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Memories of the Second World War in Eastern Europe

2009, TRENDS IN THE SCIENCES

特集2◆ 歴史認識問題と国際関係 東欧諸国における 第二次世界大戦の記憶 篠原 琢 こうした説明に適合しない歴史的な記憶を表 1. 公式史学 社会主義諸国では、一般に言論が統制され、 あった。公式史学では、第一に、共産党勢力以 共産党政権の存立に疑いをさしはさませるよう 外が担った「民族解放闘争」の存在は容認されな な主張をおおやけにすることはできなかった。 かった。第二の問題は、ソ連との関係である。 とりわけ、歴史学は、社会主義体制に正統性を 1939年8月、ドイツがポーランドに侵攻する直 与える役割を担っていた。 前にソ連と結んだ「独ソ不可侵条約」は、附帯さ 現代史、なかでも第二次世界大戦の記憶は、 れた秘密条項で、東欧におけるスターリンのソ 東欧諸国にとっては、もっとも政治的に敏感に 連と、ナチス・ドイツとの勢力圏の分割を決め ならざるをえない領域であった。この地域では、 ていた。ソ連 に占 領 された国 々 にとっては、 社会主義体制、共産党一党独裁体制は、第二次 1941年6月に独ソ戦がはじまるまで、ソ連はナ 世界大戦の結果、成立したからである。公式史 チス・ドイツの実質的な同盟国として立ち現れ 学は、ファシズムを資本主義体制=帝国主義体 たのである。この時期や、あるいは第二次大戦 制の矛盾が究極的に生みだした独裁体制と位置 末期に、赤軍が占領地域で行ったことには、公 づけ、第二次世界大戦を「全世界の民主勢力と 式史学が主張する「民族解放闘争」への「支援と ファシズム」の戦いとみなした。ナチス・ドイ 連帯」という説明とは大きく矛盾する行為が数 ツとその傀儡政権に侵略、支配された東欧諸国 多くあった。これらの点は、共産党政権の正統 の第二次世界大戦は、ファシズムからの東欧諸 性、ソ連との関係を直接脅かす政治性を持って 民族の「民族解放闘争」としてとらえられ、この いたがゆえに「歴史の白斑」とされた。 「民族解放闘争」は、階級的に抑圧された人々の 「人民革命」へと連動していくはずであった。そ さらに、第二次世界大戦を「民族解放闘争」 、 「人民革命」と見る視点からは、原理的に排除さ して「民族解放闘争」、「人民革命」を指導し、 れる記憶が存在した。公式の歴史学では、第二 その前衛を担ったのが共産党と、それを支援し、 次世界大戦における解放の主体、抵抗の主体は、 連帯したソヴィエト赤軍だった、というのであ もっぱら「民族」である。 「民族」と「人民」は本 る。「民族解放闘争」の前衛を担った、という 来別の性格を持ったカテゴリーであるはずだが、 「歴史的事実」こそが、戦後における共産党の執 抵抗の主体としての「人民」はある政治的な境界 政を正当化したのであり、またそこに示された を持ち、独自の歴史的性格を持つ「民族」として 「連帯」こそが、ソ連と東欧各国との同盟関係の 把握された。 「人民」とは決して抽象的で、コス 源とされたのであった。 88 明することは、公式歴史学の枠を超えることで モポリタンな階級として考えられたのではなく、 学術の動向 2009.3 PROFILE 篠原 琢 (しのはら たく 1964年生) 東京外国語大学准教授 専門:東・中欧近現代史 あくまで個別的な境界を持ちつつ、相互に連帯 する「民族」として現実の主体となる。逆に、 「民族」的個性の本質をなすものは、働く「労働 者・農民」であり、 「人民的性格」を持つものと 考えられた。単純化していえば、 「反ファシズム 闘争」=「人民革命」は、容易に「反ドイツ闘 トは、戦後の社会主義諸国ではナチス・ドイツ 争」=「民族解放闘争」と等号で結ばれうるので の残虐さを示す象徴的な行為として「反ファシ ある。これは、19世紀に成立した東欧の国民史 ズム」教育の中核にあった。しかし他方、 「解放 の叙述の型の延長線上にあり、そこに階級闘争 の主体」=「民族」に統合できない存在としての という二次的構築物が載せられたものといって 「ユダヤ人」の問題は、常に「民族解放の物語」に よい。 微妙だが、決定的な不協和音をひびきわたらせ ていた。1950年代の社会主義諸国での「反シオ 2.「国民史のカノン」への挑戦 ニズム・キャンペーン」には、明確に反ユダヤ 主義的色彩が伴ったが、このことは戦前から東 「民族解放闘争」を第二次世界大戦の記憶の中 欧諸地域に存在する反ユダヤ的傾向との連続性 心に置き、解放の主体を「民族」=「人民」とする を想起させずにはおかなかった。実際、ホロコ ことによって、第二次世界大戦史は、特定のプ ーストは、占領下での「民族の受難」の物語に平 ロットを持って叙述された。 「悲劇」 (占領によ 仄があうかぎりにおいてのみ参照され、いわゆ る民族の受難)と「英雄譚」 (抵抗の物語)であ る「ユダヤ人問題」が独自の問題として語られる る。このプロットによって、多くの問題が見え ことはなかったのである。ましてや、 「ホロコー なくなった。その一つは占領下の「対敵協力」 スト」に対する当該社会の一定の「責任」を問う の問題である。 「ファシスト=ドイツ占領権力」 ことは、 「悲劇と英雄譚」と相容れるものではな 対「解放闘争の主体=民族」という図式のなかで かった。 は、 「対敵協力者」は、 「解放の主体」から自動的 さて、「公式史学」の対極にある「反体制史 に外在化され、「民族の敵」として糾弾された。 学」はどのようだったのだろうか。共産党政権 第二の問題は、「ホロコースト」の問題である。 の潜在的なライヴァルとして排除された政治勢 東欧は、ホロコーストの犠牲となった「ユダヤ 力が、抵抗運動の「より本当らしい」担い手と 人」の多くの出身地域であり、かつその主な舞 して自己主張するのはごく自然なことであった。 台となった地域であった。たしかにホロコース 学術の動向 2009.3 「民族解放闘争」を担った歴史的正統性を主張す 89 特集2◆ 歴史認識問題と国際関係 ることは、直接に現存の社会主義体制の不当性 文、 「哀れなポーランド人がゲットーを見つめて を訴えることを意味したからである。東西冷戦 いる」が、大きな論争を呼び起こすことになる。 という構図のなかで、共産党の解放闘争神話に、 ちなみにこの論文は、チェスワフ・ミウォシュ みずからの抵抗運動の歴史的真実性を対置する の詩、 「哀れなキリスト教徒がゲットーを見つめ ことは、当然のことながらしばしば強い反共イ ている」を下敷きにしている。ここからはじま デオロギーと結びつくことにもなった。この潮 り、1990年代のイェドヴァブネをめぐる論争に 流は、公式史学の主張するソ連軍による「解放」 至るまでの議論は、ポーランド国民史の「カノ を、新たな「占領」のはじまりと位置づけるこ ン」に根本的な疑いを提起し、第二次世界大戦 とによって、 「民族解放闘争」は第二次世界大戦 についての「対抗的記憶」に関心を集めるもの から依然として継続している、という立場をと であった。 ることもあった。その意味で、 「悲劇と英雄譚」 は、さらに戦後史の叙述に持ち越されたのであ る。 90 ブウォンスキが求めたのは、たとえそれが控 えめにいってホロコーストという犯罪に対する 「傍観」だったとしても、ポーランド人が「ホロ 後に見るように、ポーランド社会のホロコー コースト」への一定の関与を認め、ポーランド ストへの一定の「加担」が論じられはじめたと 史のなかに、ユダヤ人との共存、そしてその破 き、もっとも強くこれに反発したのは、むしろ 局を正当に位置づけることであった。共産党の 旧国内軍をはじめとする「反体制派」の人たち 支配的歴史像のみならず、国民史のカノンに挑 であった。公式史学と反体制史学は政治的には、 戦しようとする流れは、1970年代末から80年代 1 8 0 度の差異を持って対峙しているにもかかわ にかけて東欧の異論派のなかで同時的に現れる らず、第二次世界大戦の記憶を、 「民族」を主体 が、その同時性についてはそれを指摘するだけ として構築し、伝えていくという基本的な語り に留めておこう。 の位置を共有しているかぎりにおいて、互いに カトリック系の雑誌を中心に展開された議論 互いの陰画をなしている。より真正な「民族の は、歴史的、というよりは、道徳性をめぐるも 正史」の争奪戦といってもよいだろう。 のだったが、 「受難と抵抗」の物語が要求するの ポーランドにおいてポーランド社会とユダヤ は、道徳的に無垢な犠牲者であり英雄であった 人との関係、なかんずくドイツ占領中のポーラ から、ブウォンスキの議論は、大きな反発を呼 ンド社会のホロコーストに対する態度が問題と んだ。近年の歴史研究で明らかにされているこ して焦点化するのは、1970年代末から80年代の とは、日常的な殺人と暴力の光景や、大規模な はじめのころであった。これが伏線となって、 財産の移動(ユダヤ人資産の「アーリア化」 )に 1987年、文学研究者のヤン・ブウォンスキの論 よって、ドイツ占領下のポーランド社会は、深 学術の動向 2009.3 刻な道徳的解体を経験したことである。1946年 ならないとする立場) 、2. 開かれた弁護、あるい のキェルツェのポグロムのように、それは戦後 は穏健な弁明(グロスの論点を認めながら、歴 のポーランド社会にも深い傷跡を残すものであ 史的連関を重視し、道徳的判断を絶対化しない) 、 った。 3.閉じた弁護、あるいは極端な弁明(歴史的連 この議論を極端な形で提示したのは、2000年 関をもって、当時のポーランド社会の態度を免 に公刊されたトマシュ・グロスの『隣人たち』 罪する立場) 、4.拒否(ここには提起された問題 という著作である。これは、1941年7月、すな をユダヤ人の新たな陰謀とする極端な立場もあ わち独ソ戦の開始直後にイェドヴァブネという ります) 。以上の4つである。 町で起こったユダヤ人の虐殺事件を扱っている。 当時のポーランド共和国大統領、クファシニ グロス自身は、父親をユダヤ人とする歴史家で、 ェフスキの立場は、1に近いものであった。この 1968年にポーランド出国を余儀なくされ、合衆 問題は、当面、国民記憶院の報告をもって、沈 国で活躍している。 静化しているが、後に見るように歴史研究者に ここにいう「隣人たち」とは、この虐殺にか 残された課題は少なからずあるだろう。 かわったのが、地域のポーランド人だったこと を示している。ブウォンスキ論文をめぐる論争 2. 国民記憶院 (Institute of National Remembrance) や、その後の国内軍の反ユダヤ主義に関する論 争の論点を引き継ぎながら、イェドヴァブネ論 ここで、国民記憶院(I n s t y t u t p a m i c i 争は、社会全体を巻き込み、政治指導者にも一 narodowej)について、紹介してみよう。ポー 定の立場の表明を迫った点で、以前の論争とは ランドにおける共産主義体制の崩壊後、過去を 比較にならない深みと広がりを持っていた。論 いかに説明するのかをめぐって広範な論争が行 争は、ポーランド社会の反ユダヤ主義や、ホロ われたが、1998年12月セイム(ポーランド議会 コーストへの関与をめぐるものであったが、従 下院)は、 「国民記憶院―ポーランド国民に対す 来の論争が、 「無関心」 、 「傍観」 、 「暗黙の協力」 る犯罪訴追のための委員会」の設立に関する法 を問題としたのに対して、虐殺への「積極的加 を採択した。国民記憶院が活動を開始したのは 担」がここでの焦点となったから、反響も巨大 2000年の後半のことである。 であった。 歴史家のアンジェイ・パチコフスキは、グロ 設立法の序文には、この機関の設立にあたっ てセイムが意図したことが次のように書かれて スの著作への反応として、4 つの型を挙げてい いる。 る:1.自己批判的立場(事件が象徴するものを 「第二次世界大戦中と戦後において、ポーラン ポーランド国民史に有機的に取り込まなければ ド国民の被った多大な犠牲と損失、損害を記憶 学術の動向 2009.3 91 特集2◆ 歴史認識問題と国際関係 し、占領者に対して戦いを成し遂げるというポ 部局からなっている点であろう。 ーランド国民の愛国的伝統がナチズム、コミュ ・ ポーランド国民に対する犯罪訴追委員会 ニズムにも向けられたこと、そして、独立ポー ・ 史料保存・公開局 ランドを再興し、自由と威厳とを守ろうという ・ 公教育局 ポーランド人の行いに思いをいたし、平和と人 つまり、国民記憶院には、史料保存・研究・ 道に対する犯罪、戦争犯罪を訴追する義務を念 教育という通常の学術機関の持つ機能だけでな 頭に、国家によって行われた人権侵害という不 く、犯罪を訴追する検察機能が備えられている 正を正すために、すすんで補償を行うことは義 のである。ここには現職の検事が雇用されてい 務だということを忘れてはならない。国民に対 る。 して、権力によって行われた無法な行いは隠さ れてもならないし、忘れられてもならないと、 は、その目的は何よりも人民共和国時代の権力 私たちは確信する」 。 犯罪を解明し、場合によっては関係者を処罰す 記憶院の主な課題は、1939年から1989年にか ることにあるという点である。国民記憶院が収 けての抑圧システム、および全体主義に対する 集・保存する史料としてもっとも重要なのは、 多様な形の抵抗を調査し、不正を被った人々の 人民共和国時代の公安機関の文書で、旧東欧圏 ために、そしてナチス、共産主義体制の犯罪を では、例外的に広く研究者に公開されている 訴追するために、史料を整理することとされて (公安機関の文書は、政治的に利用されたり、社 いる。 国民記憶院を統括するのは、評議会(K o l e - 92 国民記憶院の設立過程からして明らかなこと 会的不和をもたらしたりする恐れがあるので、 たとえばチェコ共和国では、いまだに公開に関 gium)で、評議員には、セイムで絶対過半数の するルールがはっきりしていない) 。もちろん、 信任を得た者が任命される。1 1 名のうち、9 名 人民共和国時代の現代史について、 「叙述の型」 は政党が推薦し、2名は最高裁判所(Krajowa すら明確でない現状からすれば、そこに研究が Rada S downictwa、憲法裁判所の機能がある) 集中するのは、当然であろう。しかし問題は、 が推薦する。評議会は、記憶院の総裁候補を推 記憶院の設立趣旨が、むしろ先に述べた「受難 薦し、セイムがこれに投票するが、候補者は、 と抵抗」の物語に従っていることであった。右 セイムで有効投票総数の三分の二を獲得して、 派が記憶院の設立に熱心だったことにも注意を さらに上院の承認を得てはじめて、総裁に就任 払わなければならない。チェコ共和国でも同様 する。国民記憶院の総裁は、多くの免責特権を の機関が設置されたが(二つの全体主義研究所) 、 持ち、セイムの同意なしには逮捕することがで こちらでは「反共」的な色彩がよりはっきりし きない。さて、この機関の特徴は、次の三つの ている。 学術の動向 2009.3 設立趣旨からすると、記憶院によるイェドヴ はエンデツィアの牙城の一つであった) 。歴史的 ァブネの研究は、いわば「望まれなかった」仕 連続性という縦軸と、戦争による変化という横 事であった。出された結論が、 「開かれた弁明」 軸の交わりのなかに、この事件は定位できるだ と「閉じた弁明」の間にあり、ポーランド社会 ろう。この点で検討しなければならない問題こ の反セミティズムに踏み込まれなかったのは、 そが、歴史研究者に開かれた新たな領域である。 その表れかもしれない。しかし、記憶院の仕事 歴史における倫理性の問題への見通しは、こう がグロスの提起に対して消極的意義しか持たな した領域の研究の深化とあいまって開かれてい かったというのは誤りである。グロスの提起が、 くものなのである。 いわばドイツに対するゴールドハーゲンの提起 のように、ことの構図を過度に単純化したもの であって、それに続く議論で、道徳性の問題が 前面に出てしまったのは、問題提起の初発の段 階として、いわばやむをえないものであった。 記憶院の仕事は、ポーランド社会とユダヤ人 という二項対立的把握を拒否し、事件を歴史的 文脈のなかで理解するように努めることにある。 たとえ、それが弁 明 論 的 に響 いたとしても、 「1941年夏」という時点で、イェドヴァブネとい う具体的な場所がおかれた文脈を理解すること なしには、この事件を考えることはできないで あろう。イェドヴァブネは、ドイツとソ連の軍 事境界線上に近いソ連側にあったので、独ソ戦 がはじまって、最初にドイツ軍に占領された地 域であった。ソ連占領中の経験と、ドイツ軍占 領下での暴力が、この事件の背景にあったこと は疑いない。戦争と占領政策が地域社会にもた らした変化を検討しなければならないのである。 他方、ポーランド社会、あるいはより限定的 にイェドヴァブネに存在した反セミティズムの 評価も重要である(イェドヴァブネを含む地域 学術の動向 2009.3 93