教皇の同性カップル「祝福可能」はカタツムリの歩み NYTコラム
モーリーン・ダウド
母はクリスマスが大好きで、4月までツリーを飾っておくこともあった。(中略)私にとって、クリスマスは決して好きな祝日ではなかった。物質主義的で、ストレスのたまるものだと思ってきた。でも、1年で一番幸せな時期だという母の気持ちを尊重するようにしている。
今となっては、私のクリスマスは、より宗教と関係のないものになっている。聖職者による児童への性的虐待問題が明るみに出て、カトリック教会との結びつきが薄れたのだ。儀式や聖歌隊、お香の香りを懐かしく思う。(中略)
子どもの頃、意地悪な神父たちに会ったときに、母はよくこう言っていた。「教会はそれを取り仕切る男性たちそのものではないの。教会は神であり、神はすべてに優しく、公正なお方なのよ」。でも、(性的虐待などの)スキャンダルや隠匿工作に悩む教会や、多くの人を排除するような組織に忠誠を誓い続けることは、私にとってますます難しくなっていった。
欧米で教会が縮小している今、フランシスコ教皇は教会をより寛容で包括的なものにする使命を担っている。
18日、87歳の教皇は、「司祭は同性カップルを祝福することができる」と宣言した。しかし、カトリック教会と教皇は、同性愛の「根深い傾向」を持つ男性は司祭に就くべきではないとしている。
教皇は、「結婚は男女の間にのみある」という教義を変えることはなかった。祝福は宗教的儀式ではなく、「衣服、振る舞い、言葉」を結婚式に結びつけてはいけないという。
その代わり、司祭との面会、礼拝堂への参拝、巡礼、あるいは集団で唱える祈りの中で祝福を授けるのがよいとしている。
何もないよりはマシだ。2021年のローマ教皇庁の決定は、同性婚の祝福について強く非難した。神は「罪を祝福することはできない」と言及し、同性婚のような婚姻外の性的結びつきは「神の計画」に合致しないとした。その決定よりは確実にマシだ。
しかし、今回の宣言は限られ…
- 【視点】
今年の師走は、寝る間もないほど仕事に追われていた。日々の仕事に加え、原稿の締切があったからだ。内容はざっくり言うとヨーロッパの歴史と人々の暮らしについて、食べ物の観点から宗教を通して考えるというものである。宗教とは、キリスト教のカトリック、
…続きを読む