アール・エフ・ラジオ日本
本社所在地の三共横浜ビル 「明治安田生命ラジオ日本ビル」時代の 2009年11月撮影 | |
種類 | 株式会社 |
---|---|
略称 | RF、ラジオ日本 |
本社所在地 |
日本 〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5丁目85番地 (三共横浜ビル) 北緯35度26分32.3秒 東経139度37分55.7秒 / 北緯35.442306度 東経139.632139度座標: 北緯35度26分32.3秒 東経139度37分55.7秒 / 北緯35.442306度 東経139.632139度 |
設立 |
1958年(昭和33年)8月15日 (株式会社ラジオ関東) |
業種 | 情報・通信業 |
法人番号 | 8020001014163 |
事業内容 | 放送法に基づく一般放送事業 など |
代表者 | 高橋洋一(代表取締役社長) |
資本金 | 1億円 |
純利益 |
▲1億3215万4000円 (2023年3月期)[1] |
総資産 |
4億4495万6000円 (2023年3月期)[1] |
従業員数 | 32人(2019年7月1日現在) |
決算期 | 3月31日 |
主要株主 |
日本テレビホールディングス 96.4% (2023年3月1日時点)[2] |
主要子会社 | ラジオ日本音楽出版 |
関係する人物 |
河野一郎 遠山景久 小林與三次 |
外部リンク |
www |
特記事項:日本テレビホールディングスの非連結子会社。 1981年(昭和56年)10月1日に株式会社ラジオ関東から商号変更。 同局では、送信所・中継局を放送局と称する。 |
アール・エフ・ラジオ日本 RF RADIO NIPPON CO.,LTD. | |
---|---|
種別 | AMラジオ放送 |
放送対象地域 | 神奈川県 |
系列 | 独立系 |
略称 | RF |
愛称 | ラジオ日本 |
コールサイン | JORF |
開局日 | 1958年12月24日 |
本社 |
〒231-8611 神奈川県横浜市中区長者町5-85 三共横浜ビル |
演奏所 |
本社及び東京支社 〒106-8039 東京都港区麻布台2-2-1 麻布台ビル北館2階 |
親局 / 出力 | 横浜(川崎幸放送局) 1422kHz / 50kW |
主な中継局 |
小田原 1485kHz JORL 100W 横浜FM補完中継局 92.4MHz 5kW |
公式サイト | http://www.jorf.co.jp/ |
特記事項:番組の殆どは東京支社から放送されている。 |
株式会社アール・エフ・ラジオ日本(アール・エフ・ラジオにっぽん、英: RF RADIO NIPPON CO.,LTD.[3][4])は、神奈川県を放送対象地域として中波放送(AMラジオ放送)を実施する特定地上基幹放送事業者である。
通称はラジオ日本(ラジオにっぽん)[注 1]。旧社名はラジオ関東(ラジオかんとう)。日本テレビホールディングスの非連結子会社[5]。
概要
[編集]ラジオネットワークに属さない独立放送局であるが、同じ独立放送局のラジオ関西[注 2]、岐阜放送と提携して番組を相互供給している[注 3]。
かつては極東放送(現・FM沖縄)[注 4]とネットを組んでおり、この4地域(神奈川県・東京都 周辺、兵庫県、岐阜県、沖縄県)のみの天気予報をニュース番組で放送していた時期があった。
AMステレオ放送の実施実績はなく、2011年4月12日にradikoで配信を開始してステレオ聴取が可能になった。
かつての商号は『株式会社ラジオ関東』(通称:ラジ関)であったが、1981年10月に『株式会社アール・エフ・ラジオ日本』(通称:ラジオ日本)に商号変更した。当初は『株式会社ラジオ日本』に変更する計画であったが、既存のNHK海外向け国際放送「ラジオ日本」や「ニッポン放送」との混同を回避するため、郵政省の行政指導でコールサインの一部を含めた商号となった。1982年にニッポン放送が商号の使用差し止めを求める裁判を起こしたが、ニッポン放送の敗訴となった[6]。
1977年まで毎日新聞社から全国ニュースの供給を受けたが、1978年に供給元を読売新聞社へ変更して以後、聴取率低迷と経営の混乱が生じた。
混乱を収束するために日本テレビの資本参加を受けて傘下となり、日本テレビホールディングス (NTV HD) がウェブサイトで「日本テレビ系ラジオ中波放送」としている。アナウンサーが輪番制で同局に出向し、日本テレビの協賛番組(坂上みきのエンタメgo!go!、小鳩の愛 〜eye〜、わたしの図書室、日テレアナ・ザ・ワールド!他)を放送している。
日本テレビが放送持株会社体制へ移行後、親会社が新・日本テレビの子会社となり、のちに再びNTV HDとなり、非連結子会社となった。
神奈川県域局でありながら、1978年 以降は日本テレビ、読売新聞社と資本の関連があり、いずれも東京都が本拠である読売ジャイアンツ(東京ドーム主管試合)、東京ヴェルディ1969(味の素スタジアム、国立霞ヶ丘競技場陸上競技場他都内主管試合)で広告看板(なんだろうマーク付き)を掲示したことがある[注 5]。
南関東1都3県の中波局では唯一、神奈川県小田原市に中波の中継局を持つ[7]。
FM補完中継局(ワイドFM)
[編集]FM補完中継局(ワイドFM)用として92.4 MHzが割り当てられており、2019年(平成31年)1月31日に総務省関東総合通信局から無線システム普及支援事業費等補助金の交付決定を受けた[8]。2019年(令和元年)6月26日に総務省関東総合通信局から予備免許が交付された[9]。2020年(令和2年)1月に試験電波の送信を開始し、3月16日5時から本放送を開始した[10]。2020年2月16日までにラジオ日本以外の全民放AM放送局はFM補完中継局の本放送を開始している[11][12]。
ラジオ日本を含む全国のAM放送を行う民放ラジオ44社(北海道・秋田県を除く)は、2028年秋までにAM放送を停波し、FM放送へ一本化またはAM放送を補完放送にする計画であることを2021年6月15日に発表した。現行の制度ではAM局がFM局に転換することは困難であるため、2022年度に法規制の改正を行う予定としている[13][14]。総務省は2024年2月にAMの停波実証実験を行う予定であるが、ラジオ日本は後述の理由で高齢層の支持が率高くAM放送の聴取が多いとして、同実験に参加しない[7][14]。
「社会の木鐸」宣言
[編集]ラジオ関東は開局以来「洋楽のラジ関」[注 6] の通称で親しまれ、同局がイベントで出展するブースは自慢の洋盤ジャケットコレクションが掲示された。
その後も女性アイドル番組など幅広く扱っていた[注 7] 他、1970年代後半には吉崎四平プロデューサーがコールサインの「JORF」を「JOロックフレンズ (Rock Friends)」と読ませ、ロック音楽に力を入れた[15]。
報道協定を毎日新聞社から変更した読売新聞社は、もともと毎日新聞社や朝日新聞社とともに日本テレビのほかに東京放送(TBS)とも関係を持ち、同社のラジオニュースは日替わりで3社が交代ローテーションをしていた。1974年3月に首都圏キー局の放送局と新聞社は資本系列と報道協定を調整することになり、読売新聞社は日本テレビと協定を強化することとなったため読売と協定関係を結ぶラジオ局は朝日と共に消失し、首都圏ラジオ局のうちTBSラジオとラジオ関東、FM東京が毎日と、ニッポン放送と文化放送がサンケイと関係を持つといった偏った事態となった。
1977年(昭和52年)に読売新聞社は、「巨人戦の単独独占中継権とネット局を含む自社の宣伝及びニュース放送を抱き合わせで契約したい」と提案する。NRNのキー局でフジサンケイグループを形成するニッポン放送と文化放送、JRNのキー局で毎日新聞系のTBSラジオ、日本経済新聞系の日本短波放送(NSB)や、新聞資本とは無関係のFM東京の各局はいずれも提案を受け入れなかったため、同年末にラジオ関東と読売とが交渉し、翌1978年(昭和53年)1月1日付から報道・資本協定関係を読売と結ぶことを締結することになる。そして、創業に尽力した河野一郎の意を受けて経営に当たった遠山景久はこのタイミングに乗じて、ワンマン体制を強化する。
1981年10月から、社名を「アール・エフ・ラジオ日本」に変更。局名公募はあくまで表向きで、実際は当時の社長遠山景久の強い意向だった。中吊り広告などで「決定的瞬間 ラジオ日本誕生」と広告していた(10月以降、テレビ・ラジオCMを放送した)が、長年NHKが国際放送に「ラジオ日本(ニッポン)」の名称を用いており、世界的に知名度が高かったため、NHKは善処を申し入れたが遠山が拒否した。NHKは、「ラジオ日本(ニッポン)」を1981年(昭和56年)5月に商標登録出願して、遠山に「ラジオ日本(ニッポン)」の名称使用を禁じた。ニッポン放送も「名称が酷似して聴取者を混乱させる」と不正競争防止法違反で告訴した。ニッポン放送は敗訴したが苦肉の策として、社名の頭にコールサインの一部である「アール・エフ (RF)」を付けざるを得なくなった[注 8]。関連して、これ以降は中波本局周波数を冠につけて「1422・ラジオ日本」(いちよんにーにー)というようになり、FM補完放送開始後は「FM924・AM1422」(エフエムきゅーにーよん、エイエムいちよんにーにー)へと変わっていく。
1978年、巨人主催試合のラジオ中継を完全にラジオ関東の独占にしたため、地方局向け、特にその県に1局しかないAM局(ジャパン・ラジオ・ネットワーク〈JRN〉、全国ラジオネットワーク〈NRN〉並列加盟)の局ではナイター中継の協賛スポンサーの営業面 確保に苦戦を強いられた。1979年に読売新聞社とラジオ関東から番組販売購入を受ける形でTBSラジオに販売。1981年までは試合日毎にそれぞれのライン毎の本番とは別に、ラジオ関東製作のJRN向け裏送り、またはTBS・地方系列局制作のラジオ関東-ラジオ関西-岐阜放送向けの裏送りを行った試合が存在した。
1982年(昭和57年)、「
神奈川の県域放送として免許交付されたが東京都23区、多摩地域、伊豆諸島北部、埼玉県、千葉県の全域など広範囲で聴取できる実態[注 10] があり、あたかも関東広域圏のラジオ局のように振る舞い、遠山時代は東京支社に社員の9割が配置されるなど、東京支社が実質的な本社・演奏所として機能していた。
1986年(昭和61年)、横浜市土地開発公社が払い下げた中区の公有地(現在の登記上の本社所在地)が「地元の放送は防災公報等の公共性がある」ことを考慮して、実勢価格の半額以下で任意譲渡されたにもかかわらず、建築計画は演奏所、送信機、アンテナ塔がない、単なるテナントビルである事が暴露され、放送設備等を備えた計画に変更。社会的非難を浴びた。
1987年(昭和62年)に社長を駒村秀雄に譲った後も会長として従前権勢を揮っていた遠山は大喪の礼前後の歌舞音曲自粛を経た1989年(平成元年)4月以降、若者向け番組の完全排除に踏み切る[注 11]。意に沿わぬ局員を徹底的に左遷・解雇して、アナウンサーをキーパンチャーに異動したり、管理職研修を自衛隊で行い、最盛期には150名以上居た社員を30数名まで減じるなど、恐怖政治的な人事・労務策を敢行することで労使関係は険悪な状況となり退職・移籍者が相次いだ[注 12]。その間は残った社員が遠山への不満を募らせていく事態となり、経営末期の1993年(平成5年)は打ち切られた番組が21本と経営破綻は現実味を帯びていった。
会長解任と「社会の木鐸」の終焉
[編集]1993年(平成5年)12月21日15時から実施される予定の取締役会に遠山は遅刻することになったが、定時開会の方針が伝達されたことにより、遠山不在のまま開始。
その時、長年の遠山独裁に不満を募らせていた取締役たちは、遠山不在を好機と捉え、遠山解任案を緊急発議し、「公共の電波を預かる放送会社の代表として相応しくない」という理由により全会一致で可決、遠山を電撃解任した。
遠山が取締役会に到着した時は既に手遅れで独裁体制に終止符が打たれた後であった。取締役会終了後の15時15分には、会議室に集めた社員達に「これはプレゼントです」と会長解任が伝えられた。
これより前の同年3月に巨人戦ホームゲーム独占中継権を失ったことにより、会社は経営破綻寸前に陥っていた。遠山の経営は既に読売新聞社から見放された状態であったのである。
後任社長には外部から解任劇を筋書きした小林與三次と同じく、読売新聞・日本テレビ出身の外山四郎が就いた。
外山は遠山の負の遺産の整理を進め、1994年(平成6年)2月に「乱脈経営で会社に損害を与えた」として、遠山を告訴。遠山の土地・家屋を差し押さえて、一族所有の同局株式を日本テレビに譲渡させ、事実上の日本テレビ傘下に納めたことで混乱に一応の終息を見た。これにより経営破綻寸前であった同社はそれを免れ、以後の数年間で再建した[18]。
「社会の木鐸」終了から現在
[編集]「社会の木鐸」終了後の番組編成は当初、競合他局との差別化を図る意図から劇的な変化を避け、ミッキー安川を長年に亘り複数の番組で起用。没後も実子のマット安川を起用している他、演歌番組も多く編成するなど、高齢者志向を続けた。報道面は2009年(平成21年)11月に深夜放送「ラジオ時事対談」を開始。神奈川県を地元とする議員や実業家のトーク番組が多い等、遠山時代の名残だけでなく、現在提携関係にある読売新聞・日本テレビの影響もあり、保守的傾向となっている。
2000年代以降は以前 排除したアイドル系タレントが参加する若者向けの番組が主に週末を中心に増え、アニラジを復活。イメージ払拭のキャッチフレーズに「こんな番組もやってます」として、夜のアイドル パーソナリティの写真を中心に散りばめた広告戦略を打っている。2015年春より、深夜枠「ラジオ日本NEXT」を開始。アイドル番組枠を大幅に増やした。
2016年秋から形式的にはDJを入れ、番組として編成しているが実態はフィラー枠(ミュージックコンボイ、ザ・スタンダード、Midnight Mix、フォーエバーミュージック、ミュージックセレクション、ウェイクアップミュージック)を深夜帯を中心に放送している[注 13]。放送枠を買い、外部の通販会社などが自社商品を販売する「スポンサー販売」によるラジオショッピングを数多く放送している。
2023年現在の編成部長である高橋充は日刊スポーツに掲載したラジオ日本特集のインタビューで経営体力的に人気タレントの起用が厳しい分、無名であっても個性的なパーソナリティを起用して、マニアックで面白い番組作りの姿勢を1980~1990年代のテレビ東京になぞらえ「少し前のテレビ東京の様なイメージの局を目指したい」とコメントしている[19]。
事業所
[編集]- 本社
- 東京支社
- 関西支社
送信所
[編集]放送時間は5:00起点の24時間放送(放送機器メンテナンスのため、日曜深夜(月曜未明)1:00 - 5:00は休止)。
同局では、送信所・中継局を放送局と称する。
親局 | コールサイン | 周波数 | 出力 | 備考 |
---|---|---|---|---|
横浜 | JORF | 1422 kHz | 50 kW | |
中継局 | コールサイン | 周波数 | 出力 | 備考 |
小田原 | JORL | 1485 kHz | 100W | |
予備送信所 | コールサイン | 周波数 | 出力 | 備考 |
野毛山 | 1422 kHz | 1 kW | ||
FM放送 | コールサイン | 周波数 | 出力 | 備考 |
横浜 | 92.4 MHz | 5 kW[22] |
|
資本構成
[編集]企業・団体は当時の名称。出典:[23][24][25] [26][27][28]
2020年7月1日
[編集]資本金 | 発行済株式総数 |
---|---|
1億円 | 3,500,000株 |
株主 | 株式数 | 比率 |
---|---|---|
日本テレビホールディングス | 3,374,000株 | 96.40% |
過去の資本構成
[編集]資本金 | 発行済株式総数 | 株主数 |
---|---|---|
1億円 | 3,500,000株 | 23 |
株主 | 株式数 | 比率 |
---|---|---|
日本テレビ放送網 | 1,584,369株 | 45.26% |
三菱商事 | 670,000株 | 19.14% |
東芝 | 500,000株 | 14.28% |
日本テレビ小鳩文化事業団 | 278,910株 | 7.96% |
資本金 | 発行済株式総数 |
---|---|
1億円 | 3,500,000株 |
株主 | 株式数 | 比率 |
---|---|---|
日本テレビ放送網 | 2,254,369株 | 64.41% |
東芝 | 500,000株 | 14.28% |
日本テレビ小鳩文化事業団 | 278,910株 | 7.96% |
沿革
[編集]- 1958年(昭和33年)
- 1959年(昭和34年)10月 - 出力を10kWに増力
- 1960年(昭和35年)
- 3月2日 - 市立横浜公園体育館で、ラジオ関東主催『歌謡曲ゴールデン・ヒット・ショー』公開録音の開門時に、将棋倒し事故発生。死者12名、重軽傷者14名(横浜歌謡ショー将棋倒し事故)。
- 6月15日 - 日米新安全保障条約批准阻止の第2次実力行使で全学連7,000人が国会議事堂に突入を図り警官隊と衝突する安保闘争。在京各局でただ一局これを実況中の島碩弥アナウンサーが鎮圧に投入された機動隊隊員に殴打される模様を生中継。多くの聴取者に闘争の実態を知らせた。島は「機動隊に殴られました、暴力です。ただ暴力があるのみ、これが日本の現実です」とリポートした。
- この前後は安全保障条約に関連した賛成派と反対派のデモと機動隊の衝突はしばしばであった。この2年前1958年9月16日、全学連デモを取材中の東京新聞記者と日本経済新聞記者が、警視庁第1機動隊員から暴行を受け負傷した事件を含め、マスコミ関係者とも衝突している。ところがこの一件を境に俗に言う安保報道(新聞七社の共同宣言)が生まれる。
- 12月6日 - 郵政省(現・総務省)に、テレビ放送免許申請[29]。申請は却下される。
- 1964年(昭和39年) - 東京支社を中央区銀座から港区麻布台の麻布台ビルに移転。この頃から、実質的な本社機能を横浜から東京へ移転させる。
- 1965年(昭和40年)9月18日 - 台風取材中のラジオカーが晴海埠頭から東京湾に転落。記者・アナウンサー6名水死[30][31]。
- 1966年(昭和41年)10月3日 - 同局初の終夜放送『オールナイト・パートナー』放送開始[30]
- 1968年(昭和43年)4月 - 周波数を1420kcに変更
- 1971年(昭和46年)12月 - 出力を30kWに増力すると同時に、指向性アンテナに改造。
- 1974年(昭和49年)10月 - 『横浜音楽祭』開始(在京ラジオ局による歌謡賞レース序盤の重要な大会であった)。
- 1977年(昭和52年)11月 - 読売新聞社と後楽園球場での巨人戦ラジオ中継独占契約を締結。
- 1978年(昭和53年)
- 1981年(昭和56年)
- 1982年(昭和57年)4月 -「社会の木鐸」宣言(硬派路線に転向。アイドル、ポップス番組を削減)
- 1989年(平成元年)4月 - 若者向け番組を完全に排除
- 1990年(平成2年) -「大人の放送局」を編成の基本方針とし、50歳以上の聴取者をメインターゲットとする
- 1991年(平成3年)11月2日 - 落雷による停電で川崎幸放送局が停波したが、自家発電装置が自動起動せず、更に道路渋滞で技術部員の到着が遅れ、2時間近く停波。郵政省等の監督官庁から厳重注意処分を受ける。
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年) - 遠山一族所有のラジオ日本株式を日本テレビが買い取り、連結子会社とする。川崎幸放送局の送信機をフルデジタル化
- 1996年(平成8年)10月 - 明治生命ラジオ日本ビル落成に伴い、本社を横浜市西区老松町から現住所に移転。本社制作番組を増やしたが、一時的なものに終わった。キャッチコピーは「ハマって楽しくラジオ日本」
- 1998年(平成10年) - 開局40周年。「WITH YOU 40」をキャッチコピーに展開(「WITH YOU」自体は2003年(平成15年)頃まで使用)。
- 1999年(平成11年)6月27日 - 『日曜競馬実況中継』放送中に、川崎幸放送局が遠隔制御装置の故障で1時間半に亙って停波。郵政省等から再度厳重注意処分を受ける。
- 2000年(平成12年)12月1日 - BSデジタル放送開始に伴い、BS日テレラジオの制作を担当。ch.444にて「ヒーリングステーション」、ch.445にて「衛星版ラジオ日本(地上波サイマル中心)」を制作。
- 2001年(平成13年)
- 3月26日 - 開局日以来43年間続いていた夜の長寿帯番組『京急ミュージックトレイン』が終了。
- 9月12日 - アメリカ同時多発テロで各局が終夜特別報道体制を敷く中、唯一通常番組を録音放送。
- 2003年(平成15年)
- 2005年(平成17年)
- 8月 - 『24時間テレビ 「愛は地球を救う」』のチャリティーマラソンの実況生中継を開始。
- 10月 - ナイターオフの火曜 - 金曜 19:30 - 21:30を「ラジ関RETURNS」と題打ち、ラジオ関東時代に好評を博した『ポートジョッキー』、『全米トップ40』、『きのうの続き』の3番組を復活。
- 2006年(平成18年)4月 - 千葉ロッテマリーンズホームゲーム(対巨人戦以外)の放送権獲得。『ラジオ日本ジャイアンツナイター』に加え、『ラジオ日本マリーンズナイター』を開始。
- 2007年(平成19年)12月24日 - 開局50周年を前に、「ヒョッとして!?50年!」のキャッチコピーを展開、懐古番組を定期放送化。
- 2008年(平成20年)
- 2009年(平成21年)10月4日 - 『菊地亜美の1ami9』放送開始。以降、女性アイドルがパーソナリティを務める番組が増加。
- 2010年(平成22年)1月18日 - 『勝負』シリーズを担当し、局の看板パーソナリティであったミッキー安川が死去。番組は息子のマット安川が引き継ぐ。
- 2011年(平成23年)4月12日 - radikoでのサイマル放送開始。配信地域は放送対象地域である神奈川県のほか、東京都・埼玉県・千葉県でも聴取が可能。(9月までは実用化試験配信で、10月以降本格運用)。放送局記号は「JORF」(横浜本局のコールサインそのまま[注 18])。
- 2012年(平成24年)10月1日 - 「ラジオ日本開局55周年プレ・イヤー」と題し、月-金曜ワイドの一新(6:30 - 15:00)を核とした改編率43%にも及ぶ改編を実施[32]。
- 2013年(平成25年)
- 2014年(平成26年)4月1日 - 「radiko.jpプレミアム」による日本全国への配信が開始。
- 2015年(平成27年)4月 - 毎日深夜帯に女性アイドルの担当する番組を編成する大改編を行う[注 19]。これに伴い「ラジオ日本深夜の解放区」枠は廃止。
- 2016年(平成28年)6月 - SKハウジングが本社ビルの所有権を明治安田生命から譲受、「三共横浜ビル」と改称。
- 2018年(平成30年)
- 2019年(令和元年)6月26日 - 総務省関東総合通信局からFM補完中継局の予備免許(92.4 MHz)が交付される[34]。
- 2020年(令和2年)
- 1月 - FM補完中継局からの試験電波送信を開始[10]。
- 3月16日 - 5時からFM補完中継局の本放送を開始[10]。
- 3月27日 -「勝負」シリーズが終了。
- 3月31日 -「社会の木鐸」宣言後の1984年(昭和59年)から続いていた鶴蒔靖夫の平日帯番組「こんにちは!鶴蒔靖夫です」が終了。4月から週一回の「鶴蒔靖夫の話のキャッチボール」に変更。
- 2022年(令和4年)9月 -「こんにちは!――」からリニューアルされた「話のキャッチボール」が終了。
番組・オープニング/クロージング・時報
[編集]番組
[編集]概要
[編集]- 2020年10月度改編の時期の放送は月曜日1:00
- 5:00(日曜25:00 - 29:00)の休止時間を除く、24時間体制である。2019年度より、プロ野球中継などの都合により放送できなかった『60TRY部』の代替放送が行われる場合があり、その場合は月曜3:00(日曜27:00)まで延長したり、放送休止を取り止めることがある。
- 前述の通り、実質的な本社機能を東京支社が担っていることもあり、生ワイド番組を含め、大半の自社制作番組は東京支社スタジオからの送出となっている。横浜本社は2020年10月開始の『ヨコハマ・ラジアンヌスタイル』以降の平日帯昼ワイド番組と月曜夜の『マツラジ』。本社ビル1階のラジアントホールでの公開録音などに限られる。
- 1986年より、神奈川県西部方面へ向けた番組を当初は小田原駅前に設置した小田原スタジオから送出していたが、後に横浜本社制作へ移行した。番組は2018年3月末で終了した。
オープニング
[編集]- 2020年3月16日(ワイドFM開局)以降
- 4:56:45秒頃から、エドヴァルド・グリーグ作曲「『ペール・ギュント』第1組曲:朝」が流れる。
- その後、矢田雄二郎による、横浜本局、小田原放送局、FM補完中継局、の局名告知と周波数・出力の案内、放送開始のアナウンスが行われる。
- 2020年3月9日まで
- 4:57:30秒頃からアップテンポの音楽が1分間流れた後、「♪~1422ラジオ日本」というフレーズが流れるオリジナル楽曲が流れる。
- その後、井口保子による、横浜本局、小田原放送局の局名告知と周波数・出力の案内、放送開始のアナウンスが行われる。
クロージング
[編集]- 2020年3月16日(ワイドFM開局)以降
- 1:00に、矢田雄二郎の声で「本日も、ラジオ日本をお聴きいただきありがとうございました。これで、本日の放送を終了いたします。ただいまからしばらくお休みをいただきまして、午前5時から放送を開始いたします」というアナウンスが流れる。
- その後、横浜本局、小田原放送局、FM補完中継局の局名告知と周波数・出力の案内が行われる。その後はカーメン・ドラゴン指揮、キャピトル・シンフォニー・オーケストラ演奏のウェールズ民謡「夜もすがら("All Through the night (Ar Hyd y Nos)")」[注 20] が流れ、放送を終えると直ちにテストトーンが流れる。
- 2020年3月9日まで
- 1:00に、井口保子の声で「こちらは JORF アール・エフ・ラジオ日本、JORL アール・エフ・ラジオ日本小田原放送局です。これで今日の放送を全て終了いたしました。ただいまからしばらくお休みをいただきまして、午前5時から放送を開始いたします。どちら様もごきげんよう」というアナウンスが流れる。
- その後、横浜本局、小田原放送局の局名告知と周波数・出力の案内が行われる。その後はカーメン・ドラゴン指揮、キャピトル・シンフォニー・オーケストラ演奏のウェールズ民謡「夜もすがら("All Through the night (Ar Hyd y Nos)")」[注 20] が流れ、放送を終えると直ちにテストトーンが流れる。
時報
[編集]- 時報はパイプオルガンのような音色の電子音で4秒前から「ソ・シ・ソ――ポーン」(“3, 2, 1”のカウントダウンではない)。
- 1989年(平成元年)頃までは「ソ・シ・ソ」の部分がチューブラーベルの演奏であった(文化放送の1979年(昭和54年)までの時報と同様)。
- 現在は、地方局と同じ音程の時報だが、「ポーン」と延ばさず「ポン」と鳴った瞬間に音が絞られる時報である。
- 他局と比べて時報広告は少なく、散発的に聞かれるのみである。時刻案内もまれに女性の声で「○時をお知らせします」とある程度で、多くはされない。
現職アナウンサー
[編集]- 正社員・契約ともに☆印はジャイアンツナイターを、★は競馬実況中継を担当しない。
- なお、箱根駅伝は宇野を除き基本全員出演する。
アナウンサー | 前所属 | 主たる担当番組 | 備考 | |
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正社員アナウンサー | ||||
男性 | 加藤裕介☆ | ラジオ福島 | 「加藤裕介の横浜ポップJ」 | |
小林幸明★ |
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細渕武揚 | 「ラジオ日本ジャイアンツナイター」 「ラジオ日本土・日曜競馬実況中継」 |
| ||
矢田雄二郎 | 岩手朝日テレビ |
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女性 | (2022年1月現在女性正社員アナウンサーは不在) | |||
嘱託社員・外部契約アナウンサー | ||||
男性 | 木村季康 | ラジオ福島 | 「ラジオ日本ジャイアンツナイター」 「ラジオ日本土・日曜競馬実況中継」 |
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齋藤一平 | ||||
宇野和男☆ | ラジオたんぱ | 「ラジオ日本土・日曜競馬実況中継」 |
| |
吉本靖☆ | ラジオたんぱ | |||
石黒新平★ | 広島ホームテレビ | 「ラジオ日本ジャイアンツナイター」 | ||
槇嶋範彦★ | 文化放送 | |||
堀江政史☆ | テレビ金沢 | 「ラジオ日本土・日曜競馬実況中継」 「ラジオ日本ニュース・天気予報」 |
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本田将一郎 | テレビユー山形 | 「ラジオ日本ニュース・天気予報」 | ||
柴崎啓志 | FM福井 | |||
上田敦史 | 熊本放送 | |||
竹内義貴 | 長崎国際テレビ | |||
女性 | 大村麻衣子☆ | 「ラジオ日本土・日曜競馬実況中継」 | ||
山田さつき☆ | 山陰放送 |
| ||
中嶋絵美 | テレビユー福島 | 「ラジオ日本ニュース・天気予報」 | ||
田島祐子 | テレビ新潟 | |||
磯部恵美 | 東海テレビ | |||
小沢尚美 | テレビ山梨 | |||
辻史子 | 高知さんさんテレビ | |||
大鋸友紀 | TBS |
| ||
松本美優 | NHK仙台放送局 | |||
半澤美穂 | ||||
河村由美 | エフエム新津 | 「新曲EXPRESS!」 「ラジオ日本演歌ランキング」 「ラジオ日本パワーチューン」 「今月の推薦曲」 「ウェイクアップミュージック」 「Listen to to too!」 「ドラマ・サントラアワー」 |
|
- その他、親会社・日本テレビホールディングス傘下の日本テレビ放送網所属アナウンサーが以下の番組を担当しているが、2022年1月現在、NTVからRFへの出向社員のアナウンサーは不在である。
- 井田由美(わたしの図書室朗読者)
- 杉野真実(小鳩の愛 〜eye〜パーソナリティー)
- それ以外も、週替わりで土曜日の日テレアナ・ザ・ワールド!を担当
元アナウンサー
[編集]男性
[編集]- 大野義和(退社後、tvk→FMヨコハマ、FMヨコハマでは後年取締役)
- 窪田康夫(1958年 - 不明、文化放送から移籍)
- 島碩弥(1958年 - 1995年、山陰放送から移籍)
- 木島章夫(1958年 - 不明、九州朝日放送から移籍)
- 永井敬二
- 加賀佑治
- 長崎節
- 大林晃(退社後東京アナウンスアカデミー校長)
- 林洋右(1980年 - 不明)
- 樋口忠正(1961年(昭和36年) - 1998年) 定年後も引き続き競馬中継に出演していたが、2008年6月1日日本ダービー実況をもって競馬実況から引退。以降競輪実況を2010年3月まで担当。)
- 田島喜男(不明 - 2003年、ラジオたんぱから移籍)
- 竹脇義果
- 内藤幸位(1962年 - 2000年)
- 早川建二(1964年 - 2002年)
- 橋本文雄(晴海埠頭への台風取材中に事故死)
- 浅木勝(1965年 - 2001年)
- 坂井隆夫(1965年 - 不明)
- 工藤健策(1965年 - 不明。ディレクターを経て退社後はスポーツライターとして活動)
- 山田透(1975年 - 1983年、ニッポン放送へ移籍、後フリー、2000年 - 2003年一時復帰)
- 武田肇(1975年 - 不明)
- 染谷恵二(1978年 - 2005年3月、フリー)
- 山本剛士(1984年 - 1990年代、ニッポン放送へ移籍)
- 仙田和吉(1992年 - 2001年、毎日放送へ移籍、2021年3月毎日放送退職。現在アナウンス活動は休止している)
- 浅見源司郎(1993年 - 不明、日本テレビより出向)
- 若林健治(1995年 - 1998年、2002年10月 - 2006年6月、日本テレビより出向、2007年12月・日本テレビ退職・フリー)
- 小倉淳(1998年 - 2000年、日本テレビより出向、2006年8月・日本テレビ退職・フリー)
- 山下末則(2007年 - 2008年、日本テレビより出向。営業職兼務。定年のため2008年3月で退社し、現在はスピーチコンサルティング会社経営)
- 吉田填一郎(2003年 - 、日本テレビより出向。2008年6月ラジオ日本営業局へ異動。のちに常務取締役営業局長。2011年退職)
- 佐藤一司(1998年 - 2010年、アナウンス職から異動)
- 今井伊左男(2008年 - 2011年、日本テレビより出向。常務取締役総務局長、編成局長を歴任。報道、ナレーションなどアナウンス業務も担当。現・日本テレビ小鳩文化事業団職員。同事業団提供『小鳩の愛』元MC)
- 瀧口俊介(2015年頃 - 2017年、石川テレビからフリーを経て当社に移籍。2017年12月退社。2018年1月の箱根駅伝中継を最後にアナウンサーとしての職を離れた)
- 内藤博之
女性
[編集]- 清水明江
- 安藤八重子(1958年 - 1990年)
- 森純子
- 青津ナナ子(1959年 - 1992年)
- 井口保子(1960年 - 1995年、日本初の競馬実況女性アナウンサー)
- 岡本美紀(1962年 - 不明)
- 石倉辰子(1964年 - 不明)
- 竹内満佐美(1964年 - 不明、大相撲力士・雅山の母、旧姓不明)
- 林紀子(元日本共産党参議院議員)
- 深澤美津子(1969年 - 1990年)
- 塚本美也子(→ 東京MXテレビ → フリー)
- 大島典子(1995年 - 1997年、日本テレビより出向、その後『午後は○○おもいッきりテレビ』プロデューサーを務めた)
- 山下美穂子(2003年 - 2005年3月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 延友陽子(2005年4月 - 2006年9月、日本テレビより出向、後に同局に復帰)
- 金丸幸代(ラジオたんぱ契約アナ → RFラジオ日本報道契約アナ → フリーアナウンサー)
- 神原智己(2007年4月 - 2008年10月)
- 坪内千恵子(ニュースアナは2009年12月まで、「ジャイアンツナイター」のナイターナビゲーターは継続)
- 草野真梨子(2010年4月迄、『中央競馬実況中継』のみ出演。元さくらんぼテレビ)
- 黒宮千香子(元山口朝日放送)
- 鈴木沙和子(2010年(平成22年)5月 - 、元福井放送)
- 井上綾夏( - 2021年9月、元新潟総合テレビ)
- 佐藤知美
- 田畑智佳子
- 吉見由香
- 倉林知子
アナウンサー以外の過去の在籍者
[編集]- 中村慶一郎(元報道部長・政治評論家)
- 南丘喜八郎(元報道部長、取締役論説委員長、『月刊日本』主幹で出版元のK&Kプレス社長)
- 品田英雄(現:『日経エンタテインメント』編集委員兼日経BPヒット総合研究所上席研究員)
- 岩田暁美(元読売ジャイアンツ担当記者・ディレクター)
その他
[編集]- 1958年(昭和33年)から1964年(昭和39年)まで、東急東横線の乗客向けに鉄道無線を使用して車内でニュースを放送していた。
- 1964年(昭和39年)の旧ラジオ関東時代から、2011年(平成23年)まで日本中央競馬会の重賞競走『セントライト記念』に社杯を寄贈していた。尚、2012年(平成24年)からはサラ系3歳以上のオープン特別競走「ラジオ日本賞」が新設され、社賞が寄贈されている。
- 1977年から1980年(昭和55年)代初頭まで、毎年夏休みに『夏だ!三浦だ!サマーフェスティバル』を、三浦海岸の特設会場で年度により京浜急行電鉄と共催していた。7月下旬-8月初旬の期間中は、アイドルや演歌歌手の歌謡ステージが日替わりで催され、その模様を月-金曜昼時に公開生中継していた。京浜急行電鉄は、品川発三浦海岸行臨時列車「ミュージックトレイン」(同局で同名の帯番組が存在)を運行した[注 21]。会場に向かう出演者が、ファンサービスとして、その臨時列車に同乗する場合もあった。
- 「ラジオ関東」から「アール・エフ・ラジオ日本」に社名を変更する際、「ラジオ日本誕生」という社名変更告知のテレビCMを日本テレビとTBSテレビで放送した。
- 産経新聞社発行の新聞各紙(産経新聞、サンケイスポーツ、夕刊フジ)の番組欄では、名称を「RFラジオ日本」としている。在京他紙と静岡新聞は「ラジオ日本」、中日新聞の長野県版と静岡県版は「ラジオ日本RF」と記載、中日新聞の東京本社版である東京新聞の静岡県版は「ラジオ日本」と記載している。新聞各紙の番組表に掲載されている問い合わせの電話番号は横浜本社ではなく、東京支社の番号である。
- BSデジタル放送「BS日テレ」のBS445chで、アール・エフ・ラジオ日本の一部番組の同時放送を行った。2005年(平成17年)9月30日付廃局扱い。かつてはテレホンサービスによる同時放送もあった。
- 2010年に、硬派なコンテンツの幅を広げるため、企業経営者をゲストに迎えるトーク番組『コーチングRadio』をコーチ・エィとのタイアップで放送した(3月1日から11月29日までの40回、毎週月曜日の23:30 - 24:00枠)。
- 2011年(平成23年)に旗揚げされた女子プロレス団体REINA女子プロレスの協賛スポンサーで、同団体が認定・管理する王座を「ラジオ日本杯REINA世界女子王座」としている。
- 結果として実現しなかったが、東京支社を日本テレビ麹町分室内に移転させる計画があった[35]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 現在のTBSホールディングスの前身となる、毎日新聞社が中心となって設立を目指していた「ラジオ日本」とは無関係である。
- ^ 1978年3月までは全国ラジオネットワーク(NRN)に加盟していた。
- ^ CRK・GBSともに、前述のNRNおよびジャパン・ラジオ・ネットワーク(JRN)には加盟していないが、近接の正加盟系列局が放送しない番組を番組販売購入したり、2016年よりプロ野球中継の対巨人戦をJRN各局と相互配信したりする事例があるなど、一定の取引関係はある。
- ^ 当時はFM民放が4大都市圏しかなかったため、エフエム東京(現愛称・TOKYO FM)ともネット協定を結んでいた
- ^ 東京ヴェルディに関しては、2009年(平成21年)の日本テレビ資本撤退以降もスポンサーを続けていたが、2014年度で撤退した。
- ^ 同時期、兵庫のラジオ関西も「ラジ関」と呼ばれた。
- ^ 「社会の木鐸」宣言以前は愛川欽也、榊原郁恵、三橋美智也らがDJを務める『電撃わいどウルトラ放送局』が話題となり、若年層向けの番組は他局にひけをとらない人気があった。演歌歌手の三橋は初DJでノリの良い意外な一面を見せ、「フィーバー・フィーバー」の掛け声がカップラーメン「激めん」(東洋水産)CMにも用いられ、“ミッチーブーム”を起こした。アイドル歌手として活動していた当時の酒井法子が30分番組のパーソナリティを務めていた。
- ^ 放送では「ラジオ日本」を単にアナウンスしているため、ニッポン放送やNHK国際放送と未だに混同しやすく、NHK国際放送は国際テレビ放送(NHKワールドTV他)が開始後の1996年以降は「NHKワールド」の冠を入れて放送している。前述の広告ではニッポン放送の社名変更と一部で勘違いされていた
- ^ 世の中を教導し、正す人。社会の指導者の意。多くは新聞記者を指した言葉である。コトバンクの解説。
- ^ radikoは初期には一都三県が対象で最終的に関東全域が対象
- ^ この影響で『林原めぐみのHeartful Station』が開始間もない1991年(平成3年)7月に突如打ち切りになった(制作局を同局と関係の深いラジオ関西に移行。ラジオ日本以外で番組を続行した。林原めぐみ『明日があるさ』学研、p58。ただし本文では局名は伏せられている)。
- ^ 山本剛士はその一人。
- ^ 特に「ラジオ日本NEXT」が22時台だった当時はノンスポンサー番組の為、プロ野球中継が1分でも食い込めば、その回は放送休止となり「フォーエバーミュージック」に差し替えた。
- ^ kc(キロサイクル)は現在のkHz(キロヘルツ)と同義。
- ^ 看板番組のプロ野球中継でも、一部の曜日で大阪の毎日放送 (MBS) とネットワークを組んでいた( - 1964年(昭和39年))。
- ^ 毎日新聞社は、1951年(昭和26年)に「ラジオ日本」なる名称で民間放送の開局を目指していたが、読売放送(読売新聞社系)、朝日放送(朝日新聞社系、大阪の朝日放送と同じ計画)、東京放送(電通系)の競願各社と行政指導で一本化され、「ラジオ東京」(後に東京放送、現在のTBSラジオ)として開局した。当然ながら計画頓挫したこの「ラジオ日本」と、現在のアール・エフ・ラジオ日本は別物。
- ^ 毎日新聞社系列のRKB毎日放送(福岡県)が、東京支社に設置したスタジオの有効利用と関東地区への進出を目的に、神奈川県域放送での免許出願に向けて動いていた。結局、現在のアール・エフ・ラジオ日本に繋がる他社との競願に破れる形となり、RKBは関東地区進出を果たせずに終わってしまった。
- ^ 民放のradiko参加局で放送局記号がコールサインそのままなのは本局とエフエム愛媛の「JOEU-FM」のみ。
- ^ 月-金曜深夜は「ラジオ日本NEXT」枠、土日深夜も女性アイドルが担当する番組を、それぞれ1時間ずつ放送。
- ^ a b この曲は前身の「ラジオ関東」開局当初から使われている。
- ^ 1975・1976年はニッポン放送が共催したため、臨時列車も当時の同局の周波数から「ハッピー1240」の名称で運行された。
出典
[編集]- ^ a b 株式会社アール・エフ・ラジオ日本 第76期決算公告
- ^ 基幹放送事業者の議決権保有状況等 地上系放送事業者 - 総務省電波利用ホームページ
- ^ “Members Directory 2019”. 日本民間放送連盟. 2021年6月4日閲覧。
- ^ “Group of Companies”. 日本テレビホールディングス. 2021年6月4日閲覧。
- ^ 日テレホールディングス グループ企業一覧
- ^ 東京地方裁判所判決 1990年8月31日 、昭和57(ワ)11358、『「ラジオ日本」対「ニッポン放送」事件』。 事件名は「判例時報 No.1358」判例時報社 1990年11月 より
- ^ a b 住彩子、石原真樹 (2023年5月21日). “どうなる?ラジオの未来 AMからFMへ統合、来年にも試行”. 東京新聞. 2023年6月1日閲覧。
- ^ 関東地域におけるラジオの強靱化 《民放ラジオ難聴解消支援事業の交付を決定 2019年(平成31年)2月6日、関東総合通信局
- ^ 株式会社アール・エフ・ラジオ日本のFM補完中継局に予備免許 -管内全ての民間AMラジオ放送局がFM整備へ
- ^ a b c d “FMラジオで聴く!”. アール・エフ・ラジオ日本. 2020年3月3日閲覧。
- ^ “西日本放送株式会社のFM補完中継局に免許≪AM放送の難聴を解消するための中継局を整備≫”. 四国総合通信局(2020年2月14日作成). 2020年3月13日閲覧。
- ^ “全国民放FM局・ワイドFM局一覧”. 総務省(2020年2月25日作成). 2020年3月13日閲覧。
- ^ “全国の民放AMラジオ、令和10年までにFM転換”. 産経新聞 (2021年6月15日). 2023年6月1日閲覧。
- ^ a b 野城千穂 (2021年6月15日). “民間AM局の大半、7年後までにFM化へ 対応端末必要”. 朝日新聞. 2023年6月1日閲覧。
- ^ 「QJ」63号、p125。
- ^ 「一段と露骨になったラジオ日本の番組改編 / 民放記者」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第169号、日本マスコミ市民会議、1982年5月1日、8 - 15頁、NDLJP:3463887/6。
- ^ 「放送デスクメモ――'82・二~三 / 編集部」『マスコミ市民 : ジャーナリストと市民を結ぶ情報誌』第173号、日本マスコミ市民会議、1982年10月1日、58 - 62頁、NDLJP:3463891/31。
- ^ 花輪如一「ラジオの教科書」データハウス、p290-299
- ^ ラジオ日本の64年、独自路線と波乱の連続 夏木ゆたか生放送で演歌と懐メロ流しまくり23年
- ^ NiTRoはラジオもやってます! 第2弾! アール・エフ・ラジオ日本の仕事 NiTRo|株式会社日テレ・テクニカル・リソーシズ
- ^ a b “ラジオ日本のワイドFM波はどこまで飛んでいるか”. ラジオライフ7月号 (三才ブックス): 118-121. (2020年6月25日).
- ^ a b 株式会社アール・エフ・ラジオ日本のFM補完中継局に予備免許 管内全ての民間AMラジオ放送局がFM整備へ 総務省 関東総合通信局 2019年6月26日 2020年3月23日閲覧
- ^ “総務省 電波利用ホームページ”. 総務省. 2021年5月7日閲覧。
- ^ 日本民間放送連盟『日本放送年鑑'78』洋文社、1978年12月、171頁。
- ^ 日本民間放送連盟『日本民間放送年鑑'92』コーケン出版、1992年11月、257頁。
- ^ 日本民間放送連盟『日本民間放送年鑑2003』コーケン出版、2003年11月、279頁。
- ^ 日本民間放送連盟『日本民間放送年鑑2015』コーケン出版、2015年11月20日、299頁。
- ^ 日本民間放送連盟『日本民間放送年鑑2016』コーケン出版、2016年11月25日、306頁。
- ^ 『民間放送十年史』(日本民間放送連盟・1961年12月1日発行)411頁第2部各社史録「ラジオ関東 年表」。
- ^ a b 日本放送協会(編)『放送の五十年 昭和とともに』(日本放送出版協会、1977年)p.338
- ^ 「取材の六人帰らず 晴海で車ごと海へ?」『日本経済新聞』昭和40年9月18日夕刊.7面
- ^ ラジオ日本 2012年10月改編 開局55周年プレ・イヤー 平日ワイドを一新 改編率43%、新番組が続々スタート!
- ^ ラジオ日本開局60周年を記念し、ロゴを刷新! ラジオ日本、2018年5月14日
- ^ 株式会社アール・エフ・ラジオ日本のFM補完中継局に予備免許 -管内全ての民間AMラジオ放送局がFM整備へ,総務省関東総合通信局,2019年6月26日
- ^ “ラジオ日本、東京・麹町に東京支社”. 毎日新聞 DIGITALトゥデイ. (2003年2月28日)
関連項目
[編集]- LuckyFM茨城放送 - 放送対象地域は県域ながらradikoでは関東全域を無料聴取エリアとする例。
- 東京タワー - 開局と同じ日に一般公開開始(東京支社から約300m東)
- 群馬テレビ - 当社と同様、経営者が番組内容への介入や局員の不当な人事異動でトラブルを発生させ、社長が解任されるに至った。
関連人物
[編集]- 遠山景久
- 大瀧詠一
- ミッキー安川
- マット安川 - ミッキー安川の実子
- 芥川隆行
- はかま満緒
- 鶴蒔靖夫
- 夏木ゆたか
- 宮川賢
- ハロー!プロジェクト
- ドクター中松 - 1990年代に、番組『頭のよくなるラジオ』を提供兼出演。
- 正力亨 - 巨人軍第2代オーナー。親会社の日本テレビ創設者の正力松太郎の長男で、日本テレビの非常勤取締役を務めた。