いま私たちは、高度情報社会に生きています。知識や情報が「洪水」のようにあふれる社会で生活しています。(中略)しかし、「過剰」はいいことなのです。浅い水たまりに大きな船を浮かべることはできません。情報に満ちた大海こそが必要なのです。そこでこそ、自前の海図が必要なのです。(「まえがき」より)

つまり、『「自分」で考える技術』(鷲田小彌太著、PHP研究所)において著者が訴えようとしているのは、「情報に満ちた大海」に溺れることなく、自分なりの基準を持って「自前の海図」を持つこと。自分で考えることの意義、考える技術の重要性、教養を持つこと、読書術、書き方など、「考える技術」をさまざまな角度から掘り下げているわけです。

従来になかったタイプの、「柔軟で広い視野を前提とした」哲学書といった印象。第6講「考えるための読書術」から、印象的な部分を引き出してみます。

忘れる読書

記憶したものを、どんどん忘れていくことを嘆く人は少なくありません。が、著者は「新しいものを吸収するためには、どんどん忘れることが肝心」だと記しています。それは、自らの経験に基づくものなのだとか。

経済的に制限のあった学生時代、著者は必要な本を図書館や友人から借り、必要なところを書き写し、コピーしていたのだそうです。しかしその結果として気づいたのは、労力と、あとの管理を考えると、必要な本は無理してもそろえる方が安上がりだということ。必要な情報や知識が身のまわりにあれば、必要に応じて取り出せばいいからです。そのことに気づいてからは、どんなに忘れても怖くなくなり、書物に対する関係が楽になったといいます。本が学んで覚える対象から、忘れる対象になったということ。

書物は、十分に楽しんだ後は、思考の回路を教え、思考にさまざまな膨らみを与える、貴重な武器庫になります。しかし、一番の禁物は、一冊の本に、何から何まで、学ぼうとする態度です。(126ページより)

すべてを記憶しようとすることよりも重要なのは、全部忘れたとしても記憶の片隅に残っている「チリ」。そこに知のエキスが残っているという考え方です。(122ページより)

一人を読む

自分で考える技術を得るための読書。その第一は、自分と思考の生理を共有しているような、これぞと思う書き手に出会うこと。その人の思想内容、政治的立場、生き方とは関係なく、思考の生理に、好き嫌いの順位をつけられるようになること、それは自分の思考の生理を発見する道だといいます。「◯◯はなじめなかった。◯◯の方が入っていけた」というように、生理的に判断するということ。

「しかし、他人の思考の生理を真似するとは、自分で考えることを放棄するのと同じではないか?」。この問いに、著者は反論しています。なぜなら、他人の生理を真似するということは、自分の生理を発見する唯一の道でもあるから。自分がこうしたいと考えていることはなかなか判断しづらいからこそ、自分の好みに合う人を発見できたら、その人の著作をすべて読んでみる。そうすることにより、著者の思考回路が自分のなかで回りはじめ、それが自分独自の思考回路をつくりあげていくことにつながるというわけです。(127ページより)

嫌いなものを読む

人間は臆病な動物で、思考もまた臆病。そしてその臆病さには2種類あるといいます。ひとつは、自分の周囲に高い垣根をつくって、たてこもるという手段。もうひとつは、さまざまな人の群れのなかに入り、自分の姿を消し去るという方法。そして、圧倒的に多いのは前者。

しかし、単に考えるだけではなく、「よく」考えようとするなら、嫌いなもの、敵とみなしているものの思考を読まなくてはならないというのが著者の主張。反論しがたく目の前に立ちふさがるもの、顔を合わせるのさえ嫌な人のものを読むべきだということ。

自由な思考とは、敵の思考をもつ存在者を許す思考です。強靭な思考とは、敵の思考をさえ、生きてみせる思考です。自由で強靭な思考、つまり、デリケートな思考とは、敵の思考を内包している思考のことです。(136ページより)

いわば、「敵の思考」を自分の血肉としてしまおうという発想。そこに到達するまでには相応の時間がかかるとはいえ、常に心しておくべきことであると著者は言います。それに、嫌いな人、敵とみなしていた人のなかに、自分と同じ思考の回路(生理)を発見して驚くことも稀ではないのだとか。だとすれば、それは新しい自分を発見したことになります。

異郷の地へ旅をする読書は、新しい自分を発見する旅でもあります。さまざまな人生を生きる旅です。私たちは、さまざまな人生を味わいながら、自分の思考の回路を充実させ、知と血のめぐりをよくしてゆくのです。(138ページ)

この章の最後に書かれていたこの一文は、とても印象的でした。(133ページより)

著者は、札幌大学名誉教授でもある哲学者。たしかにその表現に難解な部分がまったくないとは言えません。しかし、それでも抵抗なく読めてしまうのは、「伝えたい」という著者の意志がそこにあるからかもしれません。言葉の端々からはきっと、なにかを見つけ出すことができるはずです。

(印南敦史)