鈴葉視点:笑顔でいてほしいから

 街灯の明かりが雪に反射して淡い輝きを放つ中、私たちは手を繋いで歩いていた。指先が触れ合うたび、彼女の小さなぬくもりが伝わってくる。ひんやりとした冬の空気が頬を冷やすけれど、その手だけは驚くほど温かい。


 私たちは今、静かな時間を共有している。だけどその裏には、胡桃さんの抱える痛みがあることを知っていた。だからこそ、この空気を壊さないように、私はできるだけ優しく問いかけた。


「明日は学校行けそうですか?」


「あはは、明日の私になってみないと分からないけど、頑張ってみる」


 その声は明るいようで、どこか頼りない。

 不安定な心を抱える彼女の隣で、私は何ができるだろう。きっとこの手を繋いでいるだけじゃ足りない。でも、今はこれが最善の方法な気がしてならない。人のぬくもりほど、心に寄り添えるものはないから。


「……どうやったら仲直りできるかな」


 胡桃さんがポツリとつぶやく。その声はまるで吐息のように小さく、けれど確かに耳に届いた。


「謝るにしても、ただ私がこの気持ちを楽にしたいだけで、結局相手にエゴを押し付けてるだけな気がするの」


 表情に浮かぶ自責の色が、私の胸を締めつける。彼女は自分を責め続けている。それでも、自分の心の痛みを他人に押し付けることだけはしたくないんだろう。そんな彼女の優しさが、余計に私を切なくさせた。


 どうしてこんなにも健気で、優しい人が苦しまなければならないのだろう。そんな不条理な現実に、私はどうにかして抗いたかった。


「私じゃ、ダメですか?」


「え……?」


「仲直りなんかしなくていいですよ、私が新しい友達になります」


 彼女の表情が揺れる。信じられないような、でもどこか救いを求めているような目。


「でも……」


「今年で中学卒業なんで、四月まで耐えてください。胡桃さんと同じ高校に進学します」


「な、なにそれ!?そんなテキトーに決めていいの?」


 彼女が思わず声を上げる。その反応がおかしくて、私はクスリと笑った。


「適当なんかじゃないです。胡桃さんにはずっと笑顔でいてほしいので」


 その瞬間、握っていた彼女の手がふっと離れる。私は少しだけ前を歩き出してしまい、慌てて振り返ると、彼女がしゃがみ込んで雪を掴んでいた。


「何考えてるのバカ!」


 彼女は小さな雪玉を私に向かって投げてきた。それは私の肩に軽く当たり、さらさらと崩れる。


「大真面目です。それに、私……胡桃さんの笑顔が好きですから。一緒に居たいです」


「鈴葉ちゃんズルいよ……まるで告白じゃん」


 彼女の頬がほんのり赤く染まっているのが、雪の白さに映えて見えた。その様子があまりにも可愛らしくて、つい笑みがこぼれる。


「たしかにそう聞こえますね」


 私の言葉に、胡桃さんはさらに顔を赤くした。胸がキュッと締めつけられる。この感情はなんだろう。ただの友情以上のものが、心の奥から湧き上がってきそうな気がした。


 私はそっとコートの中から手を差し出す。


「手、冷えますよ」


 胡桃さんはしばらく迷うようにその手を見つめていたけれど、やがて再び私の手を掴んだ。彼女の指先は少し冷たいけれど、その中に確かな温もりを感じる。


 ――その瞬間、彼女は私を思い切り引っ張った。


「わっ!」


 バランスを崩し、私たちは雪の上に倒れ込む。ふわりと舞い上がる雪が視界を覆い、冷たさが背中から伝わってきた。


「ちょ、ちょっと胡桃さん!」


「ごめん、つい……」


 彼女は笑いながら、申し訳なさそうに私を見つめる。


「……胡桃さんのそういうところ、好きです」


 気づけば、そんな言葉が口をついていた。


「な、なにそれ。ほんと、ズルい……」


 この人を守りたい。そばにいて笑わせたい。思いが、雪の静寂の中で静かに膨らんでいくのを感じた。

 空から、舞い落ちる雪が私たちの頬にそっと触れる。見上げた空に向かって手を伸ばすと、視界が不意に暗くなった。


「胡桃、こんなところで何してるの?」


 その声は、まるで冬の風そのもののように冷たく澄んでいた。胡桃さんと私の間に、スッと影が差し込む。見上げると、整った顔立ちに鋭い眼差しの女性が立っていた。長い黒髪はさらりと流れ、雪の中でもその存在だけが妙に浮いている。


「あれ!? 美琴ちゃん、どうしてここに?」


 胡桃さんが驚きつつも嬉しそうに声を弾ませる。


「こっちのセリフよ。心配して何回も連絡したのに」


「えへへ、ごめんね」


 そのやり取りをぼんやりと眺めながら、私は口を挟むタイミングを逃していた。ただ、冷たい空気の中で交わされる言葉だけが心に染み込んでくる。


「先生から風邪って聞いたけど、そんな風には見えないわね」


「うん、ちょっと気分が乗らなくて、ズル休みしちゃった」


 まるで私がそこにいないかのように会話が続いていく。2人の親密さに、私は微妙な疎外感を覚える。けれど、それが何なのかはっきりとした形を持たない。ただ、彼女の存在が私の中に引っかかりを残していくのだ。


「あ、紹介するね。友達の鈴葉ちゃんだよ。」


 唐突に振られた言葉に、私はハッと顔を上げる。


「篠澤鈴葉です」


「立花美琴よ、よろしく」


 美琴さんと呼ばれたその人が、すっと手を差し出してきた。ためらいながらもその手を取る。雪の冷たさと同じくらいひんやりとした感触が伝わる。けれど、それ以上に何か別のもの――説明のつかない違和感が心に芽生えた。


 あ、この人、苦手だ。


 握手をした瞬間、そう思った。指先に伝わる不穏な感覚。彼女の目が一瞬だけ細められた気がして、背筋がぞくりとした。


「篠澤……ね」


 低くつぶやかれたその言葉に、思わず眉をひそめる。


「なんですか?」


「いや、何でもないわ」


 そう言って、握手をそっと解いた。


「うちのおバカちゃんをよろしくね」


「バカじゃないわ!!」


 胡桃さんがすかさず声を上げるが、美琴さんは意に介さず微笑むだけだった。


「元気そうでよかった」


 美琴さんはそれだけを言い残し、雪を踏みしめて歩き出す。その後ろ姿は、孤高で冷たい。私の横を通りすぎる瞬間、彼女はふいに体を寄せ、そっと耳元で囁いた。


「胡桃に関わらないで」


 たった一言。しかし、それがまるで氷の刃のように突き刺さる。私はその場で立ち尽くした。


 関わらないでって、どういう意味?


 頭の中でその言葉が何度も反響する。振り返ると、胡桃さんは無邪気に手を振っていた。


「またねー!」


 その姿はどこか幼い妹が姉に向ける笑顔のようで、妙に切ない。


 美琴さんの言葉。そして胡桃さんの無邪気な笑顔。どちらも私の心を締めつける。


 やがて美琴さんの姿が見えなくなり、私と胡桃さんだけが雪道に取り残された。沈黙の中、雪を踏む音だけが規則的に響く。


「ここまででいいよ、もうすぐ家だから」


 胡桃さんが立ち止まり、振り返った。


「そうですか……気をつけてくださいね」


 短い言葉を交わして彼女を見送る。その瞬間、冷たい風が私の頬を刺すように吹いた。

 だけど、それ以上に寒いのは、美琴さんの冷たい視線と言葉が私の心に残した余韻だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る