えびはら 武司(えびはら たけし、男性、1954年6月5日[1] - )は、日本漫画家

えびはら 武司
(2019年10月)
(2019年10月)
生誕 (1954-06-05) 1954年6月5日(70歳)
日本の旗 日本京都府
職業 漫画家
活動期間 1980年 -
ジャンル 少年漫画
代表作まいっちんぐマチコ先生
公式サイト えびはら武司・マチコ先生 公式サイト
テンプレートを表示

代表作は、アニメ化や実写映画化もされた「まいっちんぐマチコ先生」。

人物

編集

京都府で生まれ、8歳時に千葉県に移り住む[1]。小学校では、関西なまりが受けて一躍人気者になる。その後、両親の仕事の都合で県内を転々とし続ける。

1973年から1975年にかけて、大ヒット漫画家である藤子不二雄藤子スタジオに、18歳から20歳のころまで所属していた[1]。当時藤子不二雄には10人以上のアシスタントがいたが、ファンからアシスタントになったのはえびはらが初であるため、「藤子の最初の弟子」と称される[2]

「社会常識を知らなさすぎるから、普通の会社で働いてこい」と言われて藤子スタジオを退社。藤子スタジオ退社後は広告代理店に勤めた[1]

漫画家デビューする際には「競争率が低そう」なので、学研を選んだ。編集部を訪れるとたまたま編集長しかおらず、その場でデビューが決まった。1980年3月に少年チャレンジ掲載の『マチコ先生のパンティー』を発表[1]

上京後、同年5月より『まいっちんぐマチコ先生』を連載開始[1]。連載開始後は千葉県に戻る[1]。同作はアニメ化・実写映画化もされるなど、大ヒットとなった。しかし、マチコ先生を連載してた学研の雑誌が廃刊し、他社の編集者からもオファーがあったが、世話になっていた学研でしか描かなかった。

2000年に日本工学院専門学校蒲田校講師となる[注 1][1]。2001年以降は『コミック伝説マガジン』、『B.L.T.』などで新作を連載している[1]

藤子不二雄とのエピソード

編集

先の通り、藤子不二雄の両名のアシスタントを経験している。

ジャイアンの本名「武(たけし)」や誕生日の6月15日はえびはらから取られたものであり[3]、同著によれば、藤子は当初「ジャイアンの本名を決めると同じ名前の子がいじめられないか」を心配していたが、本名を教えてほしいというファンレターの数の多さから遂に折れ、「身近な人からとったと言えば愛される対象になるのではないか」とアシスタントのえびはらの名前を使ったという[注 2]

ちなみに、『まいっちんぐマチコ先生』を描こうと思った理由は、「藤子不二雄先生の影響を強く受けすぎて、どうしても先生の漫画と似たような話ばかりを描いてしまうため、先生が嫌いな過剰なお色気漫画に挑戦した結果、産まれた作品」とインタビューの中で語っている[4]

『マチコ先生』が4巻目で100万部を突破した際には、京王プラザホテルに藤本と安孫子の2人を招待して祝った。

なお、『西原理恵子の人生画力対決』第113回(単行本第7巻収録)で、『ドラえもん』の「源静香の入浴シーンを描いた」と語っていたとされるが、その際にえびはらが描いたのは身体だけであり、顔は藤本(のちの藤子・F・不二雄)が描いたとのことである(えびはらが関わったのは一部の回のみ。『ドラえもん』すべての回についての発言ではない。藤本は静香の身体部分にこだわり、単行本収録時に自ら描き直したこともある)。

また、『バケルくん』は「自分がクレームを入れていたら(藤子・F・不二雄先生が)書きにくくなって終了した」とのことも明かしている[5]

主な作品

編集

関連人物

編集

師匠

編集

アシスタント

編集

その他

編集
  • 藤子・F・不二雄大全集『バケルくん』(2009年、小学館)の解説を書いている。
  • 週刊誌 FLASH 2015年12月22日号の「お色気マンガベスト10」に『まいっちんぐマチコ先生』がランクインし、コメントした。マチコ先生のモデルは「全体的に宮崎美子、髪型は大場久美子、胸はアグネス・ラム」、また「まいっちんぐ」という言葉は雑誌『ビックリハウス』に載っていたもので、ポーズはえびはらがモデルを使って考案したもの、と述べている。

注釈

編集
  1. ^ 2014年現在も同校の講師であるかは不明であるが、公式サイトのnewsによれば、2012年時点では何らかの講師の職に就いており、2013年 こざきゆう他との共著『からだのひみつ』p.88でも、「専門学校の講師」であるとされる。
  2. ^ ただし、ジャイアンの本名「たけし」の初出は、「小学四年生」1972年6月号初出の『おはなしバッジ』(てんコミ3巻収録)であり、えびはらが藤子スタジオに入る前である。

出典

編集

外部リンク

編集