久邇宮邦彦王
久邇宮邦彦王(くにのみや くによしおう、1873年〈明治6年〉7月23日 - 1929年〈昭和4年〉1月27日)は、日本の皇族、陸軍軍人。階級および位階勲等は軍事参議官、元帥陸軍大将、大勲位、功四級。久邇宮朝彦親王の第3王子。久邇宮第2代当主。香淳皇后(昭和天皇后)の父。明仁上皇の外祖父、今上天皇の曽祖父にあたる。
久邇宮邦彦王 | |
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久邇宮 | |
続柄 | |
身位 | 王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1873年7月23日 日本・京都府 |
死去 |
1929年1月27日(55歳没) 日本・東京府東京市 |
配偶者 | 島津俔子 |
子女 |
朝融王 邦久王 良子女王(香淳皇后) 信子女王 智子女王 邦英王 |
父親 | 久邇宮朝彦親王 |
母親 | 泉萬喜子 |
栄典 | 大勲位菊花章頸飾 |
役職 | 元帥陸軍大将、軍事参議官、貴族院皇族議員(名目) |
称号:王 | |
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来歴
編集邦彦王は1887年(明治20年)父朝彦親王の継嗣と定められ、京都府立中学(現・京都府立洛北高等学校・附属中学校)、学習院を経て東京・成城学校(現・成城中学校・高等学校)に入学する。1891年(明治24年)には朝彦親王薨去を受けて久邇宮を継承する。
1896年(明治29年)陸軍士官学校を卒業し陸軍士官として勤務し、1902年(明治35年)陸軍大学校卒業。1904年(明治37年)には日露戦争に出征する。戦功により歩兵少佐に進級し功四級金鵄勲章を受章する。以後も累進し1910年(明治43年)歩兵第38連隊長、1917年(大正6年)第15師団長、近衛師団長、軍事参議官を歴任する。
年譜
編集- 1873年(明治6年)7月 - 誕生
- 1887年(明治20年)3月 - 朝彦親王継嗣
- 1890年(明治23年)5月 - 東京私立成城学校入校
- 1893年(明治26年)
- 7月 - 貴族院皇族議員[1]
- 10月 - 東京私立成城学校卒業
- 11月 - 士官候補生
- 1896年(明治29年)5月 - 陸軍士官学校卒業(7期)
- 1897年(明治30年)1月 - 陸軍歩兵少尉、歩兵第六連隊附
- 1899年(明治32年)
- 1901年(明治34年)3月 - 陸軍歩兵大尉
- 1902年(明治35年)11月 - 陸軍大学校卒業(16期恩賜)、近衛歩兵第三連隊附
- 1903年(明治36年)11月 - 参謀本部出仕
- 1904年(明治37年)
- 1907年(明治40年)
- 2月 - ヨーロッパ差遣
- 4月 - 出発
- 1908年(明治41年)4月 - 陸軍歩兵中佐
- 1909年(明治42年)10月 - 帰朝
- 1910年(明治43年)5月 - 歩兵第三十八連隊附
- 1910年(明治43年)12月 - 陸軍歩兵大佐・歩兵第三十八連隊長
- 1913年(大正2年)8月 - 陸軍少将・近衛歩兵第1旅団長
- 1917年(大正6年)8月 - 陸軍中将、第十五師団長
- 1918年(大正7年)8月 - 近衛師団長
- 1919年(大正8年)11月 - 軍事参議官
- 1923年(大正12年)8月 - 陸軍大将
- 1928年(昭和3年)
- 1929年(昭和4年)1月 - 東京から熱海の別荘へ移動後に急性内臓疾患で薨去、元帥ならびに大勲位菊花章頸飾を贈られる。
栄典
編集- 1902年(明治35年)11月30日 - 恩賜の軍刀
- 1893年(明治26年)11月3日 - 勲一等旭日桐花大綬章[3]
- 1903年(明治36年)11月3日 - 大勲位菊花大綬章[4]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功四級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[5]
- 1909年(明治42年)7月21日 - ロイヤル・ヴィクトリア勲章名誉ナイト・グランド・クロス[6]
- 1920年(大正9年)11月1日 - 金杯一組・大正三年乃至九年戦役従軍記章[7]
- 1929年(昭和4年)1月27日 - 元帥・大勲位菊花章頸飾[8]
宮中某重大事件
編集第一王女の良子女王は1918年(大正7年)1月に皇太子裕仁親王との婚約が内定したが、後に婚約破棄や山縣有朋暗殺説が飛び交う宮中某重大事件と称する事件へと発展した。
発端は枢密院議長山縣有朋が良子女王の母方である島津家に色盲の遺伝ありと軍医学校教官の草間要より聞いたことに始まる。他にも山縣は良子女王の兄朝融王が学習院の身体検査において色弱の疑いがあると診断されたとの情報を良子女王の担当医平井政遒より得て、皇室に色覚障害の遺伝子が混ざる事を恐れた山縣は元老西園寺公望、同松方正義と内談する。両元老は山縣に同意し、久邇宮に婚約を辞退させようと謀る。医師団の見解としては良子女王には色覚異常は認められないものの、色覚異常の遺伝子を有している為に皇子に遺伝する可能性があると判断した。
山縣はこれを受けて邦彦王に婚約解消を迫るが、邦彦王は貞明皇后に拝謁し直訴するに及び、また宮内省は1921年(大正10年)2月10日に「良子女王殿下東宮妃御内定ノ事ニ関シ世情種々ノ噂アリヤニ聞クモ、右御決定ハ何等変更ナシ」と発表する。宮内省がこの発表を行った頃には過激派が山縣や時の首相原敬、他の皇族を暗殺するとの噂があり、山縣が皇族に危害が及ぶ前に解決を図ったものである。この発表があるまで報道が禁止されていたため、新聞は一斉にこの件を宮中某重大事件として報じたが、そもそも真相が分からないため複数の高官が辞表を提出するなどの憶測を報じていた。事件が解決し皇太子と良子女王は3年後の1924年(大正13年)1月26日に成婚となった。一方、政界に隠然とした勢力を保ち続けていたさしもの山縣も、この件を契機に急速にその影響力を失っていく。
ところが翌年に長男の朝融王と酒井菊子の婚約破棄の問題が発生、この問題で邦彦王は先件とは逆の立場に陥ったため、婚約相手の酒井家や宮中からも大きな批判を受ける。結局婚約破棄は実現したものの、摂政宮から訓戒処分を受けることとなった。
外戚として
編集外戚となった邦彦王はしばしば皇居に出入りし、のみならず皇室に金の無心をするようになった。特に自邸の改装費に関しては、貞明皇后を怒らせるまでに至った。しかしこのような邦彦王の行動は当時は一切表沙汰にはならなかった[9]。
血縁
編集旧薩摩藩最後の藩主だった島津忠義公爵の八女・俔子と結婚し3男3女をもうける。第一王女の良子女王は昭和天皇の皇后となったことから、邦彦王は明仁上皇の母方の祖父に当たる。
明仁の系譜 |
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出典
編集- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』3頁。
- ^ 岡崎公会堂で開会式『大阪毎日新聞』昭和3年9月21日夕刊*(『昭和ニュース事典第1巻 昭和元年-昭和3年』本編p163 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 『官報』第3106号「叙任及辞令」1893年11月4日。
- ^ 『官報』第6103号「叙任及辞令」明治36年11月4日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」明治39年12月30日。
- ^ "No. 28273". The London Gazette (英語). 23 July 1909. p. 5620.
- ^ 『官報』第2612号「叙任及辞令」1921年4月19日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1929年1月27日。
- ^ 浅見雅男『闘う皇族 ある宮家の三代』 角川書店、2005年、角川文庫、2013年
参考文献
編集- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 「久邇宮殿下薨去に関する件(陸軍省大日記乙輯 昭和4年)」 アジア歴史資料センター Ref.C01006209400
- 浅見雅男 『闘う皇族 ある宮家の三代』 角川選書、2005年/角川文庫、2013年。
関連項目
編集外部リンク
編集- ウィキメディア・コモンズには、久邇宮邦彦王に関するカテゴリがあります。
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