Wild Style Train by Dondi in The Bronx 1981 photo by Charlie Ahearn
ニューヨークに移り住んだばかりのチャーリー・エーハンは、スミスプロジェクトという公営住宅地の壁に描かれたグラフィティを目にする。漫画のキャラクターやLEEの大きなロゴが描かれたパワフルな作品。それこそが、後に『ワイルド・スタイル』で主人公を演じることになるリー・キノネスによるグラフィティだった。
リーの作品に感銘を受けたチャーリーは彼と知り合いになり、自分の作品に出てもらいたいと秘かに願っていた。そんな時、タイムズスクエアの展覧会で、一人の男に話しかけられる。彼の名前はフレッド・ブラスワイト a.k.a. Fab 5 Freddy。チャーリーが映画を撮っていると聞いた彼は「ラップ音楽とグラフィティを融合させた映画を作らないか?」とチャーリーに提案する。
当時のシーンで顔が広いFab 5 Freddyが仲介役となり、リーと知り合ったチャーリーは、リーを主役に映画を作るべく動き始める。当時はまだインディペンデント映画が世に出ることはほとんどなかった時代。まだジム・ジャームッシュやスパイク・リーもまだ有名になっていなかった。資金集めに苦労しつつも、チャーリーは脚本を書き、キャスティングを進めていった。
グラフィティをボムることは当時すでに違法行為として取締られ、リーも警察にマークされていた。だから、映画を作るにあたって、出演者はほぼ自分自身がモデルになっていても、名前を変え、あくまで“架空のキャラクター”して出演することになった。
リーは、リー自身よりもより典型的なグラフィティライターとして描かれた。闇に紛れて正体を隠すための黒い帽子もリーは普段被っていなかったが、ライターの象徴として劇中では被っている。
映画の準備をしている頃、「リーがPINKというタグを描く、ワイルドでかわいい女の子とつきあっているらしい」という噂を耳にしたチャーリーは実際に恋愛中だったふたりのロマンスをストーリーに取り入れることにした。そんな風に現実に起きていることはどんどん脚本に取り入れられていった。
チャーリーは、伝説のライターPHASE2にも出演してもらいたかったが、実現しなかった。PHASE2の伝説のライターという設定は、Fab5 Freddy自身のシーンの仕掛け人という設定とミックスされ、フェード(PHADE)というキャラクターができあがった。
Busy Bee Wild Style tour Japan 1983 photo Charlie Ahearn
ロックステディクルーは、レディピンクがぜひ映画に登場させたいとパーティに呼び、チャーリーに引き合わせた。彼らはその場で手拍子に合わせてダンスを披露し、すっかり魅了されたチャーリーは彼らにも出演してもらおうと決めた。
こうして、まだ「HIPHOP」という言葉も存在していなかった当時、Fab 5 Freddyがハブになり人と人とがつながって、地下鉄やアンダーグラウンドで活動していたグラフィティのカルチャーと、パーティで活動していたDJやMC、ダンサーのカルチャーが融合した映画『ワイルド・スタイル』は出来上がったのだ。
1983年、カズ、フラン葛井夫妻は日本での『ワイルド・スタイル』劇場公開に合わせて、総勢36名のスタッフと出演者を日本に招聘した。東京では、西武百貨店でイベントをやったり、「笑っていいとも」にも出演するなどプロモーション活動をこなし、ツバキハウス(当時新宿にあったクラブ)でライブを行った。これが、日本人が初めてHIPHOPに触れた歴史的事件となり、この時のパフォーマンスを見たのちのDJ KRUSHがDJを志すきっかけとなったのは有名なエピソードとして知られている。