1582年
年
西暦1582年はユリウス暦で始まり、10月の途中からグレゴリオ暦が導入された、355日しかないことになった平年。
千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 15世紀 - 16世紀 - 17世紀 |
十年紀: | 1560年代 1570年代 1580年代 1590年代 1600年代 |
年: | 1579年 1580年 1581年 1582年 1583年 1584年 1585年 |
他の紀年法
編集カレンダー
編集できごと
編集- 2月24日 - 教皇グレゴリウス13世が勅書「インテル・グラウィッシマス(最も重大なる懸念の内に)」を出した。これは、グレゴリオ暦の導入を依頼、勧告もしくは推奨するものだった[1]。
- 3月(日本では旧暦=2月)に京都などの低緯度でオーロラとみられる発光現象が記録された。[2]4月には彗星が現れている。
- 10月4日 - 歴史学においてはこの日までをユリウス暦で表記することが多く、Wikipedia:表記ガイドでもそれに従っている。
- 10月15日 - ユリウス暦に代わってグレゴリオ暦の使用が開始される。歴史学においてもこの日以降はグレゴリオ暦で表記することが多く、Wikipedia:表記ガイドでもそれに従っている。
日本
編集※10月4日(天正10年9月18日)まではユリウス暦による日付
- 1月24日(天正10年1月1日) - 安土城に諸将ら多数が参賀、人の重みで石垣が崩れ死者が出る。織田信長自ら見物料を取り、本丸・御幸(みゆき)の間などを一般公開。
- 2月13日(天正10年1月21日) - 宇喜多秀家が宇喜多家の家督を相続する。
- 2月20日(天正10年1月28日) - 天正遣欧少年使節が長崎を出航。
- 2月25日(天正10年2月3日) - 織田信長、武田攻めの陣触れ。
- 3月24日(天正10年3月1日) - 佐久間盛政らが加賀一向一揆最後の拠点能美郡の山内庄(鳥越城)を制圧。
- 4月3日(天正10年3月11日) - 武田勝頼らが自害し、武田家が滅亡(天目山の戦い)。
- 6月20日(天正10年6月1日) - 日食発生[3][4]。
- 6月21日(天正10年6月2日) - 織田信長が明智光秀に攻められ自害(本能寺の変)。
- 7月2日(天正10年6月13日) - 羽柴秀吉が明智光秀を討つ(山崎の戦い)。
- 7月4日(天正10年6月15日) - 安土城炎上。
- 7月5日 - 8日(天正10年6月16日 - 19日)- 北条氏直・氏邦が滝川一益を破る(神流川の戦い)。
- 7月16日(天正10年6月27日)- 清洲会議。
- 7月27日(天正10年7月8日) - 羽柴秀吉が山城国で指出検地に着手する。
- 9月14日(天正10年8月28日) - 長宗我部元親が十河存保を破る(中富川の戦い)。
- 9月27日(天正10年9月11日) - 柴田勝家がお市の方に織田信長の百日忌を京都の妙心寺で執行させる。
- 11月10日(天正10年10月15日) - 秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を執行。
誕生
編集→「Category:1582年生」も参照
死去
編集→「Category:1582年没」も参照
- 3月25日(天正10年3月2日) - 仁科盛信、武将、武田信玄の五男(* 1557年)
- 4月3日(天正10年3月11日) - 武田勝頼、甲斐の武将・戦国大名、武田信玄の子(* 1546年)
- 4月3日(天正10年3月11日) - 武田信勝、武田勝頼の嫡男(* 1567年)
- 4月3日(天正10年3月11日) - 土屋昌恒、武田氏の家臣(* 1556年)
- 4月16日(天正10年3月24日) - 小山田信茂、武田氏の家臣(* 1539年)
- 4月25日(天正10年4月3日) - 快川紹喜、臨済宗の僧(生年不詳)
- 6月21日(天正10年6月2日) - 織田信長[要出典]、織田政権を率いた戦国大名(* 1534年)
- 6月21日(天正10年6月2日) - 織田信忠、織田信長の嫡男(* 1557年)
- 6月21日(天正10年6月2日) - 森蘭丸、織田信長の家臣(* 1565年)
- 6月21日(天正10年6月2日) - 穴山信君、織田信長の家臣(* 1541年)
- 6月23日(天正10年6月4日) - 清水宗治、備中国高松城主(* 1537年)
- 6月24日(天正10年6月5日) - 津田信澄、織田信勝の子(* 1555年)
- 7月2日(天正10年6月13日) - 明智光秀、戦国武将(* 1528年)
- 7月4日(天正10年6月15日) - 明智秀満、明智光秀の重臣(* 1537年)
- 7月6日(天正10年6月17日) - 斎藤利三、明智光秀の家老(* 1534年)
- 12月28日(天正10年12月4日) - 土岐頼芸、美濃の守護大名(* 1502年)
脚注
編集出典
編集- ^ クリスチャンソン 2018, p. 58「グレゴリウス暦(インテル・グラウィッシマス)」
- ^ “見たか家康 徹底解説3 運命の天正十年 – 博物館日記” (2023年6月2日). 2024年5月11日閲覧。
- ^ “天正十年の天変1”. 京都千年天文街道. 2024年5月11日閲覧。
- ^ “EclipseWise - Total Solar Eclipse of 1582 Jun 20”. eclipsewise.com. 2024年5月11日閲覧。
注釈
編集- ^ ユリウス暦は、グレゴリオ暦に比べて精度が悪く、ユリウス暦1582年10月4日の時点で、実際の季節に対して10日ほど遅れていた。そのため、グレゴリオ暦への改暦は、10月5日から10月14日の10日間を省くことで行われた。
参考文献
編集- スコット・クリスチャンソン、2018、『図説 世界を変えた100の文書』、創元社 ISBN 978-4-422-21530-3