飛呂子女王(ひろこじょおう、明治4年5月2日1871年6月9日[1] - 1889年明治22年)11月22日)は、明治時代前期の皇族。久邇宮朝彦親王の第四王女で母は家女房泉萬喜子明仁上皇外祖父にあたる久邇宮邦彦王の同母姉[2]

飛呂子女王
久邇宮家、池田家
続柄 久邇宮朝彦親王第4王女

身位 女王
敬称 殿下
出生 1871年6月9日
日本の旗 日本
死去 (1889-11-22) 1889年11月22日(18歳没)
日本の旗 日本
父親 久邇宮朝彦親王
母親 泉萬喜子
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生涯

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6歳で比丘尼御所長福寺(京都市)に入室し修行の日々を送った。

病により、1889年明治22年)11月22日、満18歳(数え年19歳)で薨去[3]

葬儀は同年11月28日に執り行われた[4]。墓所は光雲寺 (京都市)の久邇宮墓地

出典

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  1. ^ 『纂輯御系圖』(松成堂、1903年)、p.203(NDLJP:1085748/121
  2. ^ 小田部雄次『皇族』中央公論新社〈中公新書〉、2011年。ISBN 978-4-12-102011-6 
  3. ^ 明治22年宮内省告示第13号(『官報』第1924号、明治22年11月26日)(NDLJP:2945173
  4. ^ 『官報』第1928号「宮廷録事」、明治22年11月30日(NDLJP:2945177/3