1909年、ガブリエル・シャネルが「シャネル」を設立。
シャネルはフランスのラグジュアリーブランド。ウェア、シューズ、ジュエリー、バッグ、財布、時計などのアクセサリー、コスメまで幅広く展開している。
ウェアではツイード素材を使ったアイテムがブランドのシグネチャーとなっている。香水のラインを増やしており香水では「NO.5」が最も有名で世界の香水ベストセラー。「シャネルのエスプリ」のキャッチフレーズで有名な、「ココ」、その他、「アリュール」、「ココ・マドモアゼル」、「チャンス」など現在でも人気の香水を発売していく。
シャネルの創立者、ガブリエル・シャネル(Gabrielle Chanel、通称ココシャネル)は1883年、フランス南西部ソーミュールに生まれる。父は行商人。母親が他界し、家族は方々に散り、シャネルは孤児院や修道院で育った。
シャネルの打ち出すファッションは、モノトーンな色が中心だが、それは修道院で黒などべーシックな服を着用していたからと言われている。ちなみに修道院の規律正しい生活の中で、シャネルはお針子としての技術を身につけている。
1905年、ガブリエル・シャネルは踊り子(歌手)を目指しキャバレーで歌う仕事に就く。美しさも兼ね備えたシャネルは、店の人気者となり、ミドルネーム、ココと呼ばれて親しまれた。これがココ・シャネル(CC)の由来で、有名なモノグラムに繋がる。
歌手をした時期に出会った、ブルジョワ出身の青年将校の愛人となり、その青年将校の出資で、1909年に帽子のブティックを開業。1910年、カンボン通り21番地に帽子店「シャネル モード」をオープン。その後も、シャネルはブランドの初期段階で、恋人から出資を受けて事業を拡大していく。装飾が多い帽子の多い中、シャネルのシンプルなデザインは多くの注目を集めた。帽子から衣服など徐々に展開を広げる。
過去の成功したデザイナーは皇室、女優などの影響力を利用してスタイルを提案していくことが多かったが、シャネルの場合は、その美貌と女性として持っていたカリスマ性、活動的な性格、生き方など自分自身がブランドの広告塔となった。
1913年、フランスのドーヴィル(DEAUVILLE)に新店舗を構える。1915年、フランスのピアリッツ(Biarritz)に初めてのクチュールハウスを出店。1918年、パリのカンボン通り31番地にクチュールハウスをオープン。
1919年、クチュリエとしてオートクチュールのコレクションを発表。シックで着心地の良さを追求し、シンプル&エレガンスを追求する。そのシンプルさは、彼女の考える女性の解放であり、女性のスタイルだった。
シャネルは「コルセットから解放した」という指摘が多いが、コルセットを外すスタイルは、ポール ポワレ、ランバンなどがすでに始めており、シャネルが先陣をきったわけではない。ただし機能的な側面を考えると、シャネルやジャン パトゥなどの功績は大きく、そのファッション哲学は女性の社会進出の先駆けとなった。身軽で動きやすい服を求めて、男性用の下着に使われていたジャージー素材にを取り入れたり、紳士ものであるツイード素材を女性用スーツに仕立て、女性がパンツを履くスタイルなどを提案した。
シャネルはまた、喪服でしかなかった黒をファッションの色として取り入れたが、このことに関して、「きらきらした衣装を作るのは簡単でも、リトルブラックドレスを作るのは難しい」と語っている。その他、ベージュ色を好み、「本当の大地の色」として、ジャージのスーツに織り込む。
1921年、オードゥ・パルファムNO.5が登場。名前の由来は、番号が付けられた実験ボトルが並ぶ研究室で、シャネルが5番目のサンプルを取り上げ「これにするわ」と言ったため。こうして世界の香水ベストセラーとなる「NO.5」が生まれた。その他、現在に至ってシャネルは口紅など化粧品でも有名なブランドだが、当時、シャネル自身が「メイクに光を」と語るほど、化粧品の開発に熱心だった。
ちなみに、シャネルの服を取り上げる上でキーワードとなる、シンプル、エレガンス、実用的な服は、40年代後半のディオールのニュールックと対照的であった。
1924年、最初のメークアップ コレクションを発表。同年、フレグランス、ビューティ製品を扱う香水の専門店「ソシエテ・デ・パルファン・シャネル」を設立。
1926年、「リトル ブラック ドレス」を発表。シンプルを追い求めたスタイルで、ファッション界に革命をもたらした。
1939年、第2次世界大戦が近づくと、ココは自らの店を閉め、クチュール界から引退するが、53年、シャネルはかつての助手たちに「今すぐ、来るように。私たちはあと10年しか働けないのだから」と電報を打って再びファッションの世界に復帰。
こうして、54年、シャネルがオートクチュールに復活。復帰はクリスチャン ディオールのニュールックをはじめとするスタイルが、女性解放とはかけ離れたものであることに反する形でのカムバックとの説もあるが、定かではない。
64年秋冬の「パンタロン・ルック」などシャネルはスーツを中心に、シンプルで着易い服を提案した。戦前のころと同様の、黒のテーラードスーツをメインにしたコレクションはファッションジャーナリストからは「過去のシャネルと変化なく、期待はずれ」と評価されたが、アメリカでは好評を得た。当時のアメリカは、すでに既製服が影響力を持ち出しており、実用的、機能的なデザインにシフトしつつあったからと言われている。
71年、シャネルが他界。シャネルの死後、ブランドはやや低迷した。ブランドを救ったのがカール ラガーフェルド。彼は83年からシャネルのオートクチュール、84年にはプレタポルテを担当し、数年で、シャネルの売上は大きく伸びた。
2000年代に入ってもその地位は揺るがず、2007S/Sコレクションで発表した白と黒を基調にしたミニスカート(ミニドレス)に大きなサイズのサングラスのスタイルは他ブランドにも大きな影響を与えた。
2008年、シャネルのアート・プロジェクトで、世界を巡回するアート展覧会「モバイルアート(MOBILE ART)」が、東京代々木競技場オリンピックプラザの特設会場で開催される。
2012年3月、日本で2012-13年秋冬オートクチュールコレクションが披露された。ヘアはサム・マックナイトと日本の加茂克也が担当。モデルもパリのショーでおなじみのステラ・テナント、リンジー・ウィクソンらが登場。会場にはバネッサ・パラディやサラ・ジェシカ・パーカー、安室奈美恵なども招待された。
2015年、メイクアップ アーティストのルチア・ピカが、グローバル クリエイティブ メークアップ&カラー デザイナーに就任。“赤の魔術師”と呼ばれ、カラーメイクアップが得意。約6年に渡って同職を務める。
2019年2月、カール・ラガーフェルドが死去。後任としてラガーフェルドと30年以上に渡り最も近い位置で仕事をしてきたヴィルジニー・ヴィアールがバトンを受けた。
2022年10月、クリエイターチーム「コメット コレクティヴ(COMETES COLLECTIVE)」が始動。複数のメイクアップ・アーティストがチームとなって、シャネルのメイクアップ製品の開発を担当する。シャネル初の試み。メンバーは、スペイン・バルセロナ出身のアミィ・ドラマ(AMMY DRAMMEH)、フランス出身のセシル・パラヴィナ(CECILE PARAVINA)、中国出身のヴァレンティナ・リー(VALENTINA LI)の3名。製品は2024年1月より発表。
2023年6月、2022/23年 メティエダール コレクションのショーを東京で開催。
2024年6月、ヴィルジニー・ヴィアールがアーティスティック ディレクターを退任。
2024年12月、元ボッテガ・ヴェネタのマチュー・ブレイジーがシャネルのファッション部門における新アーティスティック ディレクターに2025年より就任することを発表。オートクチュール、 プレタポルテ、アクセサリーの全コレクションを統括する。
マチュー・ブレイジーは、1984年、パリ生まれ。ブリュッセルのラ・カンブルを卒業後、ラフ・シモンズのメンズコレクションのデザイナーとしてキャリアをスタート。その後、メゾン マルジェラにて「アーティザナル」ラインのデザイン、そしてウィメンズのレディ・トゥ・ウェアのデザインを担当。2014年よりセリーヌにてシニア・デザイナーに就任。2016年から2019年までカルバン・クラインで再びラフ・シモンズの元で活躍。2020年にはボッテガ・ヴェネタのレディ・トゥ・ウェアのデザイン・ディレクターに就き、2021年から2024年12月まで、ボッテガ・ヴェネタのクリエイティブ・ディレクターを務めた。2025年、シャネルのアーティスティック ディレクターに就任。