ(この解体に反対するものも多かった(ドナウ連邦構想))、汎スラヴ主義に荷担したスロバキア人はかつての「ハンガリー王国による圧政」への報復として、ハンガリー人・ドイツ人の居住地を大きくえぐり取り、チェコと合併した形で独立を果たした。この過程でマジャール人とドイツ人の一部がスロバキアから追い出されている。以降マジャール人に関してはその後も一定数を占め、現在でもスロバキアにおいてもっとも大きいマイノリティー集団となっている。ドイツ人については最終的に第二次大戦後にそのほとんどが強制的に追放された。ユダヤ人については、ほかの中東欧諸国と同じように、第二次大戦を境にしてコミュニティのほぼすべてが消滅した。

言語

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言語はスロバキア語公用語である。また、一部でハンガリー語も使われている。またドイツ語が話せる世代も多い。英語は通じないことが多い[14]

婚姻

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宗教

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2021年の調査によるとカトリックがもっとも多く55.8%を占める。次いでルーテル派が5.3%、カルヴァン派が1.6%、ギリシャ・カトリックが4%、東方正教会が0.9%などである。無宗教は23.8%、無回答は6.5%であった[15]

教育

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義務教育は10年となっている。1990年代以降は教会所有の私立学校も増えて来ている。

保健

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スロバキアは伝染病に悩まされている面を持つ。伝染病による死亡率は2015年時点で、ヨーロッパにおいて4番目(人口10万人あたり35人)の高さを示している。

医療

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社会

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スロバキアはヨーロッパで17番目に汚職の多い国であり、海外諸国から「政治および司法制度が腐敗している」との激しい批判があった。特に、2011年12月に発生したゴリラ・スキャンダル英語版においては抗議運動が生起するほどの騒動となった。現在も、ヨーロッパにおいて汚職が目立つ国家の一つとして注視されている面がある。

法律

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治安

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スロバキアの治安は同国内務省の発表によれば、2019年中の犯罪件数が58,829件で、前年と比較して2,563件減少しているとされる。近年、スロバキアの犯罪件数は減少傾向にあり、近隣諸国と比べて治安情勢が悪いということはないものの、犯罪の類型としては、置き引きや集団スリ車上荒らし空き巣などの一般犯罪が目立っており、同国に滞在する際には特にこれらの犯罪に注意を払う必要が求められている[16]

警察

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スロバキアにおける公安任務は、現地警察(警察隊スロバキア語版と市町村警察)および憲兵によって実施されている。

人権

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マスコミ

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文化

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食文化

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文学

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リュドヴィート・シュトゥール

リュドヴィート・シュトゥールは、オーストリア帝国出身のハンガリー人であるが、スロバキアの言語学者として活動していた

音楽

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スロバキア舞踊を披露する人々
フヤラはスロバキアの伝統的な木管楽器であり、羊飼いが基となっている

スロバキアの音楽は近隣国家地域の音楽文化の影響を受けている面を持っている。また、歴史的に数々の音楽家や楽団を輩出して来ている。

作曲家
オーケストラ

美術

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映画

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建築

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ボドルジャルスロバキア語版チェコ語版に在る聖ニコラス教会スロバキア語版チェコ語版
この木造教会は、ルシンの民俗建築の一例であり、世界遺産にも登録されている。

世界遺産

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スロバキア国内には、ユネスコ世界遺産リストに登録された文化遺産が4件、さらにウクライナにまたがって1件の自然遺産、ハンガリーにまたがって1件の自然遺産が存在する。

祝休日

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国家祝休日および記念日法(スロバキア共和国国民議会1993年法律第241号)に定める国家の祝日[注釈 4]、国民の休日[注釈 5]は次の通り。

国家の祝日

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日付 日本語 スロバキア語 備考
01月01日 スロバキア共和国記念日 Deň vzniku Slovenskej republiky チェコスロバキア連邦制解消(1993年1月1日)にともなう主権国家スロバキア共和国の誕生を記念
07月05日 聖キュリロスと聖メトディオスの日 Sviatok svätého Cyrila a svätého Metoda キュリロスメトディオスキリスト教キリル文字をもたらしたことを記念
08月29日 スロバキア国民蜂起記念日 Výročie Slovenského národného povstania 1944年8月29日にナチス・ドイツ傀儡政権(スロバキア共和国)に対して蜂起したスロバキア国民蜂起(SNP)を記念
09月01日 憲法記念日スロバキア語版 Deň Ústavy Slovenskej republiky スロバキア国民評議会(SNR)による1992年の同日のスロバキア共和国憲法の採択と制定を記念
11月17日 自由と民主主義のための戦いの日 Deň boja za slobodu a demokraciu 1939年11月17日にナチス・ドイツに抵抗して殺害されたチェコ人学生と、1989年の同日に始まったビロード革命を記念(旧・国際学生記念日)
過去の国家の祝日
日付 日本語 スロバキア語 備考
10月28日 チェコスロバキア国家独立記念日 Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu 1918年のチェコスロバキア第一共和国独立を記念。1993年以降、記念日として平日扱いに変更。
11月1日 和解の日 - 政治的暴力犠牲者追悼の日 Deň zmierenia - Pamiatka obetiam politického násilia 2回の世界大戦における戦死者を追悼。1990年以降、「諸聖人の日」(Sviatok všetkých svätých)として国民の休日に変更。

国民の休日

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日付 日本語 スロバキア語 備考
01月06日 公現祭(三賢人の日) Zjavenie Pána (Sviatok Troch kráľov)
3月 - 4月 大金曜日(聖金曜日 Veľký piatok ヴェリュカー・ノッツ(Veľká noc復活祭
3月 - 4月 復活祭の月曜日 Veľkonočný pondelok イースターマンデー(復活祭後最初の月曜日)
05月01日 労働の休日 Sviatok práce メーデー
05月08日 対ファシズム勝利の日 Deň víťazstva nad fašizmom 1945年5月8日のナチス・ドイツ傀儡政権(スロバキア共和国)降伏と欧州戦線終結を記念
09月15日 聖母マリアの日 Sedembolestná Panna Mária
11月01日 諸聖人の日 Sviatok všetkých svätých 社会主義時代は「和解の日」(Deň zmierenia
12月24日 豊かな日 Štedrý deň クリスマス・イヴ
12月25日 第一クリスマス休日 prvý sviatok vianočný クリスマス
12月26日 第二クリスマス休日 druhý sviatok vianočný ボクシング・デー

記念日

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国家祝休日および記念日法に定める記念日(Pamätné dni)は次の通り。平日扱いとなる。

日付 日本語 スロバキア語 備考
03月25日 人権のための戦いの日 Deň zápasu za ľudské práva 1988年にブラチスラヴァ市でカトリック教徒が開いた反体制集会が強制的に排除解散させられた事件を記念
04月13日 不当迫害の日 Deň nespravodlivo stíhaných 1950年にチェコスロバキア共産党によって国内の修道院の大半が強制的に廃止された事件を記念
05月04日 シュテファーニク追悼記念日 Výročie úmrtia M. R. Štefánika チェコスロバキア独立運動の中心となったスロバキア人軍人ミラン・ラスティスラフ・シュテファーニク(1919年事故死)を記念
06月07日 スロバキア民族の覚書記念日 Výročie Memoranda národa slovenského 1861年にスロバキア人の自治地域を要求してマルチンで宣言された「スロバキア民族の覚書」(Memorandum národa slovenského)を記念
07月05日 在外スロバキア人の日 Deň zahraničných Slovákov 国家祝日の「聖キュリロスと聖メトディオスの日」に合わせ、国外在住のスロバキア人移民をたたえる
07月17日 スロバキア共和国独立宣言記念日 Výročie deklarácie o zvrchovanosti SR 1992年にスロバキア国民議会(現・スロバキア共和国国民議会)が行ったスロバキア共和国の国家主権宣言採択を記念
08月04日 マチツァ・スロベンスカーの日 Deň Matice Slovenskej 1863年にマルチンで設立された民族文化団体「マチツァ・スロベンスカー」(Matica slovenská)を記念
09月09日 ホロコーストと人種差別暴力犠牲者の日 Deň obetí holokaustu a rasového násilia 1941年9月にナチス・ドイツが設置したガランタ郡セレジュ市の強制収容所におけるユダヤ人およびスロバキア人の犠牲者を追悼
09月19日 スロバキア国民議会の日 Deň vzniku Slovenskej národnej rady スロバキア民族の独立を目指して1848年に設立された「スロバキア国民議会」(第一議会)を記念
10月06日 デュクラ峠犠牲者の日 Deň obetí Dukly 1944年にスロバキア解放を目的にスロバキア・ポーランド国境のデュクラ峠でソ連軍が行った対ドイツ戦の犠牲者を追悼
10月27日 チェルノヴァーの悲劇の日 Deň černovskej tragédie 1907年にチェルノヴァー村(現・ルジョムベロク市チェルノヴァー街区)でスロバキア人神父が率いるデモ隊にハンガリー憲兵隊が銃撃し殺害された15人を追悼
10月28日 チェコスロバキア国家独立記念日 Deň vzniku samostatného česko-slovenského štátu 1918年にプラハで行われたチェコスロバキア国家独立宣言を記念。1992年までは国家の祝日
10月29日 シュトゥール誕生の日 Deň narodenia Ľ. Štúra 1843年にスロバキア語の文語を作り普及させた言語学者リュドヴィート・シュトゥールの誕生日を記念
10月31日 宗教改革の日 Deň reformácie 1517年にマルティン・ルターがローマ教会の堕落に抗議して95ヶ条の論題を公表したことを記念
12月30日 スロバキア教会管区分離の日 Deň vyhlásenia Slovenska za samostatnú cirkevnú provinciu 1977年にローマ教皇パウロ6世がスロバキアの教会管区昇格を宣言したことを記念

スポーツ

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スロバキアではサッカー国技であり、圧倒的に人気のスポーツとなっている。さらにカヌー競技の強豪としても知られており、国際大会で主流の人工コースなどの練習環境が充実している。そのため、羽根田卓也のように自国から練習拠点を移す選手もいる[14]スキーアイスホッケーなどのウィンタースポーツも盛んであり、近年はペーター・サガンの活躍から自転車競技の人気も高まるなどしている。

サッカー

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1993年にプロサッカーリーグのフォルトゥナ・リーガが創設された。サッカースロバキア代表チェコとの分離独立後、FIFAワールドカップには2010年大会で初出場しベスト16の成績を収めた。UEFA欧州選手権でも2016年大会で初出場しベスト16となっている。同国ではセンターバックのポジションに世界的な選手を輩出しており、リヴァプールで長年活躍したマルティン・シュクルテルや、インテル・ミラノで活躍するミラン・シュクリニアルなどが非常に有名である。

著名な出身者

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脚注

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注釈

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  1. ^ 7世紀の最初のスラブ人の政権のこと。
  2. ^ スロバキア語発音: [ˈslovɛnskaː ˈrɛpublɪka] ( 音声ファイル)(スロヴェンスカー・レプブリカ)
  3. ^ スロバキア語発音: [ˈslovɛnsko] ( 音声ファイル)(スロヴェンスコ)
  4. ^ スロバキア語: Štátne sviatky
  5. ^ スロバキア語: Dni pracovného pokoja

出典

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  1. ^ 柴、ベケシュ、山崎、p.16
  2. ^ 京都新聞2019年4月1日朝刊
  3. ^ エッカート・デアシュミット (2020年3月5日). “総選挙で連立与党が大敗、第1党の中道右派政党に組閣を委任へ(スロバキア)”. 独立行政法人日本貿易振興機構(ジェトロ). 2020年5月23日閲覧。
  4. ^ 石川晃弘「中欧諸国民のロシア観―最近の世論調査結果から―」『文学部紀要 社会学・社会情報学』第30巻、中央大学文学部、2020年2月、1-14頁、CRID 1050571239993654016ISSN 0529-68032023年10月4日閲覧 
  5. ^ Viac ako 150 druhom rastlín na Slovensku hrozí. dennikn.sk (Bratislava: N Press),Dostupné online [cit. 2021-05-26]. ISSN 1339-844X.
  6. ^ 佐藤雪野「増補スロバキア・地方行政」 『東欧を知る辞典』p797、平凡社、2001年
  7. ^ Number of the Population by Sex - Municipalities (yearly)”. Statistical Office of the Slovak Republic. 2023年10月4日閲覧。
  8. ^ Do Viedne už netreba ísť po okresnej ceste” (スロバキア語). Pravda (2007年). 5 February 2008時点のオリジナルよりアーカイブ。19 November 2007閲覧。
  9. ^ Letisko Bratislava – O letisku – Štatistické údaje (Airport Bratislava – About airport – Statistical data)”. Letisko M.R. Štefánika – Airport Bratislava (2008年). 3 September 2011時点のオリジナルよりアーカイブ。19 January 2008閲覧。
  10. ^ Roma political and cultural activists estimate that the number of Roma in Slovakia is higher, citing a figure of 350,000 to 400,000”. Slovakia.org. 22 August 2013時点のオリジナルよりアーカイブ。25 November 2012閲覧。
  11. ^ Census 2021”. scitanie.sk. 2024年3月26日閲覧。
  12. ^ 瀬能繁 (2011年4月6日). “EU、ロマ人の統合促進で国別戦略策定へ”. 日本経済新聞. オリジナルの2021年8月16日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210816141949/https://www.nikkei.com/article/DGXNASGM0505H_W1A400C1EB1000/ 
  13. ^ “About the Roma”. 世界銀行. オリジナルの2006年8月24日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20060824055025/http://web.worldbank.org/WBSITE/EXTERNAL/COUNTRIES/ECAEXT/EXTROMA/0,,contentMDK:20333806~menuPK:615999~pagePK:64168445~piPK:64168309~theSitePK:615987,00.html 
  14. ^ a b 父に感謝の銅メダル=カヌー初の快挙、羽根田卓也選手〔五輪・カヌー〕:時事ドットコム[リンク切れ]
  15. ^ Roman Catholics represents 56% of the population”. SODB 2021. Štatistický úrad slovenskej republiky. 6 April 2022閲覧。
  16. ^ スロバキア 安全対策基礎データ”. 外務省. 2021年12月19日閲覧。

参考文献

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  • 柴宜弘、アンドレイ・ベケシュ、山崎信一編著『スロヴェニアを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2017年9月10日。ISBN 978-4-7503-4560-4 

関連項目

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外部リンク

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