アーキー・シアンフロッコ

アンジェロ・ドミニク・シアンフロッコAngelo Dominic "Archi" Cianfrocco , 1966年10月6日 - )は、アメリカ合衆国ニューヨーク州オナイダ郡ローム出身の元プロ野球選手内野手)。右投右打。

アーキー・シアンフロッコ
Archi Cianfrocco
2024年6月14日
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 ニューヨーク州オナイダ郡ローム
生年月日 (1966-10-06) 1966年10月6日(58歳)
身長
体重
6' 5" =約195.6 cm
200 lb =約90.7 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 三塁手一塁手
プロ入り 1987年 ドラフト5巡目(全体122位)でモントリオール・エクスポズから指名
初出場 MLB / 1992年4月8日
NPB / 1999年4月3日[1]
最終出場 MLB / 1998年9月26日
NPB / 1999年4月25日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

経歴

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1987年MLBドラフト5巡目(全体122位)でモントリオール・エクスポズから指名され契約[2]1992年4月8日にメジャーデビュー。翌1993年シーズン途中にサンディエゴ・パドレスに移籍するが、同年は計12本塁打をマークした。1994年以降はユーティリティープレイヤーとしての側面が強くなり、1996年には投手中堅手を除く7ポジションで出場した。しかし打撃には粗さが目立ち、1996年・1997年と2年連続でメジャーで過ごしたが、2シーズンで合計412打数・136三振を記録した一方、本塁打はわずか6本に終わっていた[3]

1998年までのMLB通算成績は500試合出場・打率.241・34本塁打・185打点[4]。同年オフにパワフルな打撃に加え[5]、内野を中心にほとんどのポジションを守れる器用さを買った西武ライオンズグレッグ・ブロッサーと共に新外国人として獲得[4]。推定年俸は8,000万円で、入団当初は「強肩でいい守備を見せる。広い西武ドーム向きの選手」と評されていた[6]

同年まで2年間西武に在籍していたドミンゴ・マルティネスは打撃には優れていたが、守備・鈍足が難点だった[7]。マルティネスを4番に据えた西武(東尾修監督)はパシフィック・リーグ(パ・リーグ)連覇を果たしたが、日本シリーズでは指名打者制のないセントラル・リーグ(セ・リーグ)球団主催試合[注 1]の際にマルティネスを使えず[注 2]、2年連続で敗退した[7]。このことから同年限りでマルティネスを解雇し[7][5]、シアンフロッコを獲得した[5]

しかし本拠地・西武ドームで開かれた1999年の開幕戦(4月3日・対福岡ダイエーホークス戦)には5番・三塁手で先発出場したものの[1]、球に当てることすらままならぬほどの打撃不振ですぐ7番に下げられた。加えて、得意であるはずの守備でもお粗末なプレーを連発し(15試合で5失策)、4月末には二軍イースタン・リーグ)に降格[5]。6月27日には早くも戦力外通告を受け[8]、7月5日に自由契約となった。

同年の西武は外国人4選手(シアンフロッコ、ブロッサー、アラン・ジンターコーリー・ポール)の本塁打数を合計しても25本で、前年のマルティネス1人の本塁打(30本塁打)よりも少なかったが、その中でもシアンフロッコは年俸8,000万円ながら計15試合で打率.163・2本塁打・5打点と、最も打てなかった[5]。結局、同年の西武は新人・松坂大輔が16勝を挙げ最多勝を獲得するなど盤石の投手陣を擁した一方で貧打に泣き、リーグ3連覇を逃す結果となった[9]

詳細情報

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年度別打撃成績

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O
P
S
1992 MON 86 247 232 25 56 5 2 6 83 30 3 0 1 2 11 0 1 66 2 .241 .276 .358 .634
1993 12 17 17 3 4 1 0 1 8 1 0 0 0 0 0 0 0 5 0 .235 .235 .471 .706
SD 84 306 279 27 68 10 2 11 115 47 2 0 2 5 17 1 3 64 9 .244 .289 .412 .702
'93計 96 323 296 30 72 11 2 12 123 48 2 0 2 5 17 1 3 69 9 .243 .287 .416 .702
1994 59 156 146 9 32 8 0 4 52 13 2 0 1 2 3 0 4 39 2 .219 .252 .356 .608
1995 51 132 118 22 31 7 0 5 53 31 0 2 0 1 11 1 2 28 3 .263 .333 .449 .782
1996 79 203 192 21 54 13 3 2 79 32 1 0 0 1 8 0 2 56 4 .281 .315 .411 .727
1997 89 251 220 25 54 12 0 4 78 26 7 1 1 2 25 1 3 80 11 .245 .328 .355 .683
1998 40 80 72 4 9 3 0 1 15 5 1 0 2 0 5 0 1 22 3 .125 .192 .208 .401
1999 西武 15 47 43 3 7 0 0 2 13 5 2 0 0 0 4 0 0 14 3 .163 .234 .302 .536
MLB:7年 500 1392 1276 136 308 59 7 34 483 185 16 3 7 13 80 3 16 360 34 .241 .292 .379 .670
NPB:1年 15 47 43 3 7 0 0 2 13 5 2 0 0 0 4 0 0 14 3 .163 .234 .302 .536

記録

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NPB

背番号

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  • 61(1992年 - 同年途中 )
  • 14(1992年途中 - 1993年途中)
  • 26(1993年途中 - 1994年)
  • 29(1995年 - 1998年)
  • 4(1999年)

脚注

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注釈

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  1. ^ 1997年ヤクルトスワローズ1998年横浜ベイスターズが対戦相手だった。
  2. ^ 左翼手で使うプランもあったが、あまりの守備範囲の狭さに断念した。なお、マルティネスは後に読売ジャイアンツ(巨人)に所属した際(1999年 - 2001年)には左翼手も経験した。

出典

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  1. ^ a b c ベースボール・マガジン社 1999, p. 147.
  2. ^ a b Archi Cianfrocco Stats” (英語). Baseball-Reference.com. Sports Reference. 2020年8月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  3. ^ a b フジテレビジョン『プロ野球ニュース』 編『プロ野球ニュース イヤーブック 選手名鑑 '99』(第1刷発行)ザ・マサダ、1999年3月5日、127頁。 
  4. ^ a b 江川卓二宮清純『江川卓・スカウティングレポート'99』ザ・マサダ〈第1刷発行〉、1999年3月25日、223頁。ISBN 978-4915977848 
  5. ^ a b c d e 日本野球を罵倒する発言も…“平成ダメ助っ人”は誰だ?<パ・リーグ編>」『AERA朝日新聞出版、2019年2月18日、1面。オリジナルの2020年2月3日時点におけるアーカイブ。2020年2月3日閲覧。
  6. ^ ホームラン 1999, p. 117.
  7. ^ a b c 平成助っ人賛歌 ドミンゴ・マルティネス 西武と巨人で清原和博との不思議な因縁に翻弄された男/平成助っ人賛歌【プロ野球死亡遊戯】」『週刊ベースボールONLINEベースボール・マガジン社、2018年9月26日。オリジナルの2020年8月12日時点におけるアーカイブ。2020年8月12日閲覧。
  8. ^ ベースボール・マガジン社 1999, p. 49.
  9. ^ ベースボール・マガジン社 1999, pp. 10–11.

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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