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{{年譜のみの経歴|date=2015年7月}} |
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{{政治家 |
{{政治家 |
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|人名 = 関屋 貞三郎 |
| 人名 = {{ruby|関屋 貞三郎|せきや ていざぶろう}} |
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|各国語表記 = |
| 各国語表記 = |
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|画像 = Teizaburo Sekiya.jpg |
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|画像説明 = 関屋 貞三郎 |
| 画像説明 = 関屋 貞三郎 |
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|国略称 = {{JPN}} |
| 国略称 = {{JPN}} |
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|生年月日 = {{生年月日と年齢|1875|5|4|no}} |
| 生年月日 = {{生年月日と年齢|1875|5|4|no}} |
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| 出生地 = [[栃木県]][[足利郡]][[御厨町]]<ref name="meikan">{{cite book |和書 |editor=[[下野新聞]] |date=1931-08-20 |title=野州名鑑 |publisher=下野新聞 |pages=1160-1161 }}</ref> |
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|出生地 = [[栃木県]] |
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|没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1875|5|4|1950|6|10}} |
| 没年月日 = {{死亡年月日と没年齢|1875|5|4|1950|6|10}} |
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|死没地 = |
| 死没地 = |
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|出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]] |
| 出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]] |
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| 所属政党 = |
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|前職 = |
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| 称号・勲章 = [[正二位]][[勲一等瑞宝章]] |
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|現職 = |
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| 親族(政治家) = [[木内孝胤]](曾孫)<br />[[関屋敏子]](従妹)<br />[[渡部信]](従弟)<br />[[長田銈太郎]](岳父) |
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|所属政党 = |
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| 配偶者 = |
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|称号・勲章 = |
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| 国旗 = JPN |
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|親族(政治家) = [[木内孝胤]](曾孫) |
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| 職名 = [[貴族院勅選議員]] |
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|配偶者 = |
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| 就任日 = 1933年12月5日 |
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|サイン = |
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| 退任日 = 1946年4月13日 |
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|ウェブサイト = |
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| 国旗2 = 静岡県 |
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|サイトタイトル = |
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| 職名2 = 官選 第17代 [[静岡県知事]] |
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|国旗 = JPN |
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| 就任日2 = 1919年8月20日 |
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|職名 = 静岡県知事(官選) |
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| 退任日2 = 1921年3月9日 |
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|当選回数 = |
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|就任日 = 1919年8月20日 |
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|退任日 = 1921年3月9日 |
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'''関屋 貞三郎'''(せきや ていざぶろう、[[1875年]] |
'''関屋 貞三郎'''(せきや ていざぶろう、[[1875年]]〈[[明治]]8年〉[[5月4日]] - [[1950年]]〈[[昭和]]25年〉[[6月10日]])は、[[日本]]の[[官僚]]・[[政治家]]。 |
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[[宮内次官]](第11代)、[[静岡県知事一覧|静岡県知事]](第17代)、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[日本銀行|日本銀行監事]]、[[朝鮮総督府学務局|朝鮮総督府学務局長]](初代)、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を歴任した。位階勲等は[[正二位]][[勲一等瑞宝章]]。 |
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== 年譜 == |
== 年譜 == |
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* 1899年(明治32年)7月10日[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日[[高等文官試験|文官高等試験]]合格。 |
* 1899年(明治32年)7月10日 - [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日[[高等文官試験|文官高等試験]]合格。 |
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* 1900年(明治33年)5月26日[[台湾総督府]]参事官。 |
* 1900年(明治33年)5月26日 - [[台湾総督府]]参事官。 |
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* 1902年(明治35年)1月10日兼[[大蔵省]]参事官 |
* 1902年(明治35年)1月10日 - 兼[[大蔵省]]参事官。 |
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* 1903年(明治36年)7月29日兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。 |
* 1903年(明治36年)7月29日 - 兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。 |
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* 1904年(明治37年)2月25日免兼官、兼[[台湾総督]]秘書官。 |
* 1904年(明治37年)2月25日 - 免兼官、兼[[台湾総督]]秘書官。 |
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* 1905年(明治38年)5月19日兼[[関東都督府|関東州]]民政署事務官 |
* 1905年(明治38年)5月19日 - 兼[[関東都督府|関東州]]民政署事務官。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。 |
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* 1906年(明治39年)9月1日[[関東都督府]]事務官兼関東都督府民政署長。 |
* 1906年(明治39年)9月1日 - [[関東都督府]]事務官兼関東都督府民政署長。 |
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* 1907年(明治40年 |
* 1907年(明治40年)10月9日 - 佐賀県事務官、内務部長。 |
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* 1908年(明治41年)6月12日鹿児島県事務官、内務部長。 |
* 1908年(明治41年)6月12日 - 鹿児島県事務官、内務部長。 |
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* 1910年(明治43年)10月1日[[朝鮮総督府]][[朝鮮総督府学務局|学務局長 |
* 1910年(明治43年)10月1日 - [[朝鮮総督府]][[朝鮮総督府学務局|学務局長]]。 |
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* 1917年(大正6年)10月8日 - 朝鮮総督府[[朝鮮総督府中枢院|中枢院]]書記官長兼朝鮮総督府学務局長。 |
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* 1911年(明治44年)6月28日叙[[勲四等]]授[[瑞宝章]]。 |
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* 1919年(大正8年)8月20日 - [[静岡県知事一覧|静岡県知事]]。 |
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* |
* 1921年(大正10年)3月9日 - [[宮内省|宮内次官]]。 |
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* 1933年(昭和8年)2月25日 - 依願免本官。12月5日[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。</ref>(勅選、昭和21年4月13日まで<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。</ref>)。 |
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* 1917年(大正6年)10月8日朝鮮総督府[[朝鮮総督府中枢院|中枢院]]書記官長兼朝鮮総督府学務局長。 |
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* |
* 1935年(昭和10年)2月 - [[日本銀行]]監事。 |
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* 1939年(昭和14年)6月 - [[中央協和会]]理事長。 |
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* 1946年(昭和21年)3月19日 - [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](昭和22年5月2日まで)。 |
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* |
* 1947年(昭和22年)5月2日 - 廃庁により退官。 |
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* 1950年(昭和25年)6月10日 - 死去。墓所は[[青山霊園]]。 |
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* 1933年(昭和8年)2月25日依願免本官。2月27日叙[[従二位]]。12月5日[[貴族院 (日本)|貴族院議員]](勅選、〜昭和21年4月13日)。 |
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== 栄典 == |
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* 1935年(昭和10年)2月[[日本銀行]]監事。 |
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; 位階 |
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* 1939年(昭和14年)6月[[中央協和会]]理事長。 |
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* 1902年(明治35年)12月24日 - 叙[[従六位]] |
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* [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref> |
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* 1947年(昭和22年)5月2日廃庁により退官。 |
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* |
* 1907年(明治40年)6月10日 - [[従五位]] |
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* [[1910年]](明治43年)[[12月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。</ref> |
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* 1916年(大正5年)3月31日 - [[従四位]] |
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* [[1921年]](大正10年)[[4月11日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第2606号「叙任及辞令」1921年4月12日。</ref> |
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* 1926年(大正15年)4月15日 - [[従三位]] |
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* 1931年(昭和6年)5月1日 - [[正三位]] |
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* [[1933年]](昭和8年)[[2月27日]] - [[従二位]]<ref>『官報』第1848号「叙任及辞令」1933年3月1日。</ref> |
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* [[1950年]](昭和25年)[[6月10日]] - [[正二位]] |
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; 勲章等 |
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* [[1906年]](明治39年)4月1日 - [[旭日章|勲五等双光旭日章]]<ref>『官報』第7159号・付録「叙任及辞令」1907年5月14日。</ref> |
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* 1911年(明治44年)6月28日 - [[勲四等]]授[[瑞宝章]] |
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* 1915年([[大正]]4年)9月29日 - [[勲三等]]授瑞宝章 |
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* 1922年(大正11年)9月28日 - [[勲二等]]授瑞宝章 |
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* 1926年(大正15年)10月28日 - [[勲一等]]授瑞宝章 |
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* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref> |
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== 家族 == |
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{{quotation| |
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{{chart/start|align=left}} |
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{{chart| | | | | | | | | | | | |季三郞|季三郞=寺山季三郞}} |
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{{chart| |,|-|-|-|v|-|-|-|+|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|v|-|-|-|.| }} |
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{{chart|正彦| |淑子| |友彦| |光彦| |由香| |健彦| |美恵|正彦=正彦|淑子=木内淑子|友彦=友彦|光彦=光彦|由香=奈良橋由香|健彦=健彦|美恵=平福美恵}} |
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{{chart/end}} |
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}} |
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== 家族・親族 == |
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* 関屋家は[[二本松藩]]藩医の家系で、[[関屋敏子]]は関屋のいとこである<ref>塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。</ref>。 |
* 関屋家は[[二本松藩]]藩医の家系で、[[関屋敏子]]は関屋のいとこである<ref>塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。</ref>。 |
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* 関屋敏子の外祖父は[[チャールズ・ルジャンドル]](外交官、米[[陸軍准将]])、伯父は[[市村羽左衛門 (15代目)|15代目市村羽左衛門]]、曽祖父は[[松平春嶽|松平春獄]]([[福井藩]]16代藩主)、すなわち高祖伯父は[[徳川家斉]]([[江戸幕府]]第11代将軍)である。 |
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* 三男・光彦の妻は[[世界平和アピール七人委員会]]委員・[[関屋綾子]]である。関屋家は明治時代の[[政治家]]・[[森有礼]]と姻戚関係にあるといえる(綾子は森の孫娘)。 |
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* 父親は関屋良純、母親はウタ(寺山季三郞二女)。母ウタの妹コトの子、即ち従弟に[[渡部信]]。 |
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* 長女・淑子は官僚・[[木内重四郎]]の長男で[[外交官]]の木内良胤に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。</ref>。関屋家は[[三菱財閥]]の創業者一族・[[岩崎家]]と縁続きにあるといえる(重四郎の妻、すなわち良胤の母・磯路は[[三菱グループ|三菱]]の創業者・[[岩崎弥太郎]]の次女<ref>佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。</ref><ref>神 『閨閥』 400頁。</ref>)。[[生活の党]]所属の元[[衆議院|衆議院議員]]・[[木内孝胤]]は木内良胤・淑子夫妻の孫であり貞三郎の曾孫にあたる。 |
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*妻のキヌ(衣子)は[[長田銈太郎]]の娘。[[日本聖公会]]聖アンデレ教会信徒。 |
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* 三女は外交官の奈良橋一郎に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。</ref>。作詞家・映画プロデューサーなどとして知られる[[奈良橋陽子]]は一郎の娘であり貞三郎の孫にあたる<ref>[http://www.emperor-movie.jp/message.html 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり]</ref>。 |
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* 長男・[[関屋正彦]](1904-1994)は教育者、[[聖職者]]、[[官僚]]。[[立教英国学院]]校長、[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]]教授、[[普連土学園]]校長、[[日本聖公会]]の聖職者を務めた<ref>{{Cite journal|和書|author=菅野賢治 |date=2019-06 |url=https://doi.org/10.50954/kyotojewishthought.10.0_6 |title=日本軍政下の上海にユダヤ絶滅計画は存在したか(続) : 實吉敏郎・海軍大佐の未公開文書より |journal=京都ユダヤ思想 |ISSN=2186-2273 |publisher=京都ユダヤ思想学会 |volume=10 |pages=6-35 |doi=10.50954/kyotojewishthought.10.0_6 |CRID=1390293865787146752 |ref=harv}}</ref>。 |
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* 二男・'''関屋友彦'''(1909年生)は東大法学部卒業後、[[横浜正金銀行]]上海支店、[[華北交通]]会社北京本社勤務、戦後は[[リーダーズダイジェスト]]日本支社など外資系企業に勤め、[[独協大学]]英語学部非常勤講師なども務めた。妻は[[大河内正倫]]の娘。父親や家族のことを書いた著書『使命感に燃えた三人の男 - 台湾統治・日露戦争講和・韓国併合・終戦秘史』『私の家族の選んだ道 激動の五十年 明治・大正・昭和』がある。 |
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* 三男・'''関屋光彦'''(1912年生)は教育者。[[京城]]で生まれ、一高、東京帝大文学部哲学科卒業後、同大学院に進んだが兵役と病気により満期退学、[[青山学院]]中学部教諭となり、以後[[東京女子高等師範学校]]、[[松本高等学校]]、[[津田塾大学]]、[[国際キリスト教大学]]、[[東海大学]]、[[東京女子大学]]で教えた<ref>{{Cite journal|和書|author=木幡瑞枝 |date=1978-09 |url=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/26371 |title=関屋光彦先生(定年退職教授紹介) |journal=東京女子大学紀要論集 |volume=29 |issue=1 |pages=213-214 |CRID=1050845762589749760}}</ref>。妻は[[森有礼]]の孫娘で[[世界平和アピール七人委員会]]委員・[[関屋綾子]]である。 |
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* 長女・淑子(1906年生)は官僚・[[木内重四郎]]の長男で[[外交官]]の木内良胤に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。</ref>。関屋家は木内家を通じて[[三菱財閥]]の創業者一族・[[岩崎家]]と縁続きにあるといえる(重四郎の妻、すなわち良胤の母・磯路は[[三菱グループ|三菱]]の創業者・[[岩崎弥太郎]]の次女<ref>佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。</ref><ref>神 『閨閥』 400頁。</ref>)。元[[衆議院|衆議院議員]]・[[木内孝胤]]は木内良胤・淑子夫妻の孫であり貞三郎の曾孫にあたる(孝胤の父・[[木内昭胤|昭胤]]は良胤・淑子夫妻の長男で貞三郎の孫)。 |
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* 三女の由香(1913年生)は外交官の奈良橋一郎に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。</ref>。作詞家・映画プロデューサーなどとして知られる[[奈良橋陽子]]は一郎の娘であり貞三郎の孫にあたる<ref>[http://www.emperor-movie.jp/message.html 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり]</ref>。 |
|||
* 四女・美恵は[[平福百穂]]の長男・一郎([[河北総合病院]]長、[[自衛隊中央病院]]長)の妻。 |
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* 姉・わかは法学博士・小林丑三郞の妻。 |
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* 妹・カツは[[大石正巳]]の長男・大石明徳の妻。 |
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== 演じた人 == |
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* [[夏八木勲]] - 孫の奈良橋陽子が企画した映画『[[終戦のエンペラー]]』で貞三郎を演じた。 |
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* [[佐藤朝泰]] 『門閥 <small>旧華族階層の復権</small>』 [[立風書房]] [[1987年]](昭和62年)[[4月10日]]第1刷発行 ISBN 4-651-70032-2 |
|||
* 『昭和人名事典 第1巻』1987年(昭和62年)[[10月5日]]初版発行、[[日本図書センター]]、ISBN 4-8205-0693-5 |
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* [[神一行]] 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 [[講談社]]([[講談社文庫]]) [[1993年]]([[平成]]5年)10月第1刷発行 ISBN 4-06-185562X |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
{{脚注ヘルプ}} |
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{{Reflist}} |
{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
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* 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、[[貴族院 (日本)|貴族院]]事務局、1947年。 |
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* [[佐藤朝泰]] 『門閥 <small>旧華族階層の復権</small>』 [[立風書房]] 1987年(昭和62年)4月 ISBN 4-651-70032-2 |
|||
* 『昭和人名事典 第1巻』1987年(昭和62年)10月、[[日本図書センター]]、ISBN 4-8205-0693-5 |
|||
* [[神一行]] 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 [[講談社文庫]] 1993年([[平成]]5年)10月 ISBN 4-06-185562X |
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===関連文献=== |
|||
* 『関屋貞三郎日記』 [[茶谷誠一]]編、[[国書刊行会]](全4巻)、2018年(平成30年)-。22年分の日記を翻刻校訂 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420163432973& 関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター) |
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420163432973& 関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター) |
||
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420180534176& 枢密院文書・昭和二十一年勅令第百九号第七条ニ依ル調査表(公職追放関係)・関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター) |
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420180534176& 枢密院文書・昭和二十一年勅令第百九号第七条ニ依ル調査表(公職追放関係)・関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター) |
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* [ |
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/sekiyateizaburou 関屋貞三郎関係文書](国立国会図書館 憲政資料室) |
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{{S-start}} |
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{{S-off}} |
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{{静岡県知事|官選第17代:1919-1921}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = {{Flagicon|JPN}} [[事務次官等の一覧#宮内庁長官|宮内次官]] |
|||
| years = 1921年 - 1933年 |
|||
| before = [[石原健三]] |
|||
| after = [[大谷正男]] |
|||
}} |
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{{Succession box |
|||
| title = {{Flagicon|JPN}} [[内蔵寮#歴代内蔵頭|内蔵頭事務取扱]] |
|||
| years = 1924年 |
|||
| before = [[山崎四男六]] |
|||
| beforenote = 内蔵頭 |
|||
| after = [[入江貫一]] |
|||
| afternote = 内蔵頭 |
|||
}}] |
|||
{{Succession box |
|||
| title = {{flagicon|JPN}} [[諸陵寮|諸陵]]頭事務取扱 |
|||
| years = 1923年 |
|||
| before = [[仙石政敬]] |
|||
| beforenote = 諸陵頭 |
|||
| after = [[杉栄三郎]] |
|||
}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = {{flagicon|JPN}} [[朝鮮総督府学務局#歴代局長|朝鮮総督府学務局長]] |
|||
| years = 1910年 - 1919年 |
|||
| before = ''(新設)'' |
|||
| after = [[柴田善三郎]] |
|||
}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = {{flagicon|JPN}} [[朝鮮総督府中枢院#書記官長|朝鮮総督府中枢院書記官長]] |
|||
| years = 1917年 - 1919年 |
|||
| before = [[秋山雅之介]] |
|||
| beforenote = 書記官長事務取扱 |
|||
| after = [[大塚常三郎]] |
|||
}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = {{Flagicon|JPN}} [[関東都督府]]大連民政署長 |
|||
| years = 1906年 - 1907年 |
|||
| before = ''(新設)'' |
|||
| after = [[吉田嘉一郎]] |
|||
| afternote = 署長事務取扱 |
|||
}} |
|||
{{S-other}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = [[母子愛育会|恩賜財団母子愛育会]]会長 |
|||
| years = 1947年 - 1950年 |
|||
| before = [[島津忠重]] |
|||
| beforenote = 恩賜財団大日本母子愛育会会長 |
|||
| after = [[一万田尚登]] |
|||
}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = [[日本学術振興会]]理事長 |
|||
| years = 1949年 - 1950年 |
|||
| before = [[田中芳雄]] |
|||
| after = [[山崎匡輔]] |
|||
}} |
|||
{{Succession box |
|||
| title = [[母子愛育会|恩賜財団母子愛育会]]理事長 |
|||
| years = 1946年 - 1947年<br />''恩賜財団大日本母子愛育会理事長<br />1943年 - 1946年<br />恩賜財団愛育会理事長<br />1934年 - 1943年'' |
|||
| before = ''(新設)'' |
|||
| after = [[新居善太郎]] |
|||
}} |
|||
{{S-end}} |
|||
{{静岡県知事|官選第17代:1919年 - 1921年}} |
|||
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2024年4月14日 (日) 23:47時点における最新版
伝記の記載を年譜形式のみとすることは推奨されていません。 |
関屋 貞三郎 | |
生年月日 | 1875年5月4日 |
出生地 | 栃木県足利郡御厨町[1] |
没年月日 | 1950年6月10日(75歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
称号 | 正二位勲一等瑞宝章 |
親族 |
木内孝胤(曾孫) 関屋敏子(従妹) 渡部信(従弟) 長田銈太郎(岳父) |
在任期間 | 1933年12月5日 - 1946年4月13日 |
官選 第17代 静岡県知事 | |
在任期間 | 1919年8月20日 - 1921年3月9日 |
関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年〈明治8年〉5月4日 - 1950年〈昭和25年〉6月10日)は、日本の官僚・政治家。
宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員、日本銀行監事、朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章。
年譜
[編集]- 1899年(明治32年)7月10日 - 東京帝国大学法科大学卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日文官高等試験合格。
- 1900年(明治33年)5月26日 - 台湾総督府参事官。
- 1902年(明治35年)1月10日 - 兼大蔵省参事官。
- 1903年(明治36年)7月29日 - 兼内務大臣秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。
- 1904年(明治37年)2月25日 - 免兼官、兼台湾総督秘書官。
- 1905年(明治38年)5月19日 - 兼関東州民政署事務官。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。
- 1906年(明治39年)9月1日 - 関東都督府事務官兼関東都督府民政署長。
- 1907年(明治40年)10月9日 - 佐賀県事務官、内務部長。
- 1908年(明治41年)6月12日 - 鹿児島県事務官、内務部長。
- 1910年(明治43年)10月1日 - 朝鮮総督府学務局長。
- 1917年(大正6年)10月8日 - 朝鮮総督府中枢院書記官長兼朝鮮総督府学務局長。
- 1919年(大正8年)8月20日 - 静岡県知事。
- 1921年(大正10年)3月9日 - 宮内次官。
- 1933年(昭和8年)2月25日 - 依願免本官。12月5日貴族院議員[2](勅選、昭和21年4月13日まで[3])。
- 1935年(昭和10年)2月 - 日本銀行監事。
- 1939年(昭和14年)6月 - 中央協和会理事長。
- 1946年(昭和21年)3月19日 - 枢密顧問官(昭和22年5月2日まで)。
- 1947年(昭和22年)5月2日 - 廃庁により退官。
- 1950年(昭和25年)6月10日 - 死去。墓所は青山霊園。
栄典
[編集]- 位階
- 1902年(明治35年)12月24日 - 叙従六位
- 1905年(明治38年)5月30日 - 正六位[4]
- 1907年(明治40年)6月10日 - 従五位
- 1910年(明治43年)12月20日 - 正五位[5]
- 1916年(大正5年)3月31日 - 従四位
- 1921年(大正10年)4月11日 - 正四位[6]
- 1926年(大正15年)4月15日 - 従三位
- 1931年(昭和6年)5月1日 - 正三位
- 1933年(昭和8年)2月27日 - 従二位[7]
- 1950年(昭和25年)6月10日 - 正二位
- 勲章等
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲五等双光旭日章[8]
- 1911年(明治44年)6月28日 - 勲四等授瑞宝章
- 1915年(大正4年)9月29日 - 勲三等授瑞宝章
- 1922年(大正11年)9月28日 - 勲二等授瑞宝章
- 1926年(大正15年)10月28日 - 勲一等授瑞宝章
- 1930年(昭和5年)12月5日 - 帝都復興記念章[9]
家族
[編集]- 関屋家は二本松藩藩医の家系で、関屋敏子は関屋のいとこである[10]。
- 関屋敏子の外祖父はチャールズ・ルジャンドル(外交官、米陸軍准将)、伯父は15代目市村羽左衛門、曽祖父は松平春獄(福井藩16代藩主)、すなわち高祖伯父は徳川家斉(江戸幕府第11代将軍)である。
- 父親は関屋良純、母親はウタ(寺山季三郞二女)。母ウタの妹コトの子、即ち従弟に渡部信。
- 妻のキヌ(衣子)は長田銈太郎の娘。日本聖公会聖アンデレ教会信徒。
- 長男・関屋正彦(1904-1994)は教育者、聖職者、官僚。立教英国学院校長、聖ヨハネ大学教授、普連土学園校長、日本聖公会の聖職者を務めた[11]。
- 二男・関屋友彦(1909年生)は東大法学部卒業後、横浜正金銀行上海支店、華北交通会社北京本社勤務、戦後はリーダーズダイジェスト日本支社など外資系企業に勤め、独協大学英語学部非常勤講師なども務めた。妻は大河内正倫の娘。父親や家族のことを書いた著書『使命感に燃えた三人の男 - 台湾統治・日露戦争講和・韓国併合・終戦秘史』『私の家族の選んだ道 激動の五十年 明治・大正・昭和』がある。
- 三男・関屋光彦(1912年生)は教育者。京城で生まれ、一高、東京帝大文学部哲学科卒業後、同大学院に進んだが兵役と病気により満期退学、青山学院中学部教諭となり、以後東京女子高等師範学校、松本高等学校、津田塾大学、国際キリスト教大学、東海大学、東京女子大学で教えた[12]。妻は森有礼の孫娘で世界平和アピール七人委員会委員・関屋綾子である。
- 長女・淑子(1906年生)は官僚・木内重四郎の長男で外交官の木内良胤に嫁いでいる[13]。関屋家は木内家を通じて三菱財閥の創業者一族・岩崎家と縁続きにあるといえる(重四郎の妻、すなわち良胤の母・磯路は三菱の創業者・岩崎弥太郎の次女[14][15])。元衆議院議員・木内孝胤は木内良胤・淑子夫妻の孫であり貞三郎の曾孫にあたる(孝胤の父・昭胤は良胤・淑子夫妻の長男で貞三郎の孫)。
- 三女の由香(1913年生)は外交官の奈良橋一郎に嫁いでいる[16]。作詞家・映画プロデューサーなどとして知られる奈良橋陽子は一郎の娘であり貞三郎の孫にあたる[17]。
- 四女・美恵は平福百穂の長男・一郎(河北総合病院長、自衛隊中央病院長)の妻。
- 姉・わかは法学博士・小林丑三郞の妻。
- 妹・カツは大石正巳の長男・大石明徳の妻。
演じた人
[編集]脚注
[編集]- ^ 下野新聞 編『野州名鑑』下野新聞、1931年8月20日、1160-1161頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。
- ^ 『官報』第2606号「叙任及辞令」1921年4月12日。
- ^ 『官報』第1848号「叙任及辞令」1933年3月1日。
- ^ 『官報』第7159号・付録「叙任及辞令」1907年5月14日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。
- ^ 菅野賢治「日本軍政下の上海にユダヤ絶滅計画は存在したか(続) : 實吉敏郎・海軍大佐の未公開文書より」『京都ユダヤ思想』第10巻、京都ユダヤ思想学会、2019年6月、6-35頁、CRID 1390293865787146752、doi:10.50954/kyotojewishthought.10.0_6、ISSN 2186-2273。
- ^ 木幡瑞枝「関屋光彦先生(定年退職教授紹介)」『東京女子大学紀要論集』第29巻第1号、1978年9月、213-214頁、CRID 1050845762589749760。
- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。
- ^ 佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。
- ^ 神 『閨閥』 400頁。
- ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。
- ^ 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房 1987年(昭和62年)4月 ISBN 4-651-70032-2
- 『昭和人名事典 第1巻』1987年(昭和62年)10月、日本図書センター、ISBN 4-8205-0693-5
- 神一行 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 講談社文庫 1993年(平成5年)10月 ISBN 4-06-185562X
関連文献
[編集]外部リンク
[編集]- 関屋貞三郎(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- 枢密院文書・昭和二十一年勅令第百九号第七条ニ依ル調査表(公職追放関係)・関屋貞三郎(国立公文書館 アジア歴史資料センター)
- 関屋貞三郎関係文書(国立国会図書館 憲政資料室)
公職 | ||
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先代 石原健三 |
宮内次官 1921年 - 1933年 |
次代 大谷正男 |
先代 山崎四男六 内蔵頭 |
内蔵頭事務取扱 1924年 |
次代 入江貫一 内蔵頭 |
先代 仙石政敬 諸陵頭 |
諸陵頭事務取扱 1923年 |
次代 杉栄三郎 |
先代 (新設) |
朝鮮総督府学務局長 1910年 - 1919年 |
次代 柴田善三郎 |
先代 秋山雅之介 書記官長事務取扱 |
朝鮮総督府中枢院書記官長 1917年 - 1919年 |
次代 大塚常三郎 |
先代 (新設) |
関東都督府大連民政署長 1906年 - 1907年 |
次代 吉田嘉一郎 署長事務取扱 |
その他の役職 | ||
先代 島津忠重 恩賜財団大日本母子愛育会会長 |
恩賜財団母子愛育会会長 1947年 - 1950年 |
次代 一万田尚登 |
先代 田中芳雄 |
日本学術振興会理事長 1949年 - 1950年 |
次代 山崎匡輔 |
先代 (新設) |
恩賜財団母子愛育会理事長 1946年 - 1947年 恩賜財団大日本母子愛育会理事長 1943年 - 1946年 恩賜財団愛育会理事長 1934年 - 1943年 |
次代 新居善太郎 |