ジェイムズ・ベラミー
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名前 | ||||||
本名 | James Francis Bellamy | |||||
愛称 | ジム | |||||
カタカナ | ジェイムズ・ベラミー | |||||
ラテン文字 | James Bellamy | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 |
イギリス イングランド | |||||
生年月日 | 1881年9月11日 | |||||
出身地 |
ロンドン ベスナル・グリーン | |||||
没年月日 | 1969年3月30日 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
利き足 | 右 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
バーキングFC | ? | (?) | ||||
? | グレイズ・ユナイテッド | ? | (?) | |||
? | レディングFC | 3 | (?) | |||
1903-1904 | ウールウィッチ・アーセナル | 29 | (2) | |||
1907-1908 | ポーツマスFC | 6 | (4) | |||
1908 | ノリッジ・シティFC | 17 | (3) | |||
1908-1912 | ダンディーFC | 118 | (5) | |||
1912 | マザーウェルFC | 8 | (44) | |||
1912-1914 | バーンリーFC | 17 | (1) | |||
1917-1918 | フラムFC | 17 | (1) | |||
? | ダンディー・ハイバーニアン | ? | (?) | |||
? | サウスエンド・ユナイテッド | 6 | (0) | |||
? | Ebbw Vale | ? | (?) | |||
? | バーキング・タウン | ? | (?) | |||
監督歴 | ||||||
1926-1928 | ブレシア・カルチョ | |||||
1921-1931 | FCバルセロナ | |||||
1933-1933 | バーキング・タウン | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ジェイムズ・フランシス・ベラミー(James Francis Bellamy、1881年9月11日 - 1969年3月30日)は、イギリス・イングランド出身の元サッカー選手・指導者。ポジションは右のライトハーフとアウトサイド・ハーフウインガー)。フットボールリーグにおいてはアーセナルFC、バーンリーFC、フラムFCなどでプレーした[1]。
スコットランドではダンディーFC所属時代にスコティッシュカップ1910を獲得している。引退後の指導者時代にはリーガ・エスパニョーラの初年度途中からFCバルセロナの監督に就任し、同クラブにリーグ初優勝をもたらした[2]。
経歴
[編集]1881年9月11日にロンドン中心部から約5.3km離れた北東部(ミドルセックス)の地区ベスナル・グリーンに生まれた[3]。
選手時代
[編集]ベラミーはノン・リーグ所属のバーキングFC、グレイズ・ユナイテッドFC、レディングFCで選手としてプレーし始めた。1903年5月にはウールウィッチ・アーセナルに加入し、2年後の1905年にプロデビューを果たした。アーセナルでは29試合4得点を記録した[4]。
1907年にはポーツマスFCに放出され、ノリッジ・シティFCを経由して1908年5月にスコットランドのダンディーFCに加入した[5]。ここでベラミーは1909-10スコティッシュ・カップ優勝メンバーとなった。クライドとの決勝はスコアレスドローに終わり、再試合ではベラミーの先制点を含む2-1の勝利でタイトルを獲得した[6]。
ベラミーは1912年5月、ダンディーからマザーウェルFCに放出された[7]。その後イングランドに戻って間もなく、1912年10月にバーンリーFCに加入した[8]。そして1914年7月にはフラムと契約した[7]。1917-18シーズンをダンディー・ハイバーニアン、サウスエンド・ユナイテッド、ウェールズのEbbw Vale、そして現役最後のクラブとなったバーキング・タウンでプレーした[8][注釈 1]。
指導者時代
[編集]選手引退後、ベラミーは欧州大陸で最初のコーチの仕事を得た。ドイツで何らかのコーチをした後にイタリアで1926年から1928年までブレシア・カルチョの監督を務め、セリエAの全国リーグ化・プロ化の直前に退団した。
1929年3月26日、ベラミーはシーズン途中にルマー・フルンス・イ・サルダーニャからFCバルセロナの監督の座を引き継いだ。就任直後チームは勝ち点5で10チーム中8位であったが、急速に調子を上げて5月26日の第13節に首位浮上。その後は一時2位に転落するが、混戦を制して最終節に優勝を決定。ベラミーはFCバルセロナにリーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオン初優勝をもたらした監督となった。
ベラミーはかつて1909年にバルサがカタルーニャ州選手権優勝を決めるのを現地で見たことがあり、そして1931年2月にアスレティック・ビルバオにクラブ歴代ワースト記録の1-12で敗北した試合を監督として味わった[9]。1930-31年シーズン、ベラミーは自らの手でカタルーニャ州選手権優勝を勝ち取った[10]。
イングランドに戻ったベラミーは1933年2月にバーキング・タウンのコーチに招聘されるが、3か月で解任された。誤った解任だとして法廷に持ち込むも、敗訴した[11]。
ジェイムズ・ベラミーはロンドンのチャドウェル・ヒースで1969年3月30日に亡くなった。享年87歳。
タイトル
[編集]- ダンディーFC
- スコティッシュ・カップ:1909-10
- フォアファーシャー・カップ:1909、1912
- FCバルセロナ
- リーガ・エスパニョーラ プリメーラ・ディビシオン:1928-29[注釈 2]
- カタルーニャ州選手権:1929-30、1930-31
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ Joyce, Michael (2004). Football League Players' Records 1888 to 1939. SoccerData
- ^ “El Mundo Deportivo, 27 March 1929 release”. 2019年1月7日閲覧。
- ^ “Played for both Dundee and Motherwell - Jimmy Bellamy” (英語). Dundee Football Club - Official Website (2016年11月3日). 2019年1月8日閲覧。
- ^ “James Bellamy Archive”. 2017年1月4日. Arsenal F.C.閲覧。
- ^ “"Latest signatures"”. The Evening Telegraph and Post(Subscription required (help)).. 2018年1月7日閲覧。
- ^ “Dundee Football Club - Official Website | 1910 - Scottish Cup win”. web.archive.org (2016年3月4日). 2019年1月8日閲覧。
- ^ a b “"Bellamy, of Dundee, is transferred to Motherwell"”. The Courier. Dundee. 2018年1月8日閲覧。
- ^ a b Gracie, Steve (2008). A Passion for Survival: Dundee United FC, a Comprehensive History 1909–1945.. Dundee: Arabest Publishing
- ^ “"Athletic Bilbao 12-1 FC Barcelona"”. World Football.net.. 2019年1月6日閲覧。
- ^ “James Bellamy (1929-31)” (英語). www.fcbarcelona.com. 2019年1月8日閲覧。
- ^ “"'Jimmy' Bellamy loses action"”. The Courier and Advertiser. Dundee. 2019年1月2日閲覧。