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グルジョンツ

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グラウデンツから転送)
グルジョンツ
City panorama and the Grudziądz Granaries
Market Square
Town Hall
Water Gate
Former Benedictine monastery
グルジョンツの旗
グルジョンツの紋章
紋章
標語: 
Grudziądz – Miasto Otwarte
(Grudziądz – Open city)
グルジョンツの位置(ポーランド内)
グルジョンツ
グルジョンツ
座標:北緯53度29分15秒 東経18度45分18秒 / 北緯53.48750度 東経18.75500度 / 53.48750; 18.75500座標: 北緯53度29分15秒 東経18度45分18秒 / 北緯53.48750度 東経18.75500度 / 53.48750; 18.75500
ポーランドの旗 ポーランド
クヤヴィ=ポモージェ県
設立 1065年4月11日
市制施行 1291年6月18日
政府
 • 市長 マチェイ・グラモフスキ
面積
 • 合計 57.76 km2
標高
50 m
人口
(2021年12月31日)
 • 合計 92,552[1] (40位)人
等時帯 UTC+1 (CET)
 • 夏時間 UTC+2 (CEST)
郵便番号
86–300 to 86–311
市外局番 +48 056
ナンバープレート CG
ウェブサイト http://www.grudziadz.pl

グルジョンツポーランド語: Grudziądz [ˈɡrud͡ʑɔnt͡s])は、ポーランドクヤヴィ=ポモージェ県の都市。ドイツ語名はグラウデンツドイツ語: Graudenz)。ワルシャワから北西へ200km、グダニスクから南へ100kmの位置で、ヴィスワ川のほとりにある。

歴史

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定住の痕跡は10世紀まで遡ることができる。「Grudenc」という名前が1222年の文献に残っている。グルジョンツを含むクルマーラントドイツ語版は、1225/1226年、マゾフシェ公コンラトによって、ドイツ騎士団プルーセンを攻撃する見返りに譲渡された。1230年には(クルシュヴィッツ条約)が締結されたとされる。

1231年、ドイツ騎士団が城を建設。現在は城壁の跡が残っているだけである。1291年、都市法クルム法ドイツ語版)が認められた。その後数年をかけて市壁が建設された。グルジョンツは14世紀まで穀物流通の拠点として繁栄し、最初の黄金期を迎える。

プロイセン同盟に参加したクルマーラントは、第二次トルンの和約によって王領プロイセンに編入された。クルマーラントは地理的な優位性から、王領プロイセンの政治を主導していく。1522年、グルジョンツで、コペルニクスの貨幣制度に関する講演が行われた。16世紀には手工業と交易の一大拠点として栄えたグルジョンツだが、17世紀には北方戦争の戦火に見舞われることになる。1655年にスウェーデンが占領。1659年にポーランドが奪還したが、街は完全に破壊されてしまった。戦争や内部闘争は続いたが、街並みはバロック様式で再建された(グルジョンツ・バロック)。

1772年、第1次ポーランド分割で、グルジョンツを含む地域はフリードリヒ2世プロイセン王国に支配下に入る。フリードリヒ2世はここに巨大な要塞を建設した。西プロイセン州の一部となり、マリーエンヴェルダー県ドイツ語版の県都となった。19世紀、まず、トルンとマリーエンブルク(マルボルク)を結ぶ鉄道が建設される。さらに、ヴィスワ川に鉄道橋が架けられてコーニッツ(ホイニツェドイツ語版)からプロイシッシュ・アイラウ(バグラティオノフスク)までの路線が完成すると、グルジョンツは製鉄、機械、自動車、繊維といった工業で急速に発展した。1880年から1905年の間に人口は17,321人から35,958人に倍増している。1900年には独立市となった。

1920年、第一次世界大戦ヴェルサイユ条約)の結果、いわゆるポーランド回廊の一部としてポーランドに割譲され、ポモージェ県に編入された。人口約40,300人(1910年時点)のうち多数派はドイツ系住民であったとされるが、このとき住民投票などは行われなかった。グルジョンツは文化と教育の拠点となる。ポーランドで最も大きい軍事基地のひとつが置かれた。この基地は騎兵の訓練所として知られた。

ナチス・ドイツポーランド侵攻を開始すると、1939年9月3日、ドイツ国防軍に占領され、その後、ダンツィヒ=西プロイセン帝国大管区に編入された。1945年2月9日、赤軍に包囲され、激しい戦闘のすえ、3月6日に降服。この戦闘で市街の約60%が破壊されたという。グルジョンツは再びポーランドの一部(回復領)となり、ドイツ系住民は脱出するか、そうでなくても追放された(ドイツ人追放)。

グルジョンツ出身の人物

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姉妹都市

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教育機関

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グルジョンツ工業高校と天文台
  • ニコラウス・コペルニクス大学

脚注

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  1. ^ Local Data Bank”. Statistics Poland. 9 August 2022閲覧。 Data for territorial unit 0462000.

外部リンク

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