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平賀源内

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『平賀鳩渓肖像』
『戯作者考補遺』表紙絵より。絵師の木村黙老は高松藩の家老で、源内の死から65年を経た弘化二年 (1845) に源内と親交があった祖父や源内をよく知っていた古老の述懐などをもとにしてこの肖像を描いた。慶應義塾図書館収蔵。

平賀 源内(ひらが げんない、享保13年(1728年)- 安永8年12月18日1780年1月24日))は、江戸時代中頃に活躍した本草学者地質学者蘭学者医者殖産事業家戯作者浄瑠璃作者俳人蘭画家発明家

源内は通称で、元内とも書いた。国倫(くにとも)[1]子彝(しい)。数多くの号を使い分けたことでも知られ、画号鳩渓(きゅうけい)、俳号李山(りざん)をはじめ、戯作者としては風来山人(ふうらいさん じん)[1]、浄瑠璃作者としては福内鬼外[1](ふくうち きがい)の筆名を用い、殖産事業家としては天竺浪人(てんじくろうにん)、生活に窮して細工物を作り売りした頃には貧家銭内(ひんか ぜにない)[2]などといった別名でも知られていた。

父は白石茂左衛門[3](良房)、母は山下氏の娘。兄弟多数。

経歴

平賀源内作のエレキテル(複製)。国立科学博物館の展示。

讃岐国寒川郡志度浦[3](現在の香川県さぬき市志度)に生まれる。平賀氏は讃岐高松藩足軽身分の家で、元々は信濃国佐久郡の豪族(信濃源氏平賀氏)だったが、戦国時代平賀玄信の代に甲斐武田信虎晴信父子に滅ぼされ、奥州白石に移り伊達氏に仕え、白石姓に改めた。のちに伊予宇和島藩主家に従い四国へ下り、讃岐で帰農したという。

幼少の頃には掛け軸に細工をして、「お神酒天神」を作成したとされ、その評判が元で13歳から藩医の元で本草学を学び、儒学を学ぶ。また、俳諧グループに属して俳諧なども行う。寛延元年(1748年)に父の死により後役として藩の蔵番となる[4]宝暦2年(1752年)頃に1年間長崎へ遊学し、本草学とオランダ語医学油絵などを学ぶ。留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。

大阪京都で学び、さらに宝暦6年(1756年)には江戸に出て本草学者田村元雄(藍水)に弟子入りして本草学を学び、漢学を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。宝暦11年(1761年)には伊豆で鉱床を発見し、産物のブローカーなども行う。物産博覧会をたびたび開催し、この頃には幕府老中田沼意次にも知られるようになる。宝暦9年(1759年)には高松藩の家臣として再登用されるが、宝暦11年(1761年)に江戸に戻るため再び辞職する[4]。このとき「仕官お構い」(奉公構)となり[5]、以後、幕臣への登用を含め他家への仕官が不可能となる。宝暦12年(1762年)には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて開催する。江戸においては知名度も上がり、杉田玄白中川淳庵らと交友する。

宝暦13年(1763年)には『物類品隲』(ぶつるいひんしつ)を刊行[1]。オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。明和年間には産業起業的な活動も行った。明和3年(1766年)から武蔵川越藩秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝(現在の秩父市大滝)の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した(現在のニッチツ秩父鉱山)。秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。現在でも奥秩父の中津峡付近には、源内が設計し長く逗留した建物が「源内居」として残っている。安永2年(1773年)には出羽秋田藩佐竹義敦に招かれて鉱山開発の指導を行い、また秋田藩士小田野直武に蘭画の技法を伝える。

安永5年(1776年)には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。

安永8年(1779年)夏には橋本町の邸へ移る。大名屋敷の修理を請け負った際に、酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷したため、11月21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死した。享年52。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大工の秋田屋九五郎を殺したとも、後年逃げ延びて田沼意次の保護下に天寿を全うしたとも伝えられるが、いずれもいまだにはっきりとはしていない。

戒名は智見霊雄。墓所は総泉寺の移転前の台東区橋場の敷地にあり、総泉寺自体が浅草から板橋に移転した後もそのままの場所に残されている。

人物と業績

  • 天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
  • 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして愛したという。わけても、2代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。
  • 解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に一章を割いている。源内の墓碑を記したのも玄白で、「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや〔貴方は常識とは違う人で、常識とは違うものを好み、常識とは違うことをする、しかし、死ぬときぐらいは畳の上で普通に死んで欲しかった。〕)とあり、源内の才能に玄白が驚嘆しその死を惜しんだことが伺われる。
  • 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの紹介、火浣布[1]の開発がある。一説には竹とんぼの発明者とも言われ、これを史上初のプロペラとする人もいる(実際には竹とんぼはそれ以前から存在する。該当項目参照)。気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたと言われる。ただし、結局これらは実用的研究には一切結びついておらず、後世の評価を二分する一因となっている。
  • エレキテルの修復にあっては、その原理について源内自身はよく知らなかったにもかかわらず、修復に成功したという[6]
  • 「夏バテ防止のために土用の丑の日ウナギを食べる」風習は、夏場の売り上げ不振に悩んだ鰻屋に請われて、平賀源内が考案した「本日土用丑の日」という広告キャッチコピーが元との説がある。また、明和6年(1769年)にはCMソングとされる、歯磨き粉『漱石膏』の作詞作曲を手がけ、安永4年(1775年)には音羽屋多吉の清水餅の広告コピーを手がけてそれぞれ報酬を受けており、これらをもって日本におけるコピーライターのはしりとも評される。
  • 浄瑠璃作家としては福内鬼外の筆名で執筆[1]時代物を多く手がけ、作品の多くは五段形式や多段形式で、世話物の要素が加わっていると評価される。江戸に狂歌が流行するきっかけとなった大田南畝の『寝惚先生文集』に序文を寄せている他、風来山人の筆名で[1]、後世に傑作として名高い『長枕褥合戦』や『萎陰隠逸伝』などの春本まで残している。衆道関連の著作として、水虎山人名義により 1764年明和元年)に『菊の園』、安永4年(1775年)に『男色細見』の陰間茶屋案内書を著わした。
  • 鈴木春信と共に絵暦交換会を催し、浮世絵の隆盛に一役買った他、博覧会の開催を提案、江戸湯島で日本初の博覧会「東都薬品会」が開催された。
  • 文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者との説がある。

作品

西洋画
  • 『黒奴を伴う赤服蘭人図』
  • 『西洋婦人図』
著作
物類品隲』。1763宝暦13)年刊。平賀源内著。国立科学博物館の展示。
浄瑠璃
  • 『神霊矢口渡』
  • 『源氏大草紙』
  • 『弓勢智勇湊』
  • 『嫩榕葉相生源氏』
  • 『前太平記古跡鑑』
  • 『忠臣伊呂波実記』
  • 『荒御霊新田新徳』
  • 『霊験宮戸川』
  • 『実生源氏金王桜』

史料・研究

史料
  • 『源内実記』
  • 平賀源内先生顕彰会編『平賀源内全集』上・下(名著刊行会、1970年)
  • 「風来人集」(『日本古典文学大系55』岩波書店、1961年)
研究
  • 『讃岐偉人平賀源内翁』
  • 森銑三『平賀源内研究』
  • 城福勇『平賀源内』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1971年)
  • 城福勇『平賀源内の研究』(創元社、1976年)

関連施設

平賀源内生祠鞆町
  • 平賀源内記念館、平賀源内先生遺品館 - 香川県さぬき市志度
    発明品や著作物、杉田玄白と源内の書簡などが展示されている。また、平賀源内記念館が2009年3月22日にオープンし、平賀源内祭りの会場。場所はJR志度駅から徒歩5分 *平賀源内記念館
  • 平賀源内墓 - 東京都台東区橋場二丁目 旧総泉寺墓地
    1943年、国の史跡に指定
    敷地内には、従僕であった福助の墓もある。
  • 平賀源内先生の墓 - 香川県さぬき市志度 微雲窟 自性院
    同院は平賀家の菩提寺であり、墓は義弟である平賀権太夫の建立とされる。
    毎年12月には、法要がとり行われる。
  • 平賀源内生祠 - 広島県福山市鞆の浦 広島県指定史跡
  • 源内賞
    平賀源内の偉業をたたえて発明工夫を振興する基金を、エレキテル尾崎財団が1994年に寄贈。この基金を基に、香川県さぬき市(旧志度町)とエレキテル尾崎財団とが、四国内の科学研究者を授賞対象とする源内賞、奨励賞を設定し、毎年3月に表彰。
  • 江戸東京博物館(2003年11月29日 - 2004年1月18日)、東北歴史博物館(2004年2月14日 - 3月21日)、岡崎市美術博物館(2004年4月3日 - 5月9日)、福岡市博物館(2004年5月27日 - 7月4日)、香川県歴史博物館(2004年7月17日 - 8月29日)に「平賀源内展」が開催された。エレキテル等の復元品も展示された。

平賀源内をモデルとした創作

テレビ

他にドラマ愛の詩シリーズおよびTVアニメ版の『ズッコケ三人組』における『ズッコケ時間漂流記』(源内役:藤岡弘(ドラマ版)、松山鷹志(アニメ版))や、アニメ『落語天女おゆい』(源内役:てらそままさき)、同じくアニメ版『あんみつ姫』などの映像化作品がある。『それいけ!アンパンマン』ではからくりぐんないという発明家のキャラクターが登場する。

小説

漫画

  • 石ノ森章太郎平賀源内 解国新書
    源内が田沼意次の一代記の著者として描かれている。
  • 枡谷タケシからくり源内
  • 上村一夫『春の嵐』
  • みなもと太郎風雲児たち』田沼時代編
    蘭学者たちのオピニオン・リーダーの一人として描かれており、自らに対して時代があまりにもついてこない男の苦悩と悲しみが、余すところなく表現されている。
  • 水木しげる東西奇ッ怪紳士録
    ステレオタイプ的歴史観に基づいた形で奇人として取り上げられている。
  • 碧也ぴんく『鬼外カルテシリーズ』
    虚空を彷徨い、現代を生きる鬼外というキャラクターとして描かれている。「シリーズ其ノ14(最終章)」では鬼外(平賀源内)を主人公とした物語が展開する。
  • 星野之宣『鎖の国』
    科学者と戯作者の兄弟という形で源内二人説を描いている。
  • よしながふみ大奥
    第八巻から登場。男装の女性として描かれている。

ゲーム

演劇

ドラマCD

  • 『源内妖変図譜』(源内役:関智一

関連項目

  • 土用の丑の日 - 鰻を食べる習慣は源内が発祥との説がある[1]。また大伴家持が発祥とも言われている。
  • 源内焼 - 地元の焼き物・士度焼に、源内の指導を得て発展した焼き物の一群。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h 小田 2001, p. 191
  2. ^ 逢沢明 (2008), 結果が出る発想法 アイデアはいかにして生まれるのか, PHP研究所, p. 29, ISBN 9784569697710 
  3. ^ a b 小田 2001, p. 188
  4. ^ a b 小田 2001, p. 190
  5. ^ さぬき市文化財保護協会志度支部 - 平賀源内記念館と平賀源内旧邸 2013年2月9日閲覧
  6. ^ 二宮隆雄 (2008), 戦いの哲学勝利の条件, PHP研究所, p. 294, ISBN 9784569669915 

参考文献

  • 小田, 晋 (2001), 歴史の心理学 日本神話から現代まで, 日本教文社, ISBN 4-531-06357-0 
  • 埼玉新聞 「源内秩父を行く」(2009年)

外部リンク