トヨタ・MR2
トヨタ・MR2 | |
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![]() 2代目 | |
概要 | |
販売期間 | 1984年– 1999年 |
ボディ | |
ボディタイプ | 2ドアクーペ |
エンジン位置 | ミッドシップ |
駆動方式 | 後輪駆動 |
系譜 | |
後継 | トヨタ・MR-S |
MR2(エムアールツー)は、トヨタ自動車が1984年(昭和59年)から1999年(平成11年)まで製造・販売していたクーペ型のスポーツカー。日本車史上初の市販ミッドシップ車である[1]。
初代 AW10/11型(1984年-1989年)
トヨタ・MR2(初代) AW10/11型 | |
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![]() 前期型(1984年6月 - 1986年8月) | |
![]() 後期型(1986年8月 - 1989年10月) | |
![]() インテリア | |
概要 | |
製造国 |
![]() |
販売期間 | 1984年6月 – 1989年10月 |
設計統括 | 吉田明夫 |
ボディ | |
乗車定員 | 2名 |
ボディタイプ | 2ドアクーペ |
エンジン位置 | ミッドシップ |
駆動方式 | 後輪駆動 |
パワートレイン | |
エンジン | 本文参照 |
変速機 | 4速AT / 5速MT |
前 | ストラット式 |
後 | ストラット式 |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,320 mm |
全長 | 3,950 mm |
全幅 | 1,665 mm |
全高 | 1,250 mm |
車両重量 | 960 - 1,120kg |
その他 | |
最小回転半径 | 4.8m |
販売終了前月までの新車登録台数の累計 | 4万20台[2] |
1979年(昭和54年)に豊田英二社長が主査たちに飛ばした、「トヨタには将来、常識では考えられないひと味違ったクルマがあってもいいのではないか」という檄のもと開発が着手された[3]。1983年(昭和58年)の東京モーターショーで発表されたコンセプトカー・SV-3を若干の仕様変更後、ほぼそのままの形で1984年(昭和59年)6月に発売された。製造はセントラル自動車(相模原市の旧工場。現在のトヨタ自動車東日本)。
1984年度の日本カー・オブ・ザ・イヤー受賞車であり、北米でも1985年にカー・オブ・ザ・イヤーを受賞している。
低コストに量産性を高めるため、足回り、エンジン、トランスアクスルは既存の前輪駆動車(E80型カローラ)のものが流用された。同様な成り立ちのフィアット・X1/9や米・ゼネラルモーターズのポンティアック・フィエロを参考にしたとの話や、英国ロータスと技術提携していた時期の開発であることから、一部ではロータスが設計した車両をトヨタが再設計してコストダウンしたものとの説もあった(ただしロータスの関与についての確認はヨーロッパでの実走テストにテストドライバーが参加したことのみ)。
1986年(昭和61年)8月には大規模改良が行われ、スーパーチャージャーやプロトタイプ車で存在していたTバールーフの装備車が設定された(通称後期型)[4]。外装ではバンパーやサイドモールが車体色と同色に統一されている。
1988年(昭和63年)の一部改良で電動格納ドアミラーの設定、内装生地の変更、ハイマウントストップランプの設定が行われた(通称最終型)。AW型は全グレードにおいてパワーステアリングの設定はなかった。
1989年 (平成元年)9月[5]に生産終了。在庫対応分のみの販売となり、販売も翌10月に終了した。
生産終了から20年ほどまでは中古車市場で取引されることも多く、維持管理部品のメーカー供給も(加工・流用で対応できる部品を除いて)ほぼ問題なく行われていたが、20年を超えるころから内外装関連で廃番部品が多くなり、部品取り車、中古パーツが高騰しつつある。
なお、AW1#系で採用されたエンブレムは七宝で、AWの文字を模した鳥(猛禽類)が描かれているが、補給部品は2010年にプラスチックベースのものに変更された。
トヨタ博物館には開発コード「730B」と呼ばれるプロトタイプ車(前述の東京モーターショー出展車とは異なる)が保存展示されており、量産車とは異なり丸みを帯びたデザインとなっている。
グレード構成
- S
- G
- G-Limited
前・後期型ともSは3A-LU型1,500 ccエンジン(日本国内仕様のみ)、GとG-Limitedは4A-GELU型1,600 ccエンジンをそれぞれ搭載。運輸省認定型式は1,500 ccエンジン車がE-AW10型、1,600 ccエンジン車はE-AW11型。 前期型のG、G-Limitedはムーンルーフ装着車、後期型のGおよびG-Limitedには、Tバールーフ装着車及びスーパーチャージャー装着車(4A-GZE型1,600 ccエンジン搭載)を設定。
マイナーチェンジによる差異
- 前期型初期仕様のバンパーとスポイラーは黒の無塗装ウレタン素材である(1985年の一部改良でボディ同色となる)。
- 前期型の中でも初期に生産された車両のリアスポイラーはFRP製の物ではなく木製の物が装着されていた(当時の技術では成型が困難だったことが理由)
- 前期型は全車とも車両重量が1,000 kg以下であり自動車重量税が安い(後期型の重量増は主に側面衝突対応のため)。
- 前期型のカーオーディオの取付スペースは1DINのみで、空調のコントロールパネルが後期型と異なる。
- 最終型では一部の仕様に電動格納ドアミラー、ぼかし入りブロンズガラス、トランクスポイラー内蔵LEDストップランプの設定が行われ、内装生地の変更が行われた。
限定車(特別仕様車)として、1985年(昭和60年)にG-Limitedをベースに「ホワイトランナー(WHITE LANNER)」、「1600Gスポーツパッケージ(前期のみ)」、1986年(昭和61年)にGスポーツパッケージをベースに「ブラックリミテッド」(前期ベース)が設定された。「1600Gスポーツパッケージ」(「ブラックリミテッド」を含む)はリアスタビライザーを装備している(形状、線径が後の「ADパッケージ」仕様車に取り付けられているものとは異なる)。
後期モデルのスーパーチャージャー車には、スプリング・ショックアブソーバーでサスペンション特性を変更し、フロントスタビライザーの径サイズアップ、リアスタビライザーの装着、回転方向指定タイヤのブリヂストンPOTENZA RE71などの装備を加えた「ADパッケージ仕様車」が設定されていた。なお後期モデルでは「ADパッケージ仕様車」以外のモデルにはリアスタビライザーの設定がない。
マイナーチェンジでの過給器設定に際し、トヨタでは4A-G型エンジンのターボチャージャー仕様とスーパーチャージャー仕様を試作し、比較検討を行った。その結果、アクセルレスポンスや出力特性に優れるスーパーチャージャー仕様が採用された[6]。
発売された特別仕様車
- 1985年1月- ホワイトランナー(300台の限定生産)
- ボディ色 スーパーホワイトII
- デカールによるシルバーの二本ライン
- バンパー、リップスポイラー、ドアミラー、マッドガードをボディーと同色化
- シートを黒と赤のツートンカラーへ変更
- パワーウインドウおよび電磁ドアロック、フロントブロンズガラスを装備。
- 1986年1月- ブラックリミテッド
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- ブラックメタリックの専用ボディ色
- フロントとリアスポイラー、マッドガードをボディーと同色化
- 専用のプロテクションモール
- ライトグレーの専用シート表皮
- 専用のステアリング・ホイール、シフトノブ
- 1988年1月- スーパーエディション
- ホワイトとベージュメタリックのツートーンの専用ボディ色
- アウタードアハンドルをボディ同色に
- カラードリヤマッドガード
- カラードアルミホイール
- フロントブロンズティンテッドガラス
- 一部が本革のシート、本革巻きシフトノブとパーキングブレーキレバーグリップ
- MOMO製の本革巻ステアリング
- 1989年1月- スーパーエディションII
- ブラキッシュブルーマイカの専用ボディ色
- カラードリヤマッドガード
- レカロシート
- MOMO製の本革巻ステアリング
- 本革巻シフトノブ、本革巻パーキングブレーキレバーグリップ
- 専用ドアトリム、フィン付きフロントワイパーを装備
エンジン諸元
エンジンはすべて、直列4気筒のガソリンエンジンである。
モデル | エンジン型式 | 弁 | タイミング | 吸気方式 | 排気量 (cc) | 内径 x 行程 (mm) | 圧縮率 | 最高出力 (PS (kW)/rpm) |
最大トルク (kgm (Nm)/rpm) |
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1500S (1984年6月 - 1988年7月)[7] | 3A-LU | SOHC 8バルブ | キャブレター AI | 自然吸気 | 1,452 | 77.5x77 | 9.3:1 | 83 (61) / 5,600 | 12 (118) / 3,600 |
1500S (1988年8月 - 1989年10月)[7] | 70 (51) / 5,600 | 10.9 (107) / 3,600 | |||||||
1600G、G Limited (1984年6月 - 1987年7月)[7] | 4A-GELU | DOHC 16バルブ | 電子燃料噴射 | 1,587 | 81x77 | 9.4:1 | 130 (96) / 6,600 | 15.2 (149) / 5,200 | |
1600G、G Limited (1987年8月 - 1989年10月)[7] | 120 (88) / 6,600 | 14.5 (142) / 5,200 | |||||||
MR2 1984 (US)[8] | 10.0:1 | 124 (91) / 6,600 | 14.5 (142) / 5,000 | ||||||
1600G、G Limitedスーパーチャージャー[7] | 4A-GZE | スーパーチャージャー | 8.0:1 | 145 (107) / 6,400 | 19 (186) / 4,400 |
2代目 SW20/21型(1989年-1999年)
トヨタ・MR2(2代目) SW20(3S-G(T)E搭載車) SW21(5S-FE搭載車) | |
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![]() I型GT-i(欧州仕様、1989年10月 - 1991年11月) | |
![]() II型G-Limited(1991年12月 - 1993年10月) | |
![]() V型GT(1997年12月 - 1999年10月) | |
概要 | |
製造国 |
![]() |
販売期間 | 1989年10月 – 1999年10月 |
設計統括 | 有馬和俊 |
ボディ | |
乗車定員 | 2名 |
ボディタイプ | 2ドアクーペ |
エンジン位置 | ミッドシップ |
駆動方式 | 後輪駆動 |
プラットフォーム | セリカ/コロナ/カリーナ系プラットフォーム |
パワートレイン | |
エンジン | 本文参照 |
変速機 | 4速AT / 5速MT |
前 | ストラット式 |
後 | ストラット式 |
車両寸法 | |
ホイールベース | 2,400mm |
全長 | 4,170mm |
全幅 | 1,695mm |
全高 | 1,235mm(1,240mm I型) |
車両重量 | 1,210-1,270kg |
その他 | |
最小回転半径 | 4.9m |
販売期間中の新車登録台数の累計 | 7万9304台[9] |
系譜 | |
後継 | トヨタ・MR-S |
- 日本仕様
1989年10月、初のモデルチェンジを実施(通称I型)。型式は全車共通でSW20。ベース車がセリカ/コロナ/カリーナと大型化し、エンジンもセリカと同じ直列4気筒の2000ccにターボチャージャーを追加した3S-GTE型と、その自然吸気仕様となるスポーツツインカムの3S-GE型を搭載する。当時世界初の試みとして、ステアリングの切れ角に応じて光軸が左右に可動する、ステアリング連動フォグランプも話題となった。しかし、大幅に増加した車重やエンジンパワーに対する足回りとブレーキの貧弱さは否めず、前輪の接地圧不足からくるハンドリングレスポンスの悪さ、オプションにもLSDが設定されないなど、スポーツ走行時における数々の問題点を指摘された。特にリアが唐突に滑ってスピンをしやすい車だと危険視された。ボディカラーは「スーパーホワイトIII」「スーパーレッドIII」「ブラック」「ダークターコイズマイカ」「クリスタルパールマイカ」「スーパーブライトイエロー」を設定。
1991年4月、初の限定車であるGリミテッド特別仕様車「スーパーエディション」が限定850台にて発売。Tバールーフのみで特別ボディカラーとして「ブルーイッシュグレーアージェンタムマイカ」が設定された。内装はGTに準じた部分本革&エクセーヌシート、エクセーヌ張りのドアトリムとされた。
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1991年12月に最初のマイナーチェンジ(通称II型)。I型で酷評された足回りを中心に見直しが行われた。主な変更点としては、タイヤサイズの変更、前195/60R14、後205/60R14だったものが、前205/55R15、後225/50R15となり大径化と扁平化されたことでグリップ性能が向上。フロントサスペンションのストローク量増加とスタビライザーの大型化、ストラットタワーバーの追加、リアサスペンションアームが延長され取付位置が変更となったことや、再設計されたリアサスペンションメンバーによってリアのサスペンション伸縮時のアライメント変化が抑制された。ブレーキローター大型化、ブレーキブースター強化、冷却用ダクトの追加、シフトストロークのショート化、フロントリップスポイラーの大型化、ホイール及びステアリングのデザイン変更が行われた。またターボ車グレードのGT系にはビスカス式LSDの標準装備、ビルシュタイン製ショックアブソーバーの採用、トランスミッションの2速にはトリプルコーンシンクロが採用された。
I型で問題視された「プロが操ってもスポーツ走行時に唐突にスピンしてしまう危険な車」「ハンドリングの初期レスポンスが鈍くスポーツカーらしくない」といった酷評はII型になって一変し高評価された。
また、ターボ車のGTグレードからABSと電動格納式ドアミラーと部分本革シートとカセット一体式ラジオと8スピーカーとフロントガラスがディンテッドという仕様を省略または変更した廉価版となるGT-Sグレードがラインナップに追加された。車重がGTより20kg軽く1270kgであったことからスポーツ性能を期待する層から支持され、ターボグレードの9割以上はGT-Sという販売比率となっていた。
GTにはメーカーオプション扱いでトラクションコントロールが装着可能となった。GT-SでもABSとセットに限りメーカーオプションとなっていた。
フォグランプの色も黄色から白に変更された。ボディカラーは大幅に変更され、白と赤がMR2専用から他のトヨタ車と共通の「スーパーホワイトII」と「スーパーレッドII」にそれぞれ変更、「ミディアムブルーマイカメタリック」と「ターコイズマイカメタリック」と特別仕様車専用色であった「ブルーイッシュグレーアージェンタムマイカ」が新色として設定された。「ダークターコイズマイカ」と「クリスタルパールマイカ」は廃止された。
1993年11月、2度目のマイナーチェンジ(通称III型)。先にフルモデルチェンジしたセリカ(ST20#系)同様、Lジェトロ方式(メジャーリングプレート式)からDジェトロ方式へ変更。燃料ポンプの大型化、インジェクターの容量アップ、ターボチャージャーの改良とインタークーラーの変更、オイルフィルター取付位置の変更とそれに伴う容量増加など、エンジンを中心とした動力系の強化がなされた。これにより最高出力はターボモデルのGT系で225PSから245PSへ、NAモデルのG系で165PSからAT:170PS/MT:180PSへそれぞれ向上している。ABSはターボグレードのGT、GT-Sのみに装着できるメーカーオプションとしてスポーツABSが新しく設定された。前後左右のGセンサーで車両の状態を感知してABSを制御するもので、プロが乗っても富士スピードウェイのラップタイムがこのABSだけで1秒上がると評価された。II型ではGTグレードにABSが標準装備されていたが、スポーツABSが用意されたことでIII型ではGTであってもABSは装備されずオプション扱いとなっている。また従来のABSもメーカーオプションとしてラインナップに残されたため、ABSが2種類存在していた。
ストラットタワー部に金属プレートを入れるなどの補強が行われ、ボディ剛性がより向上している。フロントのキャスター角も変更されている。外観は、リアスポイラーやリアコンビネーションランプのデザインを変更。サイドモールとフロントリップスポイラーおよびサイドシル下部がボディ同色塗装された。これらの変更によってII型以前のモデルとは外観からも区別できる。ボディカラーは「ストロングブルーメタリック」と「ダークグリーンマイカ」が新色として設定され「ミディアムブルーマイカメタリック」と「ターコイズマイカメタリック」が廃止。しかし、バブル崩壊によるクーペ・スポーツカー需要の低下や実用性の劣悪さなど、MR2に限らずクーペ・スポーツカー全体を取り巻くさまざまな要因が災いして販売台数が低下。それに伴い、このマイナーチェンジを機に受注生産車扱いとなった。
1995年1月、MR2の生誕10周年を記念してGリミテッドをベースにした特別仕様車「ビルシュタインパッケージ」を期間限定発売。専用ボディカラーである「シルバーメタリック」を設定(他にはブラックも設定)し、ターボのGT系が採用するビルシュタイン製ショックアブソーバーとハイグリップタイヤ(ブリヂストン・ポテンザRE020)、専用アルミスカッフプレート、専用のグレーカラーのアルミホイールなどが装備されている。
1996年6月、一部改良(通称IV型)。スポーツABSの構造(4輪を個々に制御する4チャンネル式へ変更)やトラクションコントロールシステムを変更。ホイールは形状は同じながら光沢タイプとなったほか、全グレードにスポーツABSが標準装備となった。トラクションコントロールはGT/GT-Sのターボグレードのみにメーカーオプションとなっていたが、スポーツABSではない通常のABSを一緒に付けられてしまう弊害があった。
外観はガラス部がコストダウンのためにブロンズからグリーンへと変更、フロントのサイドターンランプの移設、クリアランスランプの白色化、ホイールの切削鏡面加工や、SRSエアバッグが運転席・助手席ともに標準装備になった。ボディカラーは「パープリッシュブルーマイカメタリック」と「ソニックシャドートーニング」と呼ばれるシルバーメタリックの外板色に屋根上が黒のツートンカラーが新設定され、「ストロングブルーメタリック」と「ブルーイッシュグレーアージェンタムマイカ」は廃止。
1997年12月、最後の一部改良(通称V型)。スポーツABSを再度構造変更(軽量化のため、4チャンネル式から3チャンネル式へ)、軽量ホイールに変更。NAエンジン搭載のG系は、3S-GEの最終進化型である「BEAMS」仕様の3S-GE(通称赤ヘッド)へと進化。新たに吸気側にVVT-iを採用、吸気側はDジェトロ方式からLジェトロ方式へ変更、サージタンクの形状見直し、排気側はエキゾーストマニホールドの形状最適化、ダイレクトイグニッションの採用により最高出力200PSを発生する。新たに、タイヤハウスの下部前面にエアスパッツを追加。リアスポイラーを大型の可変型タイプに変更し、空力面での改良も実施。また、新ダイアグノーシスの採用(国際規格化)している。内装がシート、エアバッグの小型化、ステアリングやシフトノブの変更、メーターの目盛りも赤色化。ボディカラーは「ダークパープルマイカ」と「オレンジマイカメタリック」と「ベージュマイカメタリック」が新設定され、「ダークグリーンマイカ」と「パープリッシュブルーマイカメタリック」が廃止。さらにI型から続いた「スーパーブライトイエロー」も廃止された。
1999年8月[10]、オーダーストップに伴い生産終了。在庫対応分のみの販売となる。
1999年10月[11]、後継モデルとなるMR-Sの登場に伴い販売終了。なお、欧州をはじめとした日本国外市場においては、MR-Sが引き続き「MR2」の名称を冠して販売された。
- 北米仕様
北米では1989年から1995年まで販売された。カナダでは1993年まで販売されている。エンジンは2種類用意されていた。一つは日本仕様と同じ2.0L 3S-GTEエンジンだが、最高出力と最大トルクが異なる。もう一つは自然吸気の2.2L 5S-FEエンジンで、こちらは4速ATと5速MTが設定された。ターボモデルは0–60 mph (0–97 km/h)加速6.1秒、1/4マイルを14.7秒でフィニッシュすることができた。
グレード構成
- 日本仕様
- GT
- GT-S(II型から)
- G-Limited
- G
GT、GT-Sは3S-GTE型エンジン、G-Limited、Gは3S-GE型エンジンをそれぞれ搭載。 ATはG-LimitedとGにのみ設定される。また、AT車はMT車より30kg重い。IV型からV型のMT車はLSDをオプションで選択できた。
- 欧州仕様
- Coupe
- GT-i Coupe
- GT-i T-Bar
- 北米仕様
- MR2
- MR2 Turbo
エンジン諸元
エンジンはすべて、直列4気筒DOHCのガソリンエンジンである。
モデル | エンジン型式 | 弁 | 吸気方式 | 排気量 (cc) | 内径 x 行程 (mm) | 圧縮率 | 最高出力 (PS (kW)/rpm) | 最大トルク (kgm (Nm)/rpm) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
MR2 (1990 - 92, US) | 5S-FE | 8バルブ | 自然吸気 | 2,164 | 87x91 | 9.5:1 | 132 (97) / 5,400 | 20 (196) / 4,400 |
MR2 (1993 - 95, US)[12] | 137 (101) / 5,400 | |||||||
Coupe (EU)[13] | 3S-FE | 16バルブ | 1,998 | 86x86 | 9.8:1 | 121 (89) / 5,600 | 18 (177) / 4,400 | |
GT-i Coupe (1990 - 95, EU)[14] | 3S-GE | 10:1 | 156 (115) / 6,600 | 19 (186) / 4,800 | ||||
GT-i Coupe (1996 - 99, EU) | 10.3:1 | 170 (125) / 7,000 | 19.5 (191) / 4,400 | |||||
I型 - II型[7] | 10.0:1 | 165 (121) / 6,800 | 19.5 (191.2) / 4,800 | |||||
III型 - IV型 (AT)[7] | 10.3:1 | 170 (125) / 6,600 | ||||||
III型 - IV型 (MT)[7] | 180 (132) / 7,000 | |||||||
V型[7] | 11.0:1 | 200 (147) / 7,000 | 21.0 (205.9) / 6,000 | |||||
MR2 Turbo (US) | 3S-GTE | ターボ | 9.0:1 | 203 (149) / 6,000 | 28 (275) / 3,200 | |||
I型 - II型[7] | 8.8:1 | 225 (165) / 6,000 | 31.0 (304) / 3,200 | |||||
III型 - V型 [7] | 8.5:1 | 245 (180) / 6,000 | 31.0 (304.0) / 4,000 |
自然吸気モデルとターボエンジン車の違いは、リアトランクの「Turbo」エンブレム(北米仕様)、サイドインテーク上の「TWIN CAM 16 TURBO」デカール(日本仕様)、隆起した通気口付きのグラスファイバー製エンジンリッド、フォグランプ、2つのシートの間に追加されたインテリアセンター収納コンパートメントなどである。なお、欧州仕様にはターボモデルが設定されなかった。
ターボモデルの機械的な違いは次のとおり。
- 3S-GTEエンジンと関連する空対空インタークーラーと異なる排気構成
- 異なる比率とより強力な車軸を備えた、より強く、より重いE153ギアボックス
- 燃料ポンプとラジエーターの大型化
- 3S-GEと3S-GTEエンジン搭載車はツインピストンフロントブレーキキャリパーを採用、5S-FEエンジン搭載車はシングルピストンキャリパーのみ
車名の由来
「Midship Runabout 2seater(ミッドシップ・ランアバウト・2シーター)」の頭文字から創作された造語[15]。もしくは「Mid-engine, Rear-wheel-drive, 2seater(ミッドエンジン・リアホイールドライブ・2シーター)」の略称[16]。ただしフランス語圏の市場では、「MR2」をフランス語で略して発声したときに冒涜的な言葉である「merde」のように聞こえるため、車両は「トヨタ・MR」と改名された[17]。
MR2をベースにした車両
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222D
1980年代中盤、トヨタは当時グループB規定のWRC(世界ラリー選手権)にTA64型セリカツインカムターボで参戦していたが、後輪駆動(FR)のセリカでは四輪駆動(4WD)勢の戦力を前に歯が立たなくなってきた。そこでトヨタは、セリカの後継となる4WDラリーカーの開発に着手した。車体はAW11型MR2をベースとし、3S-GTE型エンジンを搭載して駆動方式を4WD化したもので、開発コードは222Dであった。当初はグループB規定への参戦を想定していたが、1985年、グループBをさらに先鋭化させたグループSの立ち上げが決定し、222Dの参戦対象カテゴリーもグループSに変更された。実際に試作車が何台か製作されたが、1986年のヘンリ・トイヴォネンの死亡事故をはじめ重大事故が多発したグループBの廃止が決定し、同時にグループSも消滅したため、参戦は実現しなかった。このため競技への出走実績はないが、国内外に数台の試作車が現存している。
-
222D
フロント -
222D
リヤセクション -
222D
リヤ
MRスパイダー
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トヨタテクノクラフトが企画・制作した、2代目のオープンモデル。ベース車の屋根を切り取って簡易式の幌を付けた特装車である。受注販売となっており、うちIII型ベースが74台、IV型ベースが7台、V型ベースが8台、試作車両が3台と合計92台である。自然吸気エンジンのみで、ターボエンジンの設定はなかった。
また、後継車ZZW30型MR-Sも海外へはアメリカにはMR2スパイダー、それ以外はMR2ロードスターとして輸出されていた。
トムス・T020
トムス・T020 SW20型 | |
---|---|
![]() トムス・T020 (左側の車両。右側はノーマル。どちらもヘッドライトを丸目4灯に変更している。) | |
![]() レースカー | |
![]() バッジ | |
概要 | |
製造国 |
![]() |
販売期間 | 1995年[18] |
パワートレイン | |
エンジン | 3S-GE型 2.2L 直列4気筒DOHC[19] |
最高出力 | 235 hp (175 kW; 238 PS)/6,800rpm[19] |
トヨタのレース活動に関わりの深いトムスが手掛けたコンプリートカー。排気量を拡大した3S-GEエンジンに、F3カム、トムスハイパーインダクションカーボンインテークキットなどによって出力を向上させるとともに、フライホイールの軽量化によってエンジンの回転数も向上した。0-100km/h加速は4.9秒[19]。
エンジンのアップグレードに加えて、サスペンションやシャシといった足回りの加工も行われた。ブレーキも新しいパッドで作り直され、サスペンションの変更により低重心化された[19]ことでコーナリング中の敏捷性と安定性を向上させた。
エクステリアではエンジンスクープ、サイドスカート、フェラーリ・348風のリアライトグリル、鍛造ホイール、専用デザインのバンパー、大型のリアスポイラーなどが与えられた[20]。
T020自体はNA車であるが、トムスではウエストゲート、ブーストコントローラー、エアフィルター、「TOM'S Barrel」エキゾーストシステムの3S-GTE版、「T.E.C. II」エンジンコントロールユニットなど、ターボチャージャー付きモデル用のパーツも製造していた[21]。
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サード・MC8-R
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SW20をベースにGT1規定に沿って改造を施したレースカー。1995年から1997年にかけて、ル・マン24時間レースに出場した。
TRD2000GT
TRD2000GT SW20型 | |
---|---|
![]() TRD2000GT | |
![]() TRD Sports Proto | |
概要 | |
製造国 |
![]() |
販売期間 | 1998年[22] |
車両寸法 | |
全幅 | 1,755mm[23] |
その他 | |
販売期間中の新車登録台数の累計 | 35台[19] |
トヨタ・レーシング・デベロップメント(TRD)が製作したコンプリートカー。JGTCでの優勝を記念し、後述するGT300仕様をイメージした外装が与えられた[22]。JZA80型スープラをベースとした「TRD3000GT」の弟分にあたる。
片側を30mmずつワイド化したブリスターフェンダーを装着。フロントフェンダーは交換ではなく、もとあったものを加工している[24]。ウィングやバンパーなどのエアロキットは後付けも可能で、ディーラーに車両を持ち込み、TRD指定工場で構造変更を含めたすべての工程を行うというやり方だった。加えて、TRDによるアフターサービスまで付いていた[23]。ボディパネルの多くには軽量のグラスファイバー製コンポーネントが使用され[19]、エアロ一式での価格は110万円からとなっていた[24]。独占性を確保するために、当時としては高額な金額で提供された結果、トヨタテクノクラフトが完成させたファクトリーカーはわずか35台のみとなった。
パーツメニューは以下の通り[23]。
- フロントバンパー
- フロントブリスターフェンダー
- サイドステップ
- リアブリスターフェンダー
- フューエルリッド
- 可変式リアウィング[24]
- トランクフードエクステンション
- リアバンパー
灯火類は純正のものから移植される。また、ホイールとエンブレム、インテリア[19]は専用のものが用意されていた[23]。ほかにもエンジンのチューニング、サスペンションのアップグレードなどが用意されていた。どのパーツを取り付けるかはオーナー自身が自由に選択できたため、2000GTは2つとして同じものはない[19]。
改造されたほぼすべての車には、サスペンションとエンジンの両方に大幅な変更が加えられるなど、他のTRDパーツも取り付けられていた。ほとんどの車はTRDのボルトオンによってパワーアップし、中には最高出力500PS(368kW)、1,100kg以下という驚異的なパワーウェイトレシオを誇る車もあった[25]。また、少なくとも1台は最高出力373kWを発生させたと噂されているが、エンジンにはほとんど手を加えていないものも何台かある。TRDジャパンは、サードパーティーの改造に必要なすべてのボディパーツを含む少数のキットしか提供しなかったが、トヨタテクノクラフトはコンプリートカーそのものを提供した。
TRD2000GTの登録車[26]を除けば、トヨタテクノクラフトのオリジナル車が現在何台現存しているかは不明であるが、約10台のコンバージョンキットがTRDジャパンから米国に輸入され、改造されたと噂されている[27]。
車自体は完全に新しい車として再分類され、本物かつ希少であることを示すために、ボディに特別な番号が付けられたTRD VINプレートが付けられた[19]。
JGTC GT300仕様
1996年からJGTC(全日本GT選手権)のGT300クラスに参戦した、土屋春雄率いるつちやエンジニアリングがMR2を採用。1998年に鈴木恵一/舘信吾(翌年急逝)組、1999年もアペックスとジョイントした新田守男/高木真一組と2年連続でチャンピオンとなり、プライベーターチームの雄として名を馳せた。特に1998年の6戦5勝という驚異的な勝率は、2020年現在まで破られていない。
また井村屋グループ支援する井村屋レーシングやファーストレーシング、KRAFTもMR2を採用した。現在政治家として知られる三原じゅん子も、ファーストレーシングのMR2に乗っていた。
関連項目
注釈
- ^ トヨタ・初代MR2(1984年〜)トヨタ 歴代スポーツカー<1980年代>3話GAZOO.com
- ^ デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第52号3ページより。
- ^ 『80年代トヨタ車のすべて 保存版記録集』三栄書房刊行 2018年6月6日
- ^ Joe Clifford (22 February 2022). “22 Toyota MR2 facts you might not know”. TOYOTA UK MAGAZINE. 21 April 2024閲覧。
- ^ “MR2(トヨタ)1984年6月~1989年9月生産モデルのカタログ”. リクルート株式会社 (2020年1月9日). 2020年1月9日閲覧。
- ^ テレビ神奈川・新車情報86 No.482
- ^ a b c d e f g h i j k “トヨタ MR2の歴代モデル・グレード・外装・内装写真一覧”. MōTA. 2024年4月21日閲覧。
- ^ “1984 Toyota MR2” (英語). Carfolio (2013年2月28日). 2021年11月21日閲覧。
- ^ デアゴスティーニジャパン週刊日本の名車第100号(最終号)5ページより。
- ^ “MR2(1989年10月~1999年8月)”. トヨタ自動車株式会社 (2020年1月9日). 2020年1月9日閲覧。
- ^ “MR2(トヨタ)1989年10月~1999年10月生産モデルのカタログ”. リクルート株式会社 (2020年1月9日). 2020年1月9日閲覧。
- ^ “1990 Toyota MR2 (5S-FE)” (英語). Carfolio (2013年2月28日). 2021年11月21日閲覧。
- ^ “1990 Toyota MR2” (英語). Carfolio (2013年2月28日). 2021年11月21日閲覧。
- ^ “1990 Toyota MR2 2.0L 5MT RWD (156 HP)” (英語). autoevolution (2023年11月15日). 2024年4月21日閲覧。
- ^ Crouch, David (25 February 2015). "The Toyota MR2 – History" (Press release). UK: Toyota. 2017年1月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年12月9日閲覧。
- ^ “MR2 History”. 2011年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2010年8月6日閲覧。
- ^ Burton 2015, M-R-deux.
- ^ “会社沿革”. TOM'S. 18 Jan 2024閲覧。
- ^ a b c d e f g h i Ben (February 10, 2019). “Toyota MR2 History – Every Generation”. GARAGE DREAMS. 18 Jan 2024閲覧。
- ^ “mr2TOM'S_T020_parts”. sw20.s6.xrea.com. 2017年2月7日閲覧。
- ^ “TOM'S T020 Parts List 2”. sw20.s6.xrea.com. 2017年2月7日閲覧。
- ^ a b “HERITAGE -Product-”. TRD MOTORSPORTS. 17 Jan 2024閲覧。
- ^ a b c d “TRD2000GTの画像発見!ディーラーで買えたトヨタMR2のワイドボディ・コンプリートカー”. 車×3(轟Car3) (2021年7月20日). 16 Jan 2024閲覧。
- ^ a b c 藤田竜太 (2022年2月17日). “エンジンまで手が入った「本格派」だらけのTRDコンプリートカー7選が見かけたら即買い必至だった!”. AUTO MESSE WEB. 17 Jan 2024閲覧。
- ^ “Toyota MR2 Buyer's Guide & History (SW20 MR2)” (英語). Garage Dreams (2020年1月24日). 2021年7月1日閲覧。
- ^ “TRD2000GT register”. 2011年6月10日閲覧。
- ^ Seeley, Geoff. “TRD2000GT MR2”. Mr2.com. 2009年4月28日閲覧。
外部リンク
マーキュリー・レッドストーン2号
(MR-2 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/09 08:31 UTC 版)
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![]() マーキュリー・レッドストーン2号の発射 | |
任務種別 | 試験飛行 |
---|---|
運用者 | NASA |
任務期間 | 16分39秒 |
飛行距離 | 679キロメートル |
遠地点 | 253キロメートル |
特性 | |
宇宙機 | マーキュリー計画5番機 |
製造者 | マクドネル・エアクラフト |
打ち上げ時重量 | 1,203キログラム (2,650 lb) |
任務開始 | |
打ち上げ日 | 1961年1月31日 16:55UTC |
ロケット | マーキュリー・レッドストーン発射機 MR-2 |
打上げ場所 | ケープカナベラル空軍基地 LC-5 |
任務終了 | |
回収担当 | USSドナー |
着陸日 | 1961年1月31日 17:12UTC |
マーキュリー計画 マーキュリー・レッドストーンシリーズ |
マーキュリー・レッドストーン2号(マーキュリー・レッドストーン2ごう、MR-2)は、アメリカ初の有人宇宙飛行計画であるマーキュリー計画の中のマーキュリー・レッドストーン発射機開発において行われた、最後から二番目の試験飛行である。チンパンジーのハムを乗せたマーキュリー宇宙船5番機は1961年1月31日16:55UTC、フロリダ州ケープカナベラル空軍基地のケープカナベラル空軍基地第5発射施設から発射され、16分39秒の弾道飛行をした後、大西洋上に着水した。
背景
この前に行われたマーキュリー・レッドストーン1A号では最高高度209キロメートル、距離378キロメートルを飛行していたが、この軌道は角度が急すぎ、人間を搭乗させるにはあまりにも大きな加速度を与えるものだった。このためマーキュリー・レッドストーン2号では最高高度185キロメートル、距離467キロメートルという、より低い軌道の弾道飛行を行うことを計画していた。
計画
マーキュリー宇宙船5番機には、環境制御・姿勢安定制御・(模型でなく) 実際に使用される逆噴射ロケット・音声通信・「閉回路」発射中止検知・着水用エアバッグという、以前の飛行にはない六つの新しい機構が搭載されていた。
ニューメキシコ州ホロマン (Holloman) 空軍基地でチンパンジーを飼育し訓練していた、医療専門家と飼育員20名および6匹のチンパンジー (メス4匹、オス2匹) は、1961年1月2日にフロリダ州ケープカナベラル空軍基地S格納庫の裏手にある宿営に移動した。6匹のチンパンジーは宇宙船のシミュレーターで3週間訓練を受け、発射の前々日、オスのハムが第一候補に、メスのミニーがその補助要員に選ばれた。選抜は厳しいものだったが、候補の中ではハムが最も快活で愛嬌があった。元の名前はアフリカのカメルーン出身の「65番チンパンジーのチャン (Chang)」で、1959年7月9日に空軍が購入し、発射時には3歳8ヶ月だった。HAMの名はホロマン航空宇宙医療センター (Holloman Aerospace Medical Center)の頭文字を取ってつけられた。
1961年1月31日12:52UTC、ハムが宇宙船に積み込まれた。秒読みはインバータの加熱と他の小さな問題により、ほぼ4時間遅れた。
16:55UTC、MR-2が発射された。1分後、発射角度が少なくとも1度高いまま上昇していることをCOM (コンピューター) が警告した。2分後、加速度が17 g (167 m/s²) に達するであろうことをCOMが予告した。2分17秒後、ロケットエンジンへの酸化剤の供給が停止した。液体酸素の供給が停止した際、閉回路発射中止検知システムはエンジン燃焼室内の圧力が変化したことを感知したため緊急脱出用ロケットに点火し、回収部隊にメーデーの信号を送った。
急角度で上昇し早い段階で脱出ロケットが作動したため、最高速度は予定の秒速1,970メートルではなく、2,298メートルに達した。逆噴射ロケットは脱出の過程ですでに投棄されていたため、宇宙船の速度を落とすことは不可能だった。これらの要因により、着水点は予定の場所を209キロメートル飛び越してしまい、また最高高度は185キロメートルのはずが253キロメートルにまで達してしまった。
発射から2分18秒後、船内の気圧が38kPAから7kPaに低下するというもう一つの問題が発生した。この不具合は、後に空気取入れ用シュノーケルのバルブが原因であることが突き止められた。発射時の振動でピンが緩んでバルブが開になってしまったのだが、ハムは気密式の座席に座っていたため、船内の気圧が低下しても何ら影響を受けることはなかった。座席内の気圧は正常に保たれ、また温度も16°Cから26°Cの適温を維持していた。
急激な加速に脱出ロケットの推進が加わったため、速度は予定の時速7,081キロメートルを超え9,426キロに達し、また最高高度は77キロメートル高くなった。宇宙船は16.5分間の飛行の後、発射場から679キロメートルの地点に着水した。無重力状態は4.9分間のはずが6.6分間になり、ハムは予定よりもほとんど3g (29 m/s²) も大きい14.7g (144 m/s²) の加速度を体験した。
ハムは与えられた命令をよくこなし、飛行中にレバーを約50回動かした。無重力状態での反応を撮影する搭載カメラは、最高高度に到達する間、驚くほどの量のほこりや塵が船内を漂っているのを記録した。
宇宙船は東部標準時の12:12p.m.に、回収部隊の視界の届かない場所に着水した。約12分後、機体から発せられる回収用の信号が始めて受信され、追跡すると直近の回収船から約96キロメートル離れていることが分かった。着水から27分後、哨戒機が大西洋上を漂う宇宙船を発見し、海軍に対し最も近いところにいる空母にヘリコプターを向かわせるよう要請した。
ヘリが到着したときには、機体は海面に横倒しになり水没しかかっていた。着水の衝撃でベリリウムの耐熱保護板が機体の底に激突し、チタン製の圧力隔壁に二つの穴を開けていたのである。着水用エアバッグはひどく損傷し、熱保護板は回収される前に宇宙船から引きちぎられていた。機体がひっくり返った後、開いてしまったシュノーケルのバルブから少なからぬ量の海水が船内に侵入していて、18:52UTCにヘリの乗員がやっとのことで宇宙船にフックを引っかけ釣り上げたときには、およそ360キログラムの海水が船内に入り込んでいるものと推定された。宇宙船はヘリで回収船USSドナーに運ばれ、甲板上に下ろされた。ハッチを開けるとハムは元気な様子で、リンゴ一個とオレンジの半分をひったくるようにして受け取った。
飛行後
飛行中に生じた様々な問題により、マーキュリー・レッドストーンは人間を乗せるにはまだ不十分であることが分かったため、MR-3の飛行は発射機開発の最終試験であるマーキュリー・レッドストーンBDの飛行が終了するまで延期されることとなった。
ハムは飛行終了後にワシントンD.C.の国立動物園に送られ、そこで17年を過ごし、1981年にはノースカロライナ州の動物園に移管され他のチンパンジーとともに群れの中で生活した。1983年1月19日、26歳で死亡し、ニューメキシコ州アラモゴードのニューメキシコ宇宙歴史博物館に、多くの宇宙に行った動物たちのうちの一頭として葬られた。
ハムの補助要員だったミニーは、マーキュリー計画で訓練されたチンパンジーの中では唯一のメスだった。同計画における役割を終了した後は、空軍のチンパンジー繁殖計画の一環として9匹の子供を産み、群れのメンバーの他の子供を育てる手助けなどをしていた。最後に残った宇宙ザルとして1998年まで生き延び、同年3月14日に41歳で死んだ。
MR-2で使用されたマーキュリー宇宙船5番機は、現在はカリフォルニア州ロサンゼルスのカリフォルニア科学センターに展示されている。
マーキュリー・レッドストーン2号弾道飛行経過
発射後時間 | 事象 | 詳細 |
---|---|---|
T+00:00:00 | 発射 | マーキュリー・レッドストーン発射。船内の時計が起動 |
T+00:00:16 | 軌道変更開始 | 1秒間に2度の割合で、90度から45度にまで機体の角度を傾け始める |
T+00:00:40 | 軌道変更終了 | 機体の角度が45度になる |
T+00:01:00 | 異常発生 | コンピューターが46度の角度で上昇していることを報告 |
T+00:01:24 | 最大動圧点 Max Q |
機体にかかる動圧が最大の~27.5kPa (575 lbf/ft²) に到達 |
T+00:02:17 | エンジン停止 | 予定より3秒早くエンジン停止。速度は秒速2.6キロメートル |
T+00:02:17 | 飛行中止。宇宙船分離 | 緊急脱出用ロケットに点火。回収部隊におそらく信号が送られる |
T+00:02:18 | 故障発生 | シュノーケルのバルブが開き、船内の気圧が38kPaから7kPaに低下する |
T+00:02:19 | 逆噴射ロケット投棄 | 逆噴射ロケットが投棄され耐熱保護板がむき出しになる |
T+00:02:20 | 緊急脱出用ロケット切り離し | 緊急脱出用ロケットが切り離される |
T+00:02:35 | 機体の転回操作 | 自動姿勢制御システムが宇宙船を180度転回させ、耐熱保護板を前方に向ける。大気圏再突入に備え、機首は34度下方に向けられる |
T+00:05:00 | 最大高度 | 最大高度約252.7キロメートルに到達。発射場からの距離は317キロメートル |
T+00:05:45 | 潜望鏡引込み | 再突入に備え、潜望鏡が自動的に船内に引き込まれる |
T+00:06:20 | 姿勢制御 | 自動姿勢制御システムが機体をピッチ角マイナス34度、ロール角0度、ヨー角0度に調整する |
T+00:08:24 | .05G操作 | 自動姿勢制御システムが大気圏突入を感知し、機体の姿勢を安定させるため毎秒10度の割合で機体をロール方向に回転させはじめる |
T+00:10:47 | 減速用パラシュート展開 | 高度6,700メートルで減速用パラシュートが展開し、秒速111メートル (時速399.6キロメートル) まで減速し機体を安定させる |
T+00:10:54 | シュノーケル展伸 | 高度6,000メートルで外気取入れ用のシュノーケルが伸ばされる。船室内の温度を下げるため、ECSと呼ばれる装置が緊急用酸素の濃度に切り替える |
T+00:11:24 | 主パラシュート展開 | 高度3,000メートルで主パラシュートが展開し、降下速度が秒速9メートル (時速32.4キロメートル) にまで減速される |
T+00:11:29 | 着水用エアバッグ展開 | 耐熱保護板が1.2メートル落とされ、着水用のエアバッグが展開される |
T+00:11:29 | 燃料投棄 | タンク内に残った燃料の過酸化水素が自動的に投棄される |
T+00:16:39 | 着水 | 発射地点から約679キロメートルの海洋上に着水 |
T+00:16:39 | 救命救急装置作動 | 救命救急装置が作動される。装置には、視認とサメよけのため海水に流される緑色の染料、ラジオビーコン (無線標識)、ホイップアンテナなどが含まれる |
参考文献
この記事にはアメリカ航空宇宙局が作成したアメリカ合衆国政府の著作物であるウェブサイトもしくは文書本文を含む。
- This New Ocean: A History of Project Mercury - NASA SP-4201
- NASA NSSDC Master Catalog
- Mercury spacecraft #5 display page on A Field Guide to American Spacecraft website.
関連項目
- 着水
外部リンク
MR.2
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 10:05 UTC 版)
1975年より、MR.1から32機が電子装備を更新した改良型MR.2へ改装が開始された。フォークランド紛争時に、空中給油装置とサイドワインダー空対空ミサイルが装備できるように改修された。
※この「MR.2」の解説は、「BAE ニムロッド」の解説の一部です。
「MR.2」を含む「BAE ニムロッド」の記事については、「BAE ニムロッド」の概要を参照ください。
- MR-2のページへのリンク