毛利秀頼
毛利 秀頼(もうり ひでより)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。信濃飯田城主。
時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
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生誕 | 天文10年(1541年)[1] |
死没 | 文禄2年閏9月17日(1593年11月9日) |
改名 | 毛利長秀→秀頼→羽柴秀頼(豊臣秀頼) |
別名 | 長秀、秀政[2]、毛利河内、羽柴河内侍従、羽柴秀頼 / 豊臣秀頼、通称:河内守 |
墓所 | 長久寺(長野県飯田市諏訪町) |
官位 | 河内守、侍従 |
主君 | 織田信長→信忠→豊臣秀吉 |
氏族 | 斯波氏→毛利氏(尾張) |
父母 | 父:斯波義統、養父:毛利十郎[3] |
兄弟 | 斯波義銀、津川義冬、秀頼 (長秀)、女(浅井信広室[4])、他は義統の項を参照 |
子 |
秀秋、女(万里小路充房室)[5]、女(京極高知継室[6]) 養子:安藤源五[7][8] |
特記 事項 | 河尻秀隆の甥にあたるという[9]。 |
諱は初めは長秀(ながひで)で、史料では毛利河内守長秀との署名が多数残る。その後、豊臣政権になって侍従の官位と豊臣の氏と羽柴の名乗りを下賜されたため、天正15年の九州の役の頃[1]か同16年の聚楽第行幸の頃より羽柴河内侍従豊臣秀頼と名乗るようになった[10]。
生涯
編集『系図概要』によると、尾張守護・斯波義統の子で、津川義冬の弟であるという[10]。
『信長公記』によれば、天文22年(1554年)、義統は織田信友や坂井大膳、河尻左馬丞が起こした謀反によって暗殺されるが、その子である「若君」という義銀(津川義近)は脱出して信長に庇護され、二百人扶持を与えられた。もう1人の子である「幼君」を毛利十郎[3]が保護して那古屋に送り届けたとある。長秀が義統の遺児だと仮定すると、毛利十郎が養育した義統の遺児(つまり「幼君」)の成長した姿が長秀であると考えられる[10]。
永禄3年(1560年)、十郎と長秀(毛利河内)は桶狭間の戦いに参加して戦功をあげた。『信長公記』には、毛利新介が今川義元の首級を上げることができたのは、先年に清洲城で守護が攻め殺されたときに毛利十郎が幼君を1人保護して助けた冥加のおかげだ、と噂されたという話がある[12]ので、2人は近親者であると考えられる[10][13]。この頃、赤母衣衆に抜擢され[14]、信長の馬廻衆となった。
永禄12年(1569年)の伊勢大河内城攻めに従軍する。この際の身分は尺際廻番衆。
元亀元年(1570年)、野田城・福島城の戦いに従軍して、石山本願寺勢との戦いで活躍した。この時兼松正吉と協力して敵将の長末新七郎を討ったが、お互いに相手に首を取らせようと譲り合いになり、結局首を置き捨てにして退いたという。
将軍・足利義昭と信長の対立により、松永久秀が1度目の謀反を起こして、天正元年(1573年)に降伏した後に差し出された多聞山城の受け取り役を、佐久間信盛・福富秀勝と務めて、以後の城番も一時期務めている。
天正2年(1574年)1月4日、年頭の礼物進上がなかったことを咎め、興福寺に押し入っている[15]。この頃、尾張・美濃衆で軍団を編成した織田信忠の配下となり、以後は信忠に従う。
天正3年(1575年)の信忠による岩村城攻めに参加。河尻秀隆、浅野左近、猿荻甚太郎と共に夜襲を仕掛けてきた武田軍を撃破した。
天正6年(1578年)、斎藤利治が越中国で上杉軍に勝利した際(月岡野の戦い)には、森長可、坂井越中守、佐藤秀方等を添えられ援軍の大将として派遣されている。
天正9年(1581年)、毛利良勝と共に羽柴秀吉から中国攻めの状況について報告を受けている[16]。
天正10年(1582年)、信長・信忠父子が伊勢神宮の正遷宮を支援した際、毛利良勝と共に取次役を務めたとされる[8]。2月からの甲州征伐にも従軍。信濃大島城在番。伊那郡高遠城攻めで功を挙げたが、この戦いで養子の安藤源五が討死している[8]。武田氏の滅亡後の論功行賞で、信長からこの信濃伊那郡を与えられ、信濃国衆・坂西氏の居城であった下伊那郡の飯田城主とされた。短期間で終わった長秀の伊那統治に関する史料は少ないが、伊那の安養寺・文永寺に狼藉を働いた事件を起こし[17]、また信長の命で信濃松尾城主小笠原信嶺の暗殺を試みたと伝わる[18]。同年6月、本能寺の変が勃発し信長が横死すると、武田氏の旧臣などによる反乱の恐れから所領を放棄して尾張国に帰還し、飯田城は下条頼安に掌握された。 以後は羽柴秀吉に家臣として仕える。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加。3月には織田信雄家臣の八神城主・毛利広盛を羽柴陣営へと引き入れている[19]。また木曽義昌の重臣・山村良勝を秀吉に仲介し[20][21]、義昌の寝返りにも貢献した。6月には義昌への使者を務める[22]など秀吉の側近としての活動が多く見られる。
天正13年(1585年)10月、侍従に叙任されて昇殿。これに伴い豊臣姓と羽柴の名乗りを下賜された[23]。
天正15年(1587年)、九州平定に従軍。帰還後の秀吉の参内に随行して太刀代を献じた[1]。
天正16年(1588年)、後陽成天皇の聚楽第行幸にあたり関白・秀吉の牛車に供奉して、起請文の23名の大名に名を連ねる。7月29日、当時上洛中であった毛利輝元の訪問を受け、御太刀一腰・御馬代千疋を進上されている。これは前田利長、上杉景勝、細川忠興、池田輝政、織田信包に対する進物と同内容である[24]。7月31日の豊臣秀長邸、8月2日の豊臣秀次邸への秀吉の御成の際はいずれも尼子宮内少輔と共に関白御膳役を務めた[25]。8月22日、北条氏規が聚楽第に出仕した際には岩倉侍従毛利河内守として列席しており、当時岩倉城主であったと見られている[23]。
天正17年(1589年)、大仏殿建立に使用される木曽の木材調達に携わっており、秀吉に労をねぎらわれている[26]。
天正18年(1590年)、前田利家の組に属して小田原の役に参陣して軍功を挙げたため、再び伊那郡・信濃飯田城主として返り咲いた[28]。知行は初めは7万石で、太閤検地後に10万石に加増された。
天正19年(1591年)5月、足利氏姫の使者が上方から帰還する際には領内を確かに送り届けることと、森忠政と共に諏訪郡での賄いを指示されている[29]。9月23日、秀吉が御はなしの衆の番体制を定めた文書に名を連ねており[30]、このころには御伽衆も務めていたことが分かる。同年、松本城主・石川数正と所領争いを起こし、秀吉の裁定により小野盆地が南小野・北小野に分けられた。それに伴い小野神社・矢彦神社も小野神社が北、矢彦神社が南に分割されることとなった。
文禄元年(1592年)からの文禄の役では肥前名護屋城の普請に加わり、千名を率いて在陣するものの[31]、渡海はしなかった。
文禄2年(1593年)5月23日、秀吉が名護屋城内で明の使者と対面した際には京極高次(八幡侍従)らと共に御配膳衆を務めた[32]。
同年9月頃より患っており、高遠城代と考えられている勝斎[33]が、本復の際には知行100石を寄進する条件で諏訪大社上社権祝の矢嶋氏に祈祷を依頼している[17]。 しかしその後回復することはなく、閏9月17日死去。享年53[1]。遺領10万石の内の1万石だけが長男の秀秋に与えられ、大部分は秀頼の娘婿の京極高知(淀殿の従弟にあたる)が継承した。『野史』では嗣なしとして外孫が継いだとする[27]。
人物・逸話
編集- 織田家中でも武功をもって知られた武将であり、名将言行録には信長が長篠の戦いの直前に家康に加勢を送るべきかを、武辺の誉れある秀頼と思慮の深い佐久間信盛の両人を召して相談したという逸話が収録されている。
- 天正20年(1592年)、名護屋城に向かう道中の豊前国小倉での宿取りをきっかけに佐竹氏との間に遺恨が生まれ、これを解決するために佐竹義宣と直談判しようと少人数で宿所を訪れたところ、佐竹家臣衆に腕をつかまれ制止された上、地面に突き倒されるという狼藉を働かれた。挙句の果てに馬印を踏みつけられ、原因となった家臣が斬られたため、這う這うの体で退いたという。この時、仙石秀久や真田昌幸をはじめとした信濃国中の大名らが秀頼に同心して報復を加えようとしたというが、結局両陣営ともが自重したためにそれ以上の抗争には発展しなかった[34]。
- 佐賀県に残る名護屋城跡と秀頼の陣を含む23箇所の陣跡が国の特別史跡に指定されている。
脚注
編集- ^ a b c d 岡田 1999, p. 255
- ^ 堀田 1923, p. 176.
- ^ a b 毛利十郎は、天文16年に稲葉山城攻めで戦死した毛利敦元の子[11]。桶狭間の戦いの前哨戦で、前田利家らと共に敵の首級を上げて信長に見せて来て、打ち棄ての方針を説明されている。
- ^ 『兼見卿記』
- ^ 岡田 1999, p. 176
- ^ 堀田正敦『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜. 第3輯』國民圖書、1923年、176頁 。
- ^ 西美濃三人衆・安藤守就の一族という。
- ^ a b c 和田 2019, p. 155
- ^ 和田 2017, pp. 59–61
- ^ a b c d e 谷口 1995, p. 445
- ^ 谷口 1995, p. 444
- ^ 太田牛一; 中川太古『現代語訳 信長公記』(Kindle)中経出版〈新人物文庫〉、2013年。ASIN B00G6E8E7A。近藤瓶城 編『国立国会図書館デジタルコレクション 信長公記』 第19、近藤出版部〈史籍集覧〉、1926年 。
- ^ 少なくとも『信長公記』では、毛利河内、毛利十郎、毛利新介の3名は書き分けられており、同一人物と見なすことは難しい。
- ^ 『高木文書』[10]。
- ^ 金子拓『信長家臣明智光秀』〈平凡社新書〉2019年、60-64頁。
- ^ 豊臣秀吉文書集 一, p. 102.
- ^ a b 『信濃史料』
- ^ 『勝山小笠原家譜』
- ^ 豊臣秀吉文書集 ニ, p. 10.
- ^ 豊臣秀吉文書集 ニ, p. 16.
- ^ 平山 2011, pp. 118–121.
- ^ 豊臣秀吉文書集 ニ, pp. 51–52.
- ^ a b 黒田 2016, pp.169-170
- ^ 二木 2008, pp. 140–141.
- ^ 二木 2008, pp. 157,178.
- ^ 豊臣秀吉文書集 四, p. 15.
- ^ a b 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 下、大日本人名辞書刊行会、1926年、2418頁 。
- ^ 『野史』にはこのとき「伊奈侍従」を号したとある[27]。
- ^ 豊臣秀吉文書集 五, p. 41.
- ^ 豊臣秀吉文書集 五, pp. 85–86.
- ^ 吉村 1934, p. 126, 140.
- ^ 吉村茂三郎 著、吉村茂三郎 編『国立国会図書館デジタルコレクション 松浦叢書 郷土史料』 第1、吉村茂三郎、1934年、173頁 。
- ^ 箕輪町誌編纂刊行委員会 編『箕輪町誌 歴史編』箕輪町誌編纂刊行委員会、1986年、481頁。
- ^ 中村質、長正統、長節子『特別史跡名護屋城跡並びに陣跡3 文禄・慶長の役城跡図集』佐賀県教育委員会、1985年、65-70頁。
参考文献
編集- 谷口克広; 高木昭作(監修)『織田信長家臣人名辞典』吉川弘文館、1995年、445頁。ISBN 4642027432。
- 岡田正人『織田信長総合事典』雄山閣出版、1999年、255頁。ISBN 4639016328。
- 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』〈角川選書〉2016年、169-170頁。ISBN 4047035998。
- 和田裕弘『織田信長の家臣団-天下人の嫡男派閥と人間関係』〈中公新書〉2017年、59-61頁。ISBN 4121024214。
- 和田裕弘『織田信忠-天下人の嫡男』〈中公新書〉2019年、155頁。ISBN 4121025555。
- 平山優『武田遺領をめぐる動乱と秀吉の野望-天正壬午の乱から小田原合戦まで』戎光祥出版、2011年。ISBN 4864030359。
- 二木謙一『秀吉の接待-毛利輝元上洛日記を読み解く』学習研究社、2008年。ISBN 4054034683。
- 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 一 永禄八年~天正十一年』吉川弘文館、2015年。ISBN 4642014217。
- 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 ニ 天正十二年~天正十三年』吉川弘文館、2016年。ISBN 4642014225。
- 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 四 天正十七年~天正十八年』吉川弘文館、2018年。ISBN 4642014241。
- 名古屋市博物館 編『豊臣秀吉文書集 五 天正十九年~文禄元年』吉川弘文館、2019年。ISBN 464201425X。