紅野敏郎

日本の日本文学研究者 (1922-2010)

紅野 敏郎(こうの としろう、1922年6月19日[1] - 2010年10月1日[2])は、日本の日本文学研究者。専門は日本近代文学、特に白樺派の作家[3]早稲田大学名誉教授。息子は日本大学教授で日本文学研究者紅野謙介[2]

来歴

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兵庫県西宮市生まれ[1]。中学卒業後は家業の醸造業に従事するが、1943年招集されてスマトラ島に出征する[1]。敗戦後、1年あまりの捕虜生活を送る[1]。1947年大東文化専門学校国文科に入学[1]、1949年早稲田大学第一文学部国文学科に編入学[1]。1952年、同大学卒業[3]。1953年から1960年まで京華学園教諭を務め[1]、1960年早稲田大学教育学部専任講師[1]。1962年同助教授[1]、1967年同教授[1]1992年定年退職[1]名誉教授

日本近代文学館常務理事を務めた[2]1983年(昭和58年)には山梨県嘱託の「文学館構想策定懇話会」委員の一人となり、1991年(平成3年)には三好行雄の後任として山梨県立文学館の2代館長となる[1][4]。山梨県立文学館では1993年(平成5年)刊行の『芥川龍之介資料集』の刊行にも携わり、1992年に開始された「やまなし文学賞」では実行委員長を務める。2005年3月には山梨県立文学館館長を退任し[4]、後任は近藤信行が務めた[4]2006年瑞宝中綬章受章[5]

2010年10月1日、肺炎のため東京都東村山市の病院で死去。88歳没[2]

人物

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  • 書誌学文献学的方法を用いて、白樺派の作家などを中心に研究した[3]
  • 日本近代文学について厖大な量の論考があり、近代文学研究の泰斗とされる。
  • 晩年の志賀直哉と交流を結んだことから、『日本近代文学大事典』や『志賀直哉全集』の校訂・編集を手がけた[3]。このほか多数の著作を残した。

著書

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  • 『展望戦後雑誌』河出書房新社, 1977
  • 『本の散歩・文学史の森 1972-79』冬樹社, 1979
  • 『文学史の園 1910年代』青英舎, 1980
  • 白樺の本 文学史の林』青英舎, 1982
  • 『昭和文学の水脈』講談社, 1983
  • 読売新聞文芸欄細目』日外アソシエーツ, 1986
  • 『近代日本文学誌 本・人・出版社』早稲田大学出版部, 1988
  • 『近代文芸』1・2 放送大学教育振興会, 1988
  • 『雑誌探索』朝日書林, 1992
  • 『貫く棒の如きもの 白樺・文学館・早稲田』朝日書林, 1993
  • 『大正期の文芸叢書』雄松堂出版, 1998
  • 『文芸誌譚 その「雑」なる風景 一九一〇 - 一九三五年』雄松堂出版, 2000
  • 『遺稿集連鎖 近代文学側面誌』雄松堂出版, 2002
  • 『「学鐙」を読む』正・続 雄松堂書店, 2009

主な編著

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脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l 「紅野敏郎教授略歴・業績」『早稲田大学教育学部学術研究 国語・国文学編』第41巻、早稲田大学教育学部、1992年、3-6頁。 
  2. ^ a b c d “紅野敏郎氏死去 早稲田大名誉教授”. 47NEWS(よんななニュース). (2010年10月7日). オリジナルの2015年4月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20150430054454/http://www.47news.jp/CN/201010/CN2010100701000558.html 
  3. ^ a b c d 紅野敏郎 日本近代文学研究の第一人者、死去 | 時事用語事典”. 情報・知識&オピニオン imidas. 集英社. 2023年5月8日閲覧。
  4. ^ a b c 文学館について|山梨県立文学館”. 山梨県立文学館. 2023年5月8日閲覧。
  5. ^ 平成18年春の叙勲 瑞宝中綬章受章者” (PDF). 内閣府. p. 7 (2006年4月29日). 2006年6月22日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年5月18日閲覧。

外部リンク

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