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|出身校 = [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]
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| 親族(政治家) = [[木内孝胤]](曾孫)<br />[[関屋敏子]](従妹)<br />[[渡部信]](従弟)<br />[[長田銈太郎]](岳父)
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| 職名2 = 官選 第17代 [[静岡県知事]]
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'''関屋 貞三郎'''(せきや ていざぶろう、[[1875年]][[明治]]8年[[5月4日]] - [[1950年]][[昭和]]25年[[6月10日]])は、[[日本]]の[[官僚]][[宮内省|宮内]]次官、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[枢密顧問官]]等を歴任した。[[栃木県]]出身
'''関屋 貞三郎'''(せきや ていざぶろう、[[1875年]][[明治]]8年[[5月4日]] - [[1950年]][[昭和]]25年[[6月10日]])は、[[日本]]の[[官僚]][[政治家]]。

[[宮内次官]](第11代)、[[静岡県知事一覧|静岡県知事]](第17代)、[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]、[[日本銀行|日本銀行監事]]、[[朝鮮総督府学務局|朝鮮総督府学務局長]](初代)、[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]を歴任した。位階勲等は[[正二位]][[勲一等瑞宝章]]。


== 年譜 ==
== 年譜 ==
* 1899年(明治32年)7月10日[[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日[[高等文官試験|文官高等試験]]合格。
* 1899年(明治32年)7月10日 - [[東京大学大学院法学政治学研究科・法学部|東京帝国大学法科大学]]卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日[[高等文官試験|文官高等試験]]合格。
* 1900年(明治33年)5月26日[[台湾総督府]]参事官。
* 1900年(明治33年)5月26日 - [[台湾総督府]]参事官。
* 1902年(明治35年)1月10日兼[[大蔵省]]参事官。12月24日叙[[従六位]]
* 1902年(明治35年)1月10日 - 兼[[大蔵省]]参事官。
* 1903年(明治36年)7月29日兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。
* 1903年(明治36年)7月29日 - 兼[[内務大臣 (日本)|内務大臣]]秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。
* 1904年(明治37年)2月25日免兼官、兼[[台湾総督]]秘書官。
* 1904年(明治37年)2月25日 - 免兼官、兼[[台湾総督]]秘書官。
* 1905年(明治38年)5月19日兼[[関東都督府|関東州]]民政署事務官。5月30日叙[[正六位]]。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。
* 1905年(明治38年)5月19日 - 兼[[関東都督府|関東州]]民政署事務官。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。
* 1906年(明治39年)9月1日[[関東都督府]]事務官兼関東都督府民政署長。
* 1906年(明治39年)9月1日 - [[関東都督府]]事務官兼関東都督府民政署長。
* 1907年(明治40年)6月10日叙[[従五位]]。10月9日佐賀県事務官、内務部長。
* 1907年(明治40年)10月9日 - 佐賀県事務官、内務部長。
* 1908年(明治41年)6月12日鹿児島県事務官、内務部長。
* 1908年(明治41年)6月12日 - 鹿児島県事務官、内務部長。
* 1910年(明治43年)10月1日[[朝鮮総督府]][[朝鮮総督府学務局|学務局長]]。12月20日叙[[正五位]]。
* 1910年(明治43年)10月1日 - [[朝鮮総督府]][[朝鮮総督府学務局|学務局長]]。
* 1917年(大正6年)10月8日 - 朝鮮総督府[[朝鮮総督府中枢院|中枢院]]書記官長兼朝鮮総督府学務局長。
* 1911年(明治44年)6月28日叙[[勲四等]]授[[瑞宝章]]。
* 1915年([[大正]]4)929[[勲三等]]授瑞宝章
* 1919年(大正8)820 - [[静岡県知事一覧|静岡県知事]]。
* 1916年(大正5年)3月31[[従四位]]。
* 1921年(大正10年)3月9 - [[宮内省|宮内次官]]。
* 1933年(昭和8年)2月25日 - 依願免本官。12月5日[[貴族院 (日本)|貴族院議員]]<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。</ref>(勅選、昭和21年4月13日まで<ref>『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。</ref>)。
* 1917年(大正6年)10月8日朝鮮総督府[[朝鮮総督府中枢院|中枢院]]書記官長兼朝鮮総督府学務局長。
* 1919年(大正8)820日[[静岡県知事一覧|静岡県知事]]。
* 1935年(昭和10)2 - [[日本銀行]]監事
* 1921年(大正10)39日[[宮内省|宮内次官]]。4月11日叙[[正四位]]。
* 1939年(昭和14)6 - [[中央協和会]]理事長
* 1922年(大正11)928[[勲二等]]授瑞宝章
* 1946年(昭和21)319 - [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]](昭和22年5月2日まで)
* 1926年(大正15)415叙従三位。10月28日叙[[勲一等]]授瑞宝章
* 1947年(昭和22)52 - 廃庁により退官
* 1931年(昭和6)51叙正三位
* 1950年(昭和25)610 - 死去。墓所は[[青山霊園]]

* 1933年(昭和8年)2月25日依願免本官。2月27日叙[[従二位]]。12月5日[[貴族院 (日本)|貴族院議員]](勅選、〜昭和21年4月13日)。
== 栄典 ==
* 1935年(昭和10年)2月[[日本銀行]]監事。
; 位階
* 1939年(昭和14年)6月[[中央協和会]]理事長。
* 1946年(昭和21)319日[[枢密顧問官]](〜昭和22年5月2日)。
* 1902年(明治35)1224 - 叙[[従六位]]
* [[1905年]](明治38年)[[5月30日]] - [[正六位]]<ref>『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。</ref>
* 1947年(昭和22年)5月2日廃庁により退官。
* 1950年(昭和25年)6月10日死去。
* 1907年(明治40年)6月10日 - [[従五位]]
* [[1910年]](明治43年)[[12月20日]] - [[正五位]]<ref>『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。</ref>
* 1916年(大正5年)3月31日 - [[従四位]]
* [[1921年]](大正10年)[[4月11日]] - [[正四位]]<ref>『官報』第2606号「叙任及辞令」1921年4月12日。</ref>
* 1926年(大正15年)4月15日 - [[従三位]]
* 1931年(昭和6年)5月1日 - [[正三位]]
* [[1933年]](昭和8年)[[2月27日]] - [[従二位]]<ref>『官報』第1848号「叙任及辞令」1933年3月1日。</ref>
* [[1950年]](昭和25年)[[6月10日]] - [[正二位]]

; 勲章等
* [[1906年]](明治39年)4月1日 - [[旭日章|勲五等双光旭日章]]<ref>『官報』第7159号・付録「叙任及辞令」1907年5月14日。</ref>
* 1911年(明治44年)6月28日 - [[勲四等]]授[[瑞宝章]]
* 1915年([[大正]]4年)9月29日 - [[勲三等]]授瑞宝章
* 1922年(大正11年)9月28日 - [[勲二等]]授瑞宝章
* 1926年(大正15年)10月28日 - [[勲一等]]授瑞宝章
* [[1930年]](昭和5年)[[12月5日]] - [[記念章#賞勲局所管の記念章|帝都復興記念章]]<ref>『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。</ref>

== 家族 ==
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}}


== 家族・親族 ==
* 関屋家は[[二本松藩]]藩医の家系で、[[関屋敏子]]は関屋のいとこである<ref>塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。</ref>。
* 関屋家は[[二本松藩]]藩医の家系で、[[関屋敏子]]は関屋のいとこである<ref>塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。</ref>。
* 関屋敏子の外祖父は[[チャールズ・ルジャンドル]](外交官、米[[陸軍准将]])、伯父は[[市村羽左衛門 (15代目)|15代目市村羽左衛門]]、曽祖父は[[松平春嶽|松平春獄]]([[福井藩]]16代藩主)、すなわち高祖伯父は[[徳川家斉]]([[江戸幕府]]第11代将軍)である。
* 三男・光彦の妻は[[世界平和アピール七人委員会]]委員・[[関屋綾子]]である。関屋家は明治時代の[[政治家]]・[[森有礼]]と姻戚関係にあるといえる(綾子は森の孫娘)。
* 父親は関屋良純、母親はウタ(寺山季三郞二女)。母ウタの妹コトの子、即ち従弟に[[渡部信]]。
* 長女・淑子は官僚・[[木内重四郎]]の長男で[[外交官]]の木内良胤に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。</ref>。関屋家は[[三菱財閥]]の創業者一族・[[岩崎家]]と縁続きにあるといえる(重四郎の妻、すなわち良胤の母・磯路は[[三菱グループ|三菱]]の創業者・[[岩崎弥太郎]]の次女<ref>佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。</ref><ref>神 『閨閥』 400頁。</ref>)。[[生活の党]]所属の元[[衆議院|衆議院議員]]・[[木内孝胤]]は木内良胤・淑子夫妻の孫であり貞三郎の曾孫にあたる。
*妻のキヌ(衣子)は[[長田銈太郎]]の娘。[[日本聖公会]]聖アンデレ教会信徒。
* 三女は外交官の奈良橋一郎に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。</ref>。作詞家・映画プロデューサーなどとして知られる[[奈良橋陽子]]は一郎の娘であり貞三郎の孫にあたる<ref>[http://www.emperor-movie.jp/message.html 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり]</ref>。
* 長男・[[関屋正彦]](1904-1994)は教育者、[[聖職者]]、[[官僚]]。[[立教英国学院]]校長、[[聖ヨハネ大学 (上海)|聖ヨハネ大学]]教授、[[普連土学園]]校長、[[日本聖公会]]の聖職者を務めた<ref>{{Cite journal|和書|author=菅野賢治 |date=2019-06 |url=https://doi.org/10.50954/kyotojewishthought.10.0_6 |title=日本軍政下の上海にユダヤ絶滅計画は存在したか(続) : 實吉敏郎・海軍大佐の未公開文書より |journal=京都ユダヤ思想 |ISSN=2186-2273 |publisher=京都ユダヤ思想学会 |volume=10 |pages=6-35 |doi=10.50954/kyotojewishthought.10.0_6 |CRID=1390293865787146752 |ref=harv}}</ref>。
* 二男・'''関屋友彦'''(1909年生)は東大法学部卒業後、[[横浜正金銀行]]上海支店、[[華北交通]]会社北京本社勤務、戦後は[[リーダーズダイジェスト]]日本支社など外資系企業に勤め、[[独協大学]]英語学部非常勤講師なども務めた。妻は[[大河内正倫]]の娘。父親や家族のことを書いた著書『使命感に燃えた三人の男 - 台湾統治・日露戦争講和・韓国併合・終戦秘史』『私の家族の選んだ道 激動の五十年 明治・大正・昭和』がある。
* 三男・'''関屋光彦'''(1912年生)は教育者。[[京城]]で生まれ、一高、東京帝大文学部哲学科卒業後、同大学院に進んだが兵役と病気により満期退学、[[青山学院]]中学部教諭となり、以後[[東京女子高等師範学校]]、[[松本高等学校]]、[[津田塾大学]]、[[国際キリスト教大学]]、[[東海大学]]、[[東京女子大学]]で教えた<ref>{{Cite journal|和書|author=木幡瑞枝 |date=1978-09 |url=https://twcu.repo.nii.ac.jp/records/26371 |title=関屋光彦先生(定年退職教授紹介) |journal=東京女子大学紀要論集 |volume=29 |issue=1 |pages=213-214 |CRID=1050845762589749760}}</ref>。妻は[[森有礼]]の孫娘で[[世界平和アピール七人委員会]]委員・[[関屋綾子]]である。
* 長女・淑子(1906年生)は官僚・[[木内重四郎]]の長男で[[外交官]]の木内良胤に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。</ref>。関屋家は木内家を通じて[[三菱財閥]]の創業者一族・[[岩崎家]]と縁続きにあるといえる(重四郎の妻、すなわち良胤の母・磯路は[[三菱グループ|三菱]]の創業者・[[岩崎弥太郎]]の次女<ref>佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。</ref><ref>神 『閨閥』 400頁。</ref>)。元[[衆議院|衆議院議員]]・[[木内孝胤]]は木内良胤・淑子夫妻の孫であり貞三郎の曾孫にあたる(孝胤の父・[[木内昭胤|昭胤]]は良胤・淑子夫妻の長男で貞三郎の孫)。
* 三女の由香(1913年生)は外交官の奈良橋一郎に嫁いでいる<ref>『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。</ref>。作詞家・映画プロデューサーなどとして知られる[[奈良橋陽子]]は一郎の娘であり貞三郎の孫にあたる<ref>[http://www.emperor-movie.jp/message.html 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり]</ref>。
* 四女・美恵は[[平福百穂]]の長男・一郎([[河北総合病院]]長、[[自衛隊中央病院]]長)の妻。
* 姉・わかは法学博士・小林丑三郞の妻。
* 妹・カツは[[大石正巳]]の長男・大石明徳の妻。


== 参考文献 ==
== 演じた人 ==
* [[夏八木勲]] - 孫の奈良橋陽子が企画した映画『[[終戦のエンペラー]]』で貞三郎を演じた。
* [[佐藤朝泰]] 『門閥 <small>旧華族階層の復権</small>』 [[立風書房]] [[1987年]](昭和62年)[[4月10日]]第1刷発行 ISBN 4-651-70032-2
* 『昭和人名事典 第1巻』1987年(昭和62年)[[10月5日]]初版発行、[[日本図書センター]]、ISBN 4-8205-0693-5
* [[神一行]] 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 [[講談社]]([[講談社文庫]]) [[1993年]]([[平成]]5年)10月第1刷発行 ISBN 4-06-185562X


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist}}
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== 参考文献 ==
* 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、[[貴族院 (日本)|貴族院]]事務局、1947年。
* [[佐藤朝泰]] 『門閥 <small>旧華族階層の復権</small>』 [[立風書房]] 1987年(昭和62年)4月 ISBN 4-651-70032-2
* 『昭和人名事典 第1巻』1987年(昭和62年)10月、[[日本図書センター]]、ISBN 4-8205-0693-5
* [[神一行]] 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 [[講談社文庫]] 1993年([[平成]]5年)10月 ISBN 4-06-185562X

===関連文献===
* 『関屋貞三郎日記』 [[茶谷誠一]]編、[[国書刊行会]](全4巻)、2018年(平成30年)-。22年分の日記を翻刻校訂


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420163432973& 関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター)
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420163432973& 関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター)
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420180534176& 枢密院文書・昭和二十一年勅令第百九号第七条ニ依ル調査表(公職追放関係)・関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター)
* [http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/listPhoto?IS_STYLE=default&ID=M2006090420180534176& 枢密院文書・昭和二十一年勅令第百九号第七条ニ依ル調査表(公職追放関係)・関屋貞三郎](国立公文書館 アジア歴史資料センター)
* [http://www.ndl.go.jp/jp/data/kensei_shiryo/kensei/sekiyateizaburou.html 関屋貞三郎関係文書](国立国会図書館 憲政資料室)
* [https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/kensei/sekiyateizaburou 関屋貞三郎関係文書](国立国会図書館 憲政資料室)


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{{静岡県知事|官選第17代:1919-1921}}
{{Succession box
| title = {{Flagicon|JPN}} [[事務次官等の一覧#宮内庁長官|宮内次官]]
| years = 1921年 - 1933年
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{{Succession box
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{{Succession box
| title = [[母子愛育会|恩賜財団母子愛育会]]理事長
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2024年4月14日 (日) 23:47時点における最新版

関屋 貞三郎せきや ていざぶろう
関屋 貞三郎
生年月日 (1875-05-04) 1875年5月4日
出生地 栃木県足利郡御厨町[1]
没年月日 (1950-06-10) 1950年6月10日(75歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学
称号 正二位勲一等瑞宝章
親族 木内孝胤(曾孫)
関屋敏子(従妹)
渡部信(従弟)
長田銈太郎(岳父)

在任期間 1933年12月5日 - 1946年4月13日

静岡県の旗 官選 第17代 静岡県知事
在任期間 1919年8月20日 - 1921年3月9日
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関屋 貞三郎(せきや ていざぶろう、1875年明治8年〉5月4日 - 1950年昭和25年〉6月10日)は、日本官僚政治家

宮内次官(第11代)、静岡県知事(第17代)、貴族院議員日本銀行監事朝鮮総督府学務局長(初代)、枢密顧問官を歴任した。位階勲等は正二位勲一等瑞宝章

年譜

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  • 1899年(明治32年)7月10日 - 東京帝国大学法科大学卒業。7月15日内務属、地方課勤務。11月20日文官高等試験合格。
  • 1900年(明治33年)5月26日 - 台湾総督府参事官。
  • 1902年(明治35年)1月10日 - 兼大蔵省参事官。
  • 1903年(明治36年)7月29日 - 兼内務大臣秘書官。8月26日免兼大蔵省参事官。
  • 1904年(明治37年)2月25日 - 免兼官、兼台湾総督秘書官。
  • 1905年(明治38年)5月19日 - 兼関東州民政署事務官。7月31日関東州民政署事務官兼台湾総督府参事官。
  • 1906年(明治39年)9月1日 - 関東都督府事務官兼関東都督府民政署長。
  • 1907年(明治40年)10月9日 - 佐賀県事務官、内務部長。
  • 1908年(明治41年)6月12日 - 鹿児島県事務官、内務部長。
  • 1910年(明治43年)10月1日 - 朝鮮総督府学務局長
  • 1917年(大正6年)10月8日 - 朝鮮総督府中枢院書記官長兼朝鮮総督府学務局長。
  • 1919年(大正8年)8月20日 - 静岡県知事
  • 1921年(大正10年)3月9日 - 宮内次官
  • 1933年(昭和8年)2月25日 - 依願免本官。12月5日貴族院議員[2](勅選、昭和21年4月13日まで[3])。
  • 1935年(昭和10年)2月 - 日本銀行監事。
  • 1939年(昭和14年)6月 - 中央協和会理事長。
  • 1946年(昭和21年)3月19日 - 枢密顧問官(昭和22年5月2日まで)。
  • 1947年(昭和22年)5月2日 - 廃庁により退官。
  • 1950年(昭和25年)6月10日 - 死去。墓所は青山霊園

栄典

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位階
勲章等

家族

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寺山季三郞
良純ウタ長田銈太郎渡邉コト渡邉邁
大石カツ
小林わか貞三郎キヌ渡部信
正彦木内淑子友彦光彦奈良橋由香健彦平福美恵

演じた人

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脚注

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  1. ^ 下野新聞 編『野州名鑑』下野新聞、1931年8月20日、1160-1161頁。 
  2. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、43頁。
  3. ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、55頁。
  4. ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
  5. ^ 『官報』第8251号「叙任及辞令」1910年12月21日。
  6. ^ 『官報』第2606号「叙任及辞令」1921年4月12日。
  7. ^ 『官報』第1848号「叙任及辞令」1933年3月1日。
  8. ^ 『官報』第7159号・付録「叙任及辞令」1907年5月14日。
  9. ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
  10. ^ 塩谷七重郎『松江春次伝』(歴史春秋社、2005年)23頁。
  11. ^ 菅野賢治「日本軍政下の上海にユダヤ絶滅計画は存在したか(続) : 實吉敏郎・海軍大佐の未公開文書より」『京都ユダヤ思想』第10巻、京都ユダヤ思想学会、2019年6月、6-35頁、CRID 1390293865787146752doi:10.50954/kyotojewishthought.10.0_6ISSN 2186-2273 
  12. ^ 木幡瑞枝「関屋光彦先生(定年退職教授紹介)」『東京女子大学紀要論集』第29巻第1号、1978年9月、213-214頁、CRID 1050845762589749760 
  13. ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 324頁、552頁。
  14. ^ 佐藤 『門閥』 262-263頁、270頁。
  15. ^ 神 『閨閥』 400頁。
  16. ^ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 552頁。
  17. ^ 『終戦のエンペラー』を製作するにあたり

参考文献

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関連文献

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  • 『関屋貞三郎日記』 茶谷誠一編、国書刊行会(全4巻)、2018年(平成30年)-。22年分の日記を翻刻校訂

外部リンク

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公職
先代
石原健三
日本の旗 宮内次官
1921年 - 1933年
次代
大谷正男
先代
山崎四男六
内蔵頭
日本の旗 内蔵頭事務取扱
1924年
次代
入江貫一
内蔵頭
先代
仙石政敬
諸陵頭
日本の旗 諸陵頭事務取扱
1923年
次代
杉栄三郎
先代
(新設)
日本の旗 朝鮮総督府学務局長
1910年 - 1919年
次代
柴田善三郎
先代
秋山雅之介
書記官長事務取扱
日本の旗 朝鮮総督府中枢院書記官長
1917年 - 1919年
次代
大塚常三郎
先代
(新設)
日本の旗 関東都督府大連民政署長
1906年 - 1907年
次代
吉田嘉一郎
署長事務取扱
その他の役職
先代
島津忠重
恩賜財団大日本母子愛育会会長
恩賜財団母子愛育会会長
1947年 - 1950年
次代
一万田尚登
先代
田中芳雄
日本学術振興会理事長
1949年 - 1950年
次代
山崎匡輔
先代
(新設)
恩賜財団母子愛育会理事長
1946年 - 1947年
恩賜財団大日本母子愛育会理事長
1943年 - 1946年
恩賜財団愛育会理事長
1934年 - 1943年
次代
新居善太郎