涌井洋治

日本の官僚 (1942-)。大蔵省大臣官房長、大蔵省主計局長、日本たばこ産業会長

涌井 洋治(わくい ようじ 1942年2月5日 - )は、神奈川県横浜市出身の官僚[1]血液型はA型[1]経済企画庁長官官房長大蔵省大臣官房長、大蔵省主計局長日本たばこ産業(JT)会長などを務めてきた。

来歴・人物

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横浜市立岩崎中学校[1]横浜市立桜丘高等学校から東京大学文科一類に入学[2]。1964年 東京大学法学部第2類(公法コース)卒業[3]。同年 大蔵省入省。同期には野田毅衆議院議員)、田波耕治大蔵事務次官内閣内政審議室長)、加藤隆俊IMF副専務理事、財務官)、野口悠紀雄経済学者)、高橋厚男関税局長)、秋山昌廣防衛事務次官)、杉崎重光(IMF副専務理事、証取監視委事務局長)、野口卓夫(大証副理事長)など。

経企庁官房長大蔵省官房長を経て、主計局長と同期中の事務次官の筆頭候補であった。当時の一連の大蔵省接待汚職事件報道のなか、のちに泉井事件に発展してゆく渦中にあった泉井純一により、主に通産官僚などへのタニマチ行為がマスコミの耳目を集めていた頃、大蔵官僚の涌井にも美術品が贈与されたことを指摘された。そのため同期の田波耕治が内閣内政審議室長から次官に座ることとなった。 この事件についてノンフィクション作家である広瀬隆は、著書「私物国家」において美術商を介した収賄の仕組みを詳細に示した上で、涌井に対する処分が表面上の付け値によって口頭による厳重注意で済まされた事を批判している。[4]

退官後はすぐに日本損害保険協会副会長。2004年6月から小川是の後を受けてJT会長就任。2012年6月 退任。その後、顧問と兼務で日本たばこ産業株式会社が出捐したアフィニス文化財団理事長に就任。

略歴

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  • 1963年9月 国家公務員上級甲種試験(法律)を合格。試験地は東京都。受験番号は2130番[5]
  • 1964年4月 大蔵省入省(大臣官房文書課)
  • 1966年6月 経済企画庁国民生活局物価政策課
  • 1968年5月 主計局総務課調査主任[6]
  • 1969年7月 主計局総務課企画第一係長[7]
  • 1970年7月 倉敷税務署長
  • 1971年7月 国税庁調査査察部査察課課長補佐
  • 1972年7月 大臣官房文書課課長補佐(管理・調査)[8]
  • 1973年2月 主計局法規課課長補佐
  • 1974年7月 和歌山県総務部財政課長
  • 1976年7月 主計局主計官補佐(建設第一、二係主査)
  • 1979年6月 大臣官房企画官兼大臣官房秘書課
  • 1981年7月 東京国税局査察部長
  • 1982年6月 主計局主計企画官(調整担当)[9]
  • 1983年6月 主計局主計官(建設、公共事業総括担当)
  • 1986年6月 主計局主計官兼主計局総務課
  • 1988年6月 主計局総務課長
  • 1989年6月 内閣総理大臣秘書官(事務担当)
  • 1991年6月 主計局次長
  • 1993年6月 経済企画庁長官官房長
  • 1995年5月 大蔵省大臣官房長
  • 1997年9月 大蔵省主計局長(1999年7月まで)

発言・エピソード

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大蔵省

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  • 「10年に1度の大物次官」と言われた斎藤次郎に近く、小村武田谷廣明杉井孝と共に「斎藤4人組」に数えられていた[10]
  • 自身も「大物(大蔵)官僚」とされており、「大物次官」の目安にもなる「在任2年」は濃厚と言われ[11]、斎藤の後の「大物次官」候補とされていた[12]。事務次官になる手前の経済企画庁長官官房長本省大臣官房長主計局長まで上り詰めたが、前述の不祥事により、事務次官まであと1歩のところで退官となった。
  • 印象に残っていることとして、主計局主計官(建設、公共事業総括担当)時代に公共事業関係費をマイナス予算で組んだことを挙げている[1]
  • 国会方面に“公共の涌井”で知られる公共事業のプロとされ、主計局主計官補佐(建設係主査)、主計官(建設・公共事業総括担当)を通じて野党公共族道路族など)を相手に回し、毎年のように一般会計の公共事業費を削減し続けた手腕を持っている[13]

課長補佐時代

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  • 課長補佐時代から建設省の予算に係ってきた。主計局主計官補佐(主査)として、建設係を2年、公共事業係を1年と、合わせて3年。この他、1973年2月から主計局法規課課長補佐で建設省を担当してきたため、都合5年(約4年半)「建設省志とお付き合いが続いている。入省以来、15年であるから、その3分の1は『建設省さん』相手の仕事」「ほとんどが楽しい思い出ばかりである。もっとも当方は楽しくても相手をする人は苦痛であったかもしれないが」などと語っていた[14]
  • 主査(主計官補佐)としての勤務について、「主査(主計官補佐)の条件は相当厳しい。膨大な量の要求を聞いて、これを整理、査定して局議に諮るという作業が9月から12月まで続く。要求側との議論は夜中まで続くこともあった。こんな訳で、帰宅は夜中で日曜も出勤するパターンが予算の決定まで続く」「妻子との付き合いより、建設省の人との付き合っている時間の方が長くなる」などと語っていた[14]

課長時代

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  • 主計局主計官兼主計局総務課だった際に「最近思うことは、財政の対応力の回復をどのようなシリオで進めていくかということ。社会経済の変化のスピードが加速化しており、それに対して行政がどう対応していくべきかということである」と述べている[1]

交友

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脚注

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  1. ^ a b c d e 『日本の官庁 その人と組織 大蔵省、経済企画庁』政策時報社、1986年11月発行、180頁
  2. ^ 官庁報告 文教官報 第9975号』
  3. ^ 『東大人名録 官公庁編』1990年発行、8頁
  4. ^ 「私物国家」広瀬隆 著 光文社、1997年、ISBN 4334971539
  5. ^ 国家試験 昭和38年度国家公務員採用上級(甲種・乙種)試験合格者官報 第11032号』
  6. ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1969年発行、395頁
  7. ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1970年発行、457頁
  8. ^ 『職員録 第1部』大蔵省印刷局、1973年発行、482頁
  9. ^ 『大蔵要覧 昭和58年度版』1982年12月発行、42頁
  10. ^ 岸宣仁『財務官僚の出世と人事』文春新書、2010年8月発行、91頁
  11. ^ 『大蔵次官交代、首相主導「官」の秩序崩す ーー 刷新へ強い決意印象付け。』日本経済新聞 1998/1/30 朝刊 3頁
  12. ^ 文藝春秋 第83巻』2005年発行、236頁
  13. ^ 『月刊官界 第14巻』行政問題研究所、1988年発行、43頁
  14. ^ a b 『建設月報 第32巻』建設広報協議会、1979年発行、20頁
  15. ^ 『月刊官界 第9〜12号』行政問題研究所、1993年発行、15頁
官職
先代
小村武
大蔵省主計局長
1997年 - 1999年
次代
武藤敏郎
先代
小村武
大蔵省大臣官房長
1995年 - 1997年
次代
武藤敏郎
先代
小村武
経済企画庁長官官房長
1993年 - 1995年
次代
竹島一彦
先代
小村武
大蔵省主計局次長(首席)
1992年 - 1993年
次代
竹島一彦
先代
田波耕治
大蔵省主計局次長(末席)
1991年 - 1992年
次代
武藤敏郎
先代
小川是
内閣総理大臣秘書官(事務担当)
1989年 - 1991年
次代
中島義雄
先代
小村武
大蔵省主計局総務課長
1988年 - 1989年
次代
中島義雄
先代
藤井威
大蔵省主計局主計官
大蔵省主計局総務課

1986年 - 1988年
次代
中島義雄